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ブックマーク / call-of-history.com (12)

  • ザビエルはキリスト教の矛盾を論破されたのか説得したのか問題

    ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日人 – るいネット 『ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日人』によるミスリードと嘘 – Togetter 『日の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日人が彼に決まって尋ねた事があります。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日にこなかったのか」ということでした。そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。 つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日人はザビエルにこういう質問を投げかけた。 元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日人が追求するわけです。 「あなたの信じている神様というの

    ザビエルはキリスト教の矛盾を論破されたのか説得したのか問題
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    moons 2018/07/04
  • 「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」上田耕造 著

    2018年6月現在で最も新しく(2016年発売。2017年刊の 堀越孝一著「ジャンヌ=ダルクの百年戦争 (新・人と歴史 拡大版)」(清水書院)があるがこちらは1991年刊の再刊。こちらもお勧めの入門書である。)、簡潔にまとまっていて手軽に入手できるジャンヌ・ダルク入門書である。ふくろうのシリーズらしく図版が豊富で、ジャンヌの多数の肖像画はもちろん、地図や系図、戦闘図など多数収録されているので直感的にわかりやすい。 第一章では百年戦争の推移が前史となるノルマン・コンクエストから紐解かれ、第二章でジャンヌの生涯を追い、第三章では「ジャンヌ・ダルクを読み解く」と題して三つのテーマからジャンヌの実像に迫る内容となっている。ジャンヌ・ダルクを描くというよりも百年戦争史の中にジャンヌ・ダルクを位置づける試みがなされているといえよう。 その第三章だが、「ジャンヌ・ダルクはフランス軍を勝利に導いたのか

    「図説 ジャンヌ・ダルク(ふくろうの本」上田耕造 著
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    moons 2018/06/24
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
    moons
    moons 2015/11/11
  • 「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著

    ビスマルクというと最近はすっかり第二次大戦中のドイツ海軍の戦艦、しかも美女ということになっているが、元々は鉄血宰相として知られた十九世紀プロイセンの政治家、ドイツ帝国建国の立役者で、芸術的な外交手腕で欧州にビスマルク体制として知られる勢力均衡を生み出したオットー・フォン・ビスマルク(1815~98)のことだ。彼の存在感は絶大で、日の明治維新の元勲たちもこぞって彼に憧れ、彼を範として近代国家建設に邁進した。 ビスマルクは確かにすごかった。十九世紀欧州政治に冠絶した存在であった。しかし、その手腕や影響力は実際どんなものだったのだろうか。ビスマルクの評価についてはその死後から、国民的英雄として神話化するものから後のヒトラーに繋がるナチズム的支配体制を築いたと断罪するものまで紆余曲折、激しい論争を経て、実証的なビスマルク像が形成されてきたのだそうだ。書は、近年の研究成果を踏まえて、等身大の政治

    「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著
    moons
    moons 2015/10/17
    ビスマルクの個人的な技量、しかもわりと行き当たりばったりで明文化できやいやつでどうにかしていたので、一人いなくなると運用できなくなるシステムみたいなやつや。ビスマルク体制
  • 「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著

    太平洋戦争における日は通信を傍受され、暗号を解読され、偽情報に撹乱され、連合軍の兵力を見誤り、情報分析を疎かにして慢心と理想論とで作戦を立てて失敗を繰り返し・・・と情報戦で完敗したが、書は戦前日の情報活動はどのようなものだったのか、どこに問題があったのかを概観した一冊である。 基的な用語がおさえてあるのでインテリジェンス入門書として有用だ。生情報やデータが「インフォメーション」、「インフォメーション」を分析・加工した情報が「インテリジェンス」で、「インテリジェンスの質は、無数のデータから有益な情報を抽出、加工することによって政策決定サイドに『政策を企画・立案及び遂行するための知識』を提供することにある」(P7)。国益・国家戦略に基づく情報要求「リクワイアメント」が政策・作戦サイドから情報収集・分析(インテリジェンス)サイドに出され、これに対してインテリジェンスサイドは多様な情報を

    「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著
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    moons 2015/07/21
  • 幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ

