日馬富士 貴ノ岩に暴行疑惑 ビール瓶で殴打、右中頭蓋底骨折
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大阪場所はダイジェストで見ており、生中継での館内の様子はあまりきちんと見ているわけではないので、これはあくまで印象に過ぎないのだが、気になるので書いておく。 14日目、ご当地場所である兵庫県出身の実力者、妙義龍は、7敗ともう後がない。14枚目だから、負け越せば十両に陥落する可能性も出てくる。対戦相手は、このところ力をつけて来た千代翔馬。勝負はあっけなく決まった。立ち合いから千代翔馬に突き落とし気味のいなしを食らったら、自分からバランスを崩すようにして土俵に崩れ落ちた。傷めている膝が堪えられないのだろう。 異様だったのは、この時の館内だ。妙義龍の呆気ない敗戦と負け越し決定にがっかりし、ため息をつくのはわかる。だが、館内はシーンと静まり返ったまま、千代翔馬が勝ち名乗りを受けても拍手もないというのは、おかしくないか。 千代翔馬は普通に相撲を取っただけで、非難されるような卑怯な手を使ったわけ
1敗で単独トップに立っていた大関照ノ富士(25=伊勢ケ浜)が、左肩付近の負傷から強行出場した横綱稀勢の里(30=田子ノ浦)に本割と優勝決定戦で連敗し、15年夏場所以来2度目の優勝を逃した。手負いの相手との一番にやりづらさを聞かれると「特になかった。自分の問題です」と言い訳はしなかった。 14日目の琴奨菊戦で変化で勝った影響からか、この日も観客からは厳しい声が浴びせられた。 「目に見えるつらさと目に見えないつらさがあるんだよね。それを表に出すか出さないかです」とたまっていた気持ちをはき出すように話した。
稀勢の里の優勝、長い長い長い間の重圧を思うと、この安堵と喜びは、稀勢とともに落胆し続けてきたファンにしかわからないものもあると思う。入門時から横綱候補と言われてきたその才能と努力がようやく報われたことを心から祝福したい。稀勢の里関もファンの方もおめでとうございます。 しかし、それと横綱昇進とは別問題だ。私はただただ唖然としている。40年相撲を見てきて、こんな事態は初めてだ。 いくつもの問題が重なっているのだが、まず最も不可解なのが、どうして昇進できるのか、その基準が明確に示されていない点だろう。昨年の年間最多勝であること、安定した成績や優勝争いの多さ、優勝次点の多さなど、理由はいくつも挙げられているが、問題はそれらの成績は今まで横綱昇進の条件として顧みられたことはほとんどない、ということ。 横綱昇進の基準は、1987年の双羽黒の廃業以前と以降とで分けられる。双羽黒(北尾)の廃業以降は
大相撲九州場所で大関・稀勢の里が26日、14日目の取組に勝ち、年間最多勝を決めました。優勝していない力士の年間最多勝は初めてです。 九州場所では日馬富士が初日に黒星、稀勢の里が前半戦で2敗を喫したため、2人はいったん並びましたが、12日目の直接対決では稀勢の里が勝ち、ふたたび1勝のリードを奪いました。 稀勢の里は13日目に敗れたため、ふたたび並ばれましたが、14日目に稀勢の里が勝ち、日馬富士が敗れたため、千秋楽を残して、稀勢の里は68勝、日馬富士は67勝としました。 この結果、千秋楽の結果しだいで2人が並ぶ可能性はあるものの、稀勢の里は初めての年間最多勝を決めました。年6場所制となった昭和33年以降、優勝していない力士の年間最多勝は初めてです。また、日本出身力士の年間最多勝は平成10年の横綱・若乃花以来、18年ぶりです。 横綱・白鵬は、秋場所の休場が響き、26日の取組を終えて61勝となって
ミスタープロレス天龍源一郎(65)が、15日の両国国技館での興行で引退した。角界の注目度も高く、同じ二所ノ関部屋の後輩だった富士ケ根親方(50=元小結大善)は「嫁と子供が見に行きましたよ」という。 天龍が力士として過ごしたのは64年からの約12年間。関取で27場所活躍し、西前頭筆頭まで出世しただけに、現在60歳前後の親方衆とも戦っている。元大関琴風の尾車親方(58)とは十両時代に2戦2勝。元千代の富士の九重親方(60)とは3勝1敗。関脇時代に1勝1敗だった北の湖理事長(62=元横綱)は、土俵を離れた後もリング上でファンを沸かせ続けた元戦友を「60何歳ですか。すごいですよ」とたたえた。 相撲時代の天龍は、身長185センチながら体重は110キロ前後と細身で、突き押しが得意。1勝1敗だった元関脇出羽の花の出来山親方(64)は「上突っ張りで、回転が速かった」と振り返る。最多15度対戦した元小結大錦
2メートル近い長身を生かし、クレーン車のように相手を吊り上げたり、豪快に投げ伏せたりするスケールの大きな相撲で、平成6年の春場所大関に昇進しました。 平成8年の初場所と平成9年の九州場所で優勝を果たし、同じ部屋の元横綱・貴乃花や若乃花らと共に大相撲人気を盛り上げました。 平成16年に現役を引退し、貴乃花部屋で後進の指導に当たりながら、先月行われた夏場所では土俵下で審判を務めていました。
