いわゆる宗教四世で、生まれた時から新興宗教の会員やってた。ネットだとよくおもちゃにされがちな、三色旗のとこ。 小さいころから家に仏壇があって、母親と祖父母が超熱心な人で、言葉をしゃべり始めた時から経を読まされてたし、ちゃんとやればみんな褒めてくれるから悪い気はしなかった。 母親が熱心な場合って厄介なんだよな。おかげさまで土日は宗教関連の予定でつぶれるし、父親も母親に勧められて入ったひとだから止めないし。そんなわけで、20数年生きてきて、最近やっと初めてちゃんと神社に参拝したような始末。だから、一般的な人間と自分の宗教観がかなりかけ離れてる、ってことに最近気が付いた。まぁ、それが当たり前だったんだけど。 高校の時とかはそれなりに真面目に、っていうか結構がっつりやってて、たぶんその時の周囲の何人かは幹部クラスになるんだろうな、って人間ばっかりの団体にもいた。 割と勘違いされてそうだけど、いやも
共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。 ただ、内田が、 「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。 というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。 たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。 そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。 家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。 アレックス・カーが20
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。 2021/01/30 上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。 (そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが) なんでかというと上座部の方が今となっては教理があるから。 大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。 だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。 だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。 このあいだ増田でバ
浄土真宗の僧侶です。初めて書き込みます。 不慣れなため、先ほど書いた文章がすべて消えてしまい心折れかけましたが、やはり大事なことなので、増田さんに伝わればと願って改めて書き直します。 お祖父様のことをお悔やみ申し上げるとともに、今回このような形で、増田さんやお母様が悲しまれる結果になってしまったこと、痛惜に堪えません。 結論から言わせていただくと、リモート葬儀それ自体に否はありません。そんなもので台無しになるのが仏の教えならば、仏法は2500年も受け継がれたりなどしません。 私から言わせれば、死者を軽んじ、葬儀を台無しにしているのは、ご親族の方だと思います。 葬儀とは「弔(とむら)い」であります。弔いとは元来、「訪(とぶら)い」という字を用いました。これは遠近様々な場所から死者の元へと人々が訪れる様子を意味していますが、決してそれだけではありません。 死者に出会うということは、まだ生きてい
広島県・因島にある「囲碁の聖地」因島石切神社(尾道市)が2020年内で廃社になり、神社の役目を終える。因島は江戸時代に本因坊秀策が生まれた地とされ、囲碁ファンの尊敬も集めてきた。 背景には後継者不在と過疎化が 本因坊秀策(1829~1862)は因島に生まれ、江戸時代末期の囲碁の強豪として名をはせた。因島のこの地に因島石切神社(別称・石切風切宮)が建ったのは1981年で、隣接する土地には本因坊秀策記念館が建ち、神社の境内には本因坊秀策を顕彰する石碑も建っている。 囲碁をテーマにしたマンガ「ヒカルの碁」にも神社は登場し、物語終盤に主人公の進藤ヒカルが藤原佐為を探してこの神社を訪れる。囲碁ファンにとって「聖地」でもあった。 2020年8月23日、神社に隣接の本因坊秀策記念館のツイッターアカウントが、神社の廃社が決まり、社殿の解体が始まることを伝えた。J-CASTニュースは25日、この情報をもとに
ライオンゴロシの存在を初めて知った時爆笑した。ライオンゴロシは、すげえ硬いマキビシみたいな植物で、しかも針の一つ一つに返しがついててなかなか抜けねえらしい。で、うっかり口とか脚とかに刺さるともうどうしようもなくなって死ぬしかないから、ライオンですらそうだからライオンゴロシだってさ。笑うよね。俺は生まれてこの方、どれだけの水を飲んできたかわからないけれど、ミズノミとは呼ばれたことが生まれてこの方ないんだよ。だからライオンゴロシって名前をつけられるのはすげえことなんだなと思う。ライオンゴロシがなんでそんなことをするかと言うと、もっと地球上においてメジャーになりてえからなんだと思う。ライオンがライオンゴロシ刺さったまんま、痛えよ痛えようってよろつけばよろつくほど、ライオンゴロシも移動してる。つまり領土も増やしてる。生き物なんか全部そうらしいよ。カビとかもなんかそんな感じらしいし。果実だってそう。
回答 (53件中の1件目) この架空の意味をなさない質問に対して、現実をお答えします。1990年代、私はプロのピエロとして活動していました。誕生日パーティー、結婚式、学校やお店の催し物、年末年始のパーティー、会社の行事などあらゆるイベントをこなしました。ピエロの「バイオレット・P・ラベンダー」は引っ張りだこの人気者でした。普通の家族がお得意様になることもあり、同じ子供の誕生日を3~4年に渡ってお祝いする栄誉に浴したこともあります。 そのお得意様の家族にかわいい少女がいました(ここではエミリーと呼びましょう)。初めて会ったのは彼女のいとこの誕生日でした。次に会ったのは彼女の4歳の誕生日。...
