本エントリを書くにあたって ある人が、なぜ人を殺してはいけないのか? を元に無断リンクはある「不可逆性」を生じるので、その点では殺人と同じであると説かれました。 しかし、僕にはどうにも納得できません。確かに、リンクにより「不可逆性」は発生するけども、それはWWWに公開した時点で考えられる事態であり、そもそもの責任は誰にあるのか。「無断リンク禁止」を認めればそれこそ、「無断アクセス禁止」、「無断クリック禁止」が認められるのではないか。例えば、「無断リンク禁止」のサイトにリンクしたけど、リンクした本人の承諾なしに、つまり「無断アクセス」あるいは「無断クリック」を禁止してしまえば「リンク」により生じる「不可逆性」の責任は、リンク先にアクセスした人に生じるのだろうか?多分そんなことは無いと思う。「不可逆性」に端を発して議論を進めるのは本当に得策なのだろうか? つまり、「無断リンク禁止」という発言を
文章力って具体的にどんな力?どんな文章が文章力が高いのだろうか?これと良く似た命題が「演技力」な気がする。 文章力の無い文章なら分かるんですけどね。読む気が失せる、何を言っているのか分からない、等など。 文章力を構成する6つの能力 「文章力を向上させるには!」的な話を見聞すると、語彙力とか、表現力とか、演出、構成力とか色々な力を身につけなさい、という話が多い。また、筋道を立てて書けるかとか、先を読ませたくなるような文章であるかが問われることもある。つまり、文章力とは一つの能力では無く、文章を書く上で総合的な力のようだ。というわけで、文章を書く上で必要だと思われる能力を6つ挙げてみた。もちろん他にもありそうだけども。 語彙力(0次元) 言葉の使い方、選び方。 沢山の言葉を知っていることが望まれるが、必要に応じた言葉を選び出せるか。 言葉の微妙なニュアンスの違いを感じ取ったり、言葉遊びできたり
僕も一般化したい病を発症してます>< 絶対的な客観視なんてできません!というか全ての「論」は多かれ少なかれ自分語りですよ〜(逃げ口上) 男女差を例にするのは分かり易いが、男女差で一般化するのは気をよう(心構え) アクセスが少なすぎて閉鎖する男。アクセスが多すぎて閉鎖する女。 文末に「今回述べたことはあくまで一般論としての話ですので」と注意書きがある。「一般論」とすると 「個人的な問題でも一般化したい病」について における一般化による説得力のドーピングではないか。つまり、「一般化したい病」。筆者の意図は「そのような傾向にある」程度なのだろうが、ある差異の理由を男女差に求めるのは本質を見誤る可能性があるので注意したい。 男女として一般化するのは(・A・)イクナイ!というか、男女という枠に囚われて本質を見逃した例として、男の服は費用計上、女の服は資産計上 というエントリを挙げてみよう。男性はでき
自身の覚書としてまとめておきます。間違いがあるかもなので、その際はコメント欄などにて指摘してくれると助かります。あまり、遠くの方から指摘されても拾えません。ココでは主に、著作権に関することについて。 著作者と著作権者は一致しない場合もあります。 転載・引用・盗用の違い 先ずは辞書的な意味の違い。 「転載」 すでに刊行された書物・新聞などの記事や写真を、他の出版物にそのまま載せること。 三省堂提供「大辞林 第二版」より 「引用」 古人の言や他人の文章、また他人の説や事例などを自分の文章の中に引いて説明に用いること。 三省堂提供「大辞林 第二版」より 「盗用」 他人のものを盗んで使うこと。許可を得ないで用いること。 三省堂提供「大辞林 第二版」より 「盗作」 他人の作品の一部または全部を自分の作品として発表すること。剽窃。 三省堂提供「大辞林 第二版」より 転載 著作物の複製を他の著作物に掲載
ナイーブなはてなー? 勝手にトラバするな!プンスカ! - takoponsの意味 ナイーブなのは増田の方でした。 この増田くんは、日常で他人の会話に割り込んで、その会話の内容に対して議論・反論するということが行われていないから、無断リンクや無断トラックバックはおかしいと感じていたようだ。また、インターネットは誰からも知られずに使う事もできるし、仲間内だけで使う事も可能。無断リンクされることなくコミィニティが存続する事もあるだろう。日記的な使い方をしてるなら、議論・反論を望んでいる訳では無くただ平穏に過ごしたいと思っているだろう。そのような家的なユーザーが一定数いるのだから以上無断リンクしないマナーも必要だという主張は理解できなくも無い。しかし、眼前に「無断リンク」できるという現実があるのだからその主張は悲しいけど理想論だ。悪意を持って無断リンクする人は必ず存在する。 「無断リンク禁止」と宣