    先日の記事「「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著」にいくつか、ペリー艦隊来航時の日人代表も泥酔していたことを思い出した、といった趣旨のコメントがついていて、そうそうあの酔っぱらいエピソードも面白いんだよね、ということで幕府代表団とペリー艦隊との飲みニケーションエピソードを「ペリー艦隊日遠征記(上)(下)」から紹介しよう。酒を飲むことでのコミュニケーションが相互理解と親睦、異文化交流に大いに役立ち、日米和親条約締結に大きな影響を及ぼしたのだ。両者の酒宴はあわせて五回あった。 1853年7月12日1853年7月8日、ペリー艦隊は浦賀沖に姿をあらわし、米フィルモア大統領から将軍に宛てた親書の受け取りを求めた。これに対し日側は、かねてから黒船来航の情報を元に準備していた通り浦賀での受け取りを拒否、長崎への移動を求めるが、ペリーはこれを拒否して、現在地浦賀での授受を求めた。そ

    幕府代表とペリー艦隊の飲みニケーション全5回まとめ
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    moons 2015/06/11
  • 「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著

    幕末に日を訪れた外国人が驚いたことの一つに、日人がひどく酒癖が悪いというものがある。例えばヘボン式ローマ字で知られるヘボン(日在住1859~92)は昼間っから酒を飲んで酔いつぶれ、あるいは大暴れしている人びとの多さに驚き、また酔って仕事もままならなくなる日人家事使用人たちに悩まされている。せめて仕事中ぐらいは酒を飲まない労働者を雇えないかと日人商人に尋ねるが、そんな日人を見つけるのは難しいと言われて途方に暮れていた。他の外国人もすっかり出来上がった武士の姿に恐怖を感じている。昼間っから刀持った酔っぱらいが歩いているんだからそりゃ怖い。ヘボンに遡ること三百年、ルイス・フロイスも戦国時代の日人の酒癖の悪さを書き留めていて、もちろん欧米でも酔っぱらいは多かったものの、西洋人からは日人の酔い方は度を越して酷いと見られていた。 武士も町人も昼間っから酒を飲んで仕事もそこそこに、そこら

    「居酒屋の誕生: 江戸の呑みだおれ文化」飯野 亮一 著
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    moons 2015/06/03
    産業革命期のイギリスでもみんな酔っ払ってたというから、豊かさが先に来て保健概念が遅れるとみんなそうなるのかも
  • 「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著

    江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の評伝である。近年の幕末史の様々な知見をふんだんに盛り込んで、複雑怪奇、敵味方がくるくると入れ替わる幕末諸勢力の情勢の中に一橋慶喜の行動を位置づけて、彼の事績を描いており、さすが家近氏といったところだ。それほど多くの評伝を読んだわけではないが、それでもこれまで読んだこのような人物伝の中でも屈指の面白さだった。2014年1月刊。 江戸幕府を終わらせ鳥羽伏見の戦いでは無様に敵前逃亡をして、以後表舞台に一切姿を表さなかったゆえ、彼には悪いイメージが強く残っている。一方で大政奉還に至るその政治過程では確かに他を圧倒する巧みな政治手腕を見せ、いち早くばっさりと髷を落として開明的な姿勢でも知られ、切れ者としての評価も高い。この評価が一定しないところが慶喜の慶喜たるゆえんとでも言おうか、その毀誉褒貶と彼の行動原理もまた、その足跡を丁寧に追うことで浮き彫りにされている。 とりあ

    「徳川慶喜 (人物叢書)」家近 良樹 著
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    moons 2015/04/16
    参謀としては優秀だが君主としては失格だが、君主をやらざるをなかった
  • 「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著

    十六世紀初頭から十七世紀末にかけて、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家は強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続けた。フランスのように絶対主義体制の構築ができたわけでも、イギリスのように四方を海に守られていたわけでもなく、宗教戦争と度重なる国際戦争で疲弊し分裂した神聖ローマ帝国に、なぜオスマン帝国からの防衛が可能であったのか。その大きな要因として書は、ハプスブルク家における実証主義的政治の誕生を挙げている。 『書のテーマは単純で、オスマン帝国から国を守るという極限状況がハプスブルクに強いた、理想を追わず現実を直視するという心性が、十六世紀的な、世界を客観的、数量的に把握し分析するという技術と出会い、そこに強力な、説得力のある実証主義政治が生まれたというものである。脱魔術化しているという点において、この政治はすぐれて近代的な政治である。』(P229~230) この分析がとても面白い。もちろん、みん