大相撲の元大関把瑠都(28=尾上)が引退の意思を固めたことが10日、分かった。すでに師匠の尾上親方(元小結浜ノ嶋)が一部の関係者に意向を伝えた。把瑠都の有力後援者は「引退と聞いたが、非常に残念。ケガさえしっかり治せば、まだまだ戦えると期待していたのに」と明かした。 夏場所7日目の稀勢の里戦で、致命傷を負った。寄り倒された際に持病の左膝を悪化させ「前十字靱帯(じんたい)および半月板損傷」と診断された。名古屋場所前は、すり足やてっぽうができるまでに回復したが、現在もそれ以上の負荷はかけられていない。 昨年初場所で初優勝し、欧州初の横綱をつかみかけた「エストニアの怪人」。ケガという難敵には、かなわなかった。 ◆把瑠都凱斗(ばると・かいと)本名・カイド・ホーベルソン。1984年11月5日、エストニア生まれ。04年夏場所初土俵。06年夏場所新入幕後、三賞7回受賞。10年夏場所大関昇進。12年初場所優
【抜井規泰】日本相撲協会が新制度の公益法人認定を受けるため、親方衆との関係を雇用契約から委任契約に改める形で、内閣府に申請する方針を固めたことが分かった。新法人になっても自分たちで理事を選ぶための策だが、制度変更が必要で、認められるかは不透明だ。申請が却下され、協会が自動解散に追い込まれる可能性もある。 新法人になると、税制で手厚く優遇される代わりに公益性を厳しく問われ、外部の評議員が理事を指名する。親方衆が自分たちの手で理事を選ぶには、自ら評議員になる必要があるが、評議員は外部の立場でなければならない。 しかし、親方衆は65歳の定年まで協会から月給を受け取っていて、協会の懲罰規定の「解雇」の対象でもあり、雇用関係という内部の立場にあたる。そこで、力士育成などを協会から委任された外部の関係者という形に改め、評議員を兼務する道を目指す。 続きを読むこの記事の続きをお読みいただくには、会員
32度の幕内優勝を果たし、一時代を築いた元横綱大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが19日、死去した。72歳だった。 1940年、樺太(現在のロシア・サハリン)で生まれた。56年に二所ノ関部屋に入門し、同年秋場所で初土俵。身長187センチの恵まれた体ですぐに頭角を現し、60年初場所で新入幕を果たした。3度目の優勝を果たした61年秋場所後、当時では史上最も若い21歳3カ月(現在は北の湖の21歳2カ月に次ぐ歴代2位)で横綱に昇進。ライバルの横綱柏戸と名勝負を繰り広げ、「柏鵬時代」を築き、68年秋場所からは45連勝を記録。当時の子どもたちの好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語を生み、高度経済成長期の相撲人気を支えた。 71年夏場所で引退。横綱622勝は北の湖、千代の富士に次いで歴代3位で、幕内746勝は歴代4位。その功績から現役時の名前で親方になれる一代年寄となり、大鵬部屋(現大嶽部
気仙沼市の景勝地、岩井崎にある郷土出身の横綱、秀ノ山雷五郎の銅像が、津波を受けながらも流されずに残っている。 一帯の被害は甚大だっただけに、住民からは「まさに奇跡。復興のシンボルに」との声も上がり始めた。 市や地元住民らによると、秀ノ山は江戸時代に活躍した力士。身長1メートル64と小柄だったが、通算成績は112勝21敗で、6度の優勝を誇るという。銅像は市民有志が功績を顕彰するため、1988年に太平洋を望む岩井崎の先端に建立した。 津波で、そばにあった秀ノ山を紹介する碑文などは流され、地面も陥没したものの、等身大の銅像や10トン以上あるという台座は残った。右手を挙げ、目の前の海に仁王立ちする姿も健在で、「さすがは大横綱」と感激する観光客も多いという。 地元の観光ガイドとして周辺を案内している斎藤鉄男さん(80)は「秀ノ山は、よく津波に耐えてくれた。復興への力になる。負けないように頑張りたい」
印刷 関連トピックス日本相撲協会 大関は去っても、特急は残る――。JR九州は大関魁皇の引退後も、しこ名を愛称にして地元の福岡県内を走る特急「かいおう」は残すことを決めた。 特急「かいおう」は2001年、JR篠栗・筑豊線(通称・福北ゆたか線)が電化されたときにデビュー。博多駅と魁皇の地元の直方駅を結び、上下線合わせて一日4本運行している。同社によると、存命中の人名のついた列車は全国的に珍しく、地域でも親しまれているという。 魁皇は元横綱千代の富士が持つ史上最多の通算1045勝を抜いた。JR九州の唐池恒二社長は「『かいおう』は日本一長く走って欲しい」と話している。 関連記事魁皇、けいこ総見欠席か 地元で「特急かいおう」出発式(4/27)
印刷 関連トピックス日本相撲協会 大相撲の東大関魁皇(38)=本名古賀博之、福岡県出身、友綱部屋=が名古屋場所10日目の19日、現役を引退する意向を示した。師匠の友綱親方(元関脇魁輝)と話し合い、20日にも日本相撲協会に引退届を提出する見通し。引退後は、年寄「浅香山」を襲名、友綱部屋付きの親方として後進の指導にあたる。 魁皇は、7敗目を喫した19日の取組後、支度部屋で「全然思っていた相撲が取れない。攻める気持ちが足りなくなった。(引退について師匠と)話し合わなければならない」と述べた。友綱親方は、「(魁皇に相談を受けたら)ごくろうさんと言ってやりたい」と引退を容認する考えを明らかにした。 魁皇は今場所、初日から3連敗するなど序盤から苦戦を強いられた。4日目に元横綱千代の富士(現九重親方)の持つ史上最多の通算1045勝に並び、翌5日目に新記録を樹立したが、慢性的な腰痛に苦しみ、常に黒星
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