天下統一を前にした豊臣秀吉が関東と東北地方の大名を宇都宮城に集め、処遇を決めた「関東・奥羽仕置」に伊達政宗が遅参し、事情を記した自筆の書状が発見された。 栃木県立博物館が13日、発表した。当時、政宗が居城としていた米沢城(現在の山形県)を出発してから宇都宮までの行動は明らかになっていなかった。専門家は「小田原攻めに続いて、2度目の遅参に政宗が焦る様子も伝える内容」と評価している。 書状の日付は天正18年(1590年)7月27日の「戌(いぬ)刻」(午後8時)。23日に米沢城をたったが、人馬の疲弊などで宇都宮への到着が遅れていると説明。26日の秀吉の到着に間に合わなかったことを「覚悟のほかに候」(予想外でした)とし、「今夜に打ち立ち候いて、明日は四ころに参るべく候」(今夜には出発し、明日午前10時頃までには参上できると思います)と、徹夜で向かうとしている。