機械じかけのオレンジって何が凄いの? https://anond.hatelabo.jp/20180113204136 ここで書くこと『時計じかけのオレンジ』は凄いけど、聖書を読まない日本人にとってはピンとこないテーマを扱ってるので、「何が凄いの?」という疑問が生じるのももっともだ。という話を書く。 『時計じかけのオレンジ』のテーマは何か『時計じかけのオレンジ』のテーマは、キューブリック監督曰く、以下の通り。 本作のテーマは、自由意志の問題と関係がある。もし善悪の選択ができなくなれば、私たちは人間性を失うのではないか?タイトルが示すように、時計じかけのオレンジになってしまうのではないか? それってどういうこと?この説明を読んだとき、多くの人はもっともらしい顔をして「ふんふんなるほどね」と思うのだけど、その実ぜんぜん分かっていない。何故かと言えば、説明中の「自由意志」という言葉の意味が分かっ
■反出生主義者「子供は産まない方がいい」 http://anond.hatelabo.jp/20171230111228 はてな村では、最早オリンピックかよという周期でホッテントリ入りする反出生主義ネタ。 内容も反応も似たり寄ったりで、せいぜい違いがあるとしたら「反出生主義」という言葉が浸透してきたなーくらい。 もはや定期ネタなので、斜め読みだけしてブクマもせずにしゅーりょーと思ってたら、救いがたいバカのブコメが飛び込んできた。 iwashi_mizu「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的 ←ここが致命的に非論理的。生まれた子の幸福の期待値が不幸の期待値より大きいなら産むことが合理的とも言える しかも、こんなバカブコメが大量のスターを集めていることに絶望した。 まあ、大元の反出生増田が、やたらと論理だの合理性だのを強調するから、こんな
反出生主義を理解していない人は、Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%87%BA%E7%94%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9)などを参照してください。 反出生主義は相対的な思想や宗教ではなく、倫理における論理的な解決策です。 産まれれば苦痛は必ずあります。出産の時点で赤ん坊は、頭蓋骨の激痛に泣き叫びます。幸福も存在します。しかし、「幸せになる可能性がある」より「苦痛を感じる可能性がない」方が良いのは明白です。「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的です。 子供を道具として合理的に扱うなら、それは反出生主義の範疇ではありません。しかし、子供の幸福を望むのであれば、それは非合理的なのです。 あなたはまだ子供を産んでいませんか?あなたは自分の大切のものを、傷つけると
宗教は、文化を備えた社会を維持していくために必要不可欠である。 2代目ローマ国王のヌマ・ポンピリウスはこう考え、宗教を基礎とした国家を築いたと聞く。 今ここに、スマホネイティブに向けた布教方法を提示する。 人を釣る漁師 現代の日本において、宗教の勧誘ほど胡散臭いものはないだろう。多くの日本人は「聖書を読んでみませんか」と言われたら、聖書に興味を持つよりもその人から距離をとろうとするだろう。 ではどのようにしたら人は聖書に興味を持つのか。賢者はいつも偉人の踏み固めた道を辿り、至高の人の真似をするべきである。ここはやはり現在最も使われている宣伝方法に倣うのが一番ではないだろうか。 というわけで、聖書のバナー広告を作ってみることにした。もちろん本物のバナー広告というわけではなく、貼られているのはただの画像である。踏んだところで神の国への扉は開かれない。 失楽園 Cornelis van Haar
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