『閉塞感は過去を捨てたから』 ---- 情報処理学会 インタラクティブ・エッセイへのコメント 星野 力 情報処理学会のホームページと学会誌で,自由な意見表明と討論を目指して設けられた「インタラクティブエッセイ」というコーナに,筑波大学加藤和彦氏から「閉塞を打破しよう,箱庭から飛び出そう」というエッセイが投稿され,議論が巻き起こった(情報処理学会誌 Vol.42,No7). いま花盛りのIT技術も,アメリカから運んできたいわば「輸入住宅」のようなもので,われわれはそれを日本人好みに内装を変えたり,和室を作ったりしているだけだという.そうだとしたら,日本は将来,町工場のように組立工作やリフォーム技術だけで生きていくしかないのだろうか? いや,それも中国のように「世界の組立工場」を称している国には勝てないだろう.日本はリフォーム業や組立業でも生きていけないのだ.ウィンテルの支配の下で,
1956年、コンピュータ科学者のグループがダートマス大学に集まり、当時としては新しいトピックについて議論をかわした。そのトピックとは「人工知能」である。 ニューハンプシャー州ハノーバーで開催されたこのカンファレンスは、コンピュータで人間の認知能力をシミュレートする方法に関する、その後の議論の出発点となった。カンファレンスでは、「コンピュータは言語を使用できるか」「コンピュータは学習できるか」「創造的な思索と非創造的だが有効な思索を分ける要因はランダムさ(偶発性)なのか」といったさまざまな議論が行われた。 議論は、学習能力をはじめとする人間の知能が、原則として、コンピュータのプログラムでシミュレートできるくらい詳細に記述することができるというの大前提のもとで行われた。 出席者には、当時ハーバード大学に籍を置いていたMarvin Minsky氏、ベル研究所のClaude Shannon氏、IB
(ちょっとだけ追記しました。その他1/25のあたりも見てみてください。) "Can programming be reinvented?"というタイトルでの発表。東工大と東大で似たような発表をしたのだが、ストーリーラインが比較的新しいため、先にやった東工大での発表には反省点がいろいろあり、それが東大での発表に生かされた形になったのは否めない、かもしれない。以下は、かなり再現性の低いメモ。詳細はさらに聞いてください。「私」はもちろんAlan Kayを指します。 近所の人から、「なんで新しいコンピュータのほうがWindowsの起動やMS Wordの起動が遅いの?」、「大きいディスクがついているはずなのに、なぜ使える容量が少なくなるの?」、「アップデートをしたら、何で再起動しなくてはいけないの?」という質問をされる。なかなか良い質問である。 私自身も、コンピュータに関する疑問がある。「なぜ、コン
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