    「ハプスブルクとオスマン帝国-歴史を変えた<政治>の発明」河野 淳 著
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    moons 2015/01/22
  • 文禄・慶長の役を巡る明・琉球・島津氏の情報戦 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    朝鮮半島全土を荒廃させ、豊臣政権崩壊の要因ともなった十六世紀東アジア最大の国際戦争「文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)」。どうしても戦地となった朝鮮半島を中心にして語られることが多いが、少し視点をずらして琉球・東シナ海を中心にして眺めてみると、同戦争の別の面が見えてくる。「文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)」を巡る情報戦である。 ということで昨日の記事「琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史」を話のまくらにしようと思っていた記事。主に上里 隆史 著「琉日戦争一六〇九―島津氏の琉球侵攻」の記述を中心に、いくつかの関連書籍・サイトを参照している。 朝鮮出兵計画は早くから明に漏れていた。そもそも、秀吉は幾度となく軍事的侵攻を仄めかす恫喝文書を東アジア諸国に送っていたこともあって、いつ攻めてきてもおかしくないという危機感が諸国にはあったが、それが朝鮮・明国への大規模侵攻と

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    moons 2014/08/01
  • 「蘭学事始」杉田玄白著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    江戸中期の蘭学医杉田玄白(1733-1817)が文化十二(1815)年、83歳でおよそ半世紀前の蘭学草創の頃を振り返って著した自伝である。玄白の丁寧な叙述から一つの学問が誕生する瞬間の瑞々しさが伝わってきて心動かされる。 「蘭学事始」の記述の大まかな流れはこうだ。まず江戸時代、長崎出島のオランダ人から医学を学んだ人々によってオランダ流医学が誕生する。当時の他の職業や学問がそうであったように、それは家を基礎としたいくつかの流派として登場してきた。西流、栗崎流、桂川流、カスパル流などが主なオランダ医学の流派となる。玄白の説明によるとこの中の栗崎流は初代が南蛮人の血を引き、一旦国外追放されながら後に許されて帰国、医学者となったという話で非常に興味を覚えるのだが、同書の注釈によれば、そういうわけではなく、海外で医学を学んだ後帰国した人物ということのようだ。 八代将軍吉宗によって海外の書籍の輸入が緩

    「蘭学事始」杉田玄白著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    moons
    moons 2014/06/26
    杉田玄白と前野良沢って、ジョブスとウォズみたいなキャラクターだったんだな。大雑把で推進力のある玄白とオタク肌で職人気質の良沢。
  • 「小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史 10)」黒田 基樹 著

    天正十八年(1590)七月、北条早雲(伊勢宗瑞)以来およそ百年に渡って関東を支配した後北条氏は豊臣秀吉率いる二十万以上の大軍勢によって難攻不落を誇った居城小田原城を囲まれ、抵抗むなしく滅亡した。書は織田信長の横死による旧武田氏遺領の関東織田分国統治体制の崩壊から関東の騒乱「天正壬午の乱」をへて小田原合戦へと至る北条氏を中心とした戦国末期の東国外交を丁寧に整理した一冊である。 東京・神奈川在住で城郭・神社を始めとした名所旧跡めぐりや地域史の探究を趣味としている自分としては後北条氏には非常に思い入れが深い。領国支配体制にしても、軍事機構にしても同時代の例えば上杉・武田などの戦国大名と比べて非常に進んでいた。小田原攻めは旧時代を代表する後北条氏の滅亡による新時代の幕開けという構図で捉えられがちだが、むしろ、戦国大名の中でもその統治体制はかなり先を行っていたと思う。では、なぜ後北条氏は滅びたのだ

    「小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史 10)」黒田 基樹 著
    moons
    moons 2014/06/04
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