43人が犠牲になった雲仙・普賢岳(長崎県)の大火砕流から3日で25年になる。記者やカメラマン16人が死亡し、災害報道の在り方に教訓を残した現場には、佐賀県三養基郡みやき町の元カメラマン眞子生次さん(69)もいた。脳裏に焼き付いている光景は、報道の使命と安全のはざまで葛藤した体験の記憶でもある。 「しとしと雨で5、6合目まで霧の向こうに隠れていてね。その中から、わっと噴き出てきた」。1991年6月3日午後4時8分。眞子さんは大火砕流の瞬間を鮮明に覚えている。 当時は全国紙の佐賀支局の嘱託カメラマン。最初の火砕流が発生した5月下旬、現地に入った。火口から直線で4キロほど離れた場所などに報道陣はいた。「何度も火砕流は起きていたけれど、遠くで煙がぽーんと上がるだけで、大したことないと思うようになっていた」。油断が生じた時、地響きとともに突如、大火砕流が眼前に現れた。
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