はてブを知らない人がブクマコメントを見てしまったときの反応 はてなブックマークに関して思う事はあるが、様々な要件が絡み合っており複雑だ。一つのエントリとしてまとめるのは難しくまた長大になる。そこで今回は、それぞれの要件を個別のエントリーとした。 目次 はてなブックマークは何故異様に見えるか はてなブックマークは陰口か なぜブログのコメント欄にコメントせずにはてブにコメントするのか問題 無断リンク禁止宣言の危険性 コミュニケーションだって一部からしか始まらない 上記3つがはてブにかんするエントリ。下2つはそれぞれの補償といった感じ。ブクマする場合は個別にしても良いですし、まとめたい場合は http://d.hatena.ne.jp/lastline/20080407 にブクマするなど。ニュースで紹介する場合は気になったエントリだけ紹介したりと好きにしてください。 はてなブックマークが異様に見
「学校裏サイト」の9割はスレッド型掲示板のスレッド 「学校裏サイト」3万8,000件、半数のサイトに「キモイ」「うざい」など中傷 「キモイ」「うざい」学校裏サイト、5割に誹謗中傷 文科省「深刻」 産経の記事によると、「学校裏サイト」のほとんどはスレッド型掲示板に掲載された内容であるらしい。つまり、ほとんどがサイトという体をなしていない。「学校裏サイト」にスレッドまで含めたら、全国の中学・高校の総数の2倍以上に膨れ上がって当たり前だろう。産経の記事で「学校裏サイト」として紹介されたスクリーンショットも 裏2ちゃんねる- 学校裏サイト【2ch2】 だろうし。 「学校裏サイト」の利用に関しては、PCかケータイ経由かでも見える世界が異なるので、その点も加味して調査考察して欲しい所である。 ネットに悪口を書き込むのは悪口ノートをつけるよりも陰険だ 学校裏サイトは中傷が半数との調査結果である。調査方法
ブログに「死ね」とコメントを書かれて自殺した女子高生に関して ブログの「死ね」というコメントを苦にして女子高生が自殺するという事件が起きた。 ネット規制よりもユーザーによる制裁を - 池田信夫 blog この引用は恣意的過ぎるなぁ。恐らく北九州の事件を指しているのだろう。ちょっと調べた限りでは、池田先生の主張に関してこの例を出すのは印象操作だよね。 「ブログに中傷つらい」と遺書、北九州の高1女子自殺 : 週間ニュース : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 高1自殺:ネット上に「死ね」と書かれ苦に 北九州 - 毎日jp(毎日新聞) 福岡県北九州市の高1女子自殺――ホームページに「死ね」書き込みを確認/教育ニュース - 教育情報サイトeduon! 同校は自殺の発覚後、同学年の生徒や同じ中学校の出身者を中心に、カウンセラーを通じて調査を実施。うち1人が「26日から27日に『死
ネットにおいて実名論を主張する人は、実名論には無理があるのではないかという意見に対して、それならば匿名の人に変なことを言われて嫌な思いをさせられた人は、嫌な思いをさせられたままでいなければならないのか?と問い返します。たしかにこの問い返しは当然だと思います。 この問い返しへの対案として出されるのが、匿名の人にたとえ変なこと言われて嫌な思いをさせられたとしても、その発言の内容には価値はないのだから相手にすることなく放置しておけばよいというスルー対処法です。価値のない発言を無視したとしても名誉は損なわれないはずだから、自分の気持ちとして割り切ってさえしまえばうまくいくということらしいのですが、はたして本当にそうなのでしょうか。 たとえ自分はその発言を価値のないものとして相手にすることなく放置したとしても、そのやり取りを目にした他の人がどのように受け取るかは解らないわけです。もしかしたら、その発
何かを理解するには、必要な前提知識、もしくは前提経験というものがある。 技術を学ぶ際もそうだし、ジョークを聞く際でもそうだ。 基礎の勉強や経験がおろそかだと興味深いエキサイティングな技術の話を楽しむことができない。 それがどのように凄いのか理解できないし、その先に広がる世界を想像することもできない。 基礎の勉強や経験がおろそかだと面白いジョークで皆が爆笑する中、 ひとりで「え?何?何?」ときょとんとしていなければならない。 ジョークの面白さの解説を求めることは愚の骨頂だ。 あるいは親切心からこういうジョークなんだよと教えてくれる人もいるかもしれない。 しかし、ジョークというのは聞いた瞬間に噴き出すことができてはじめて面白いのである。 あとから理由を聞くなんてのは野暮ってものだ。 技術の話を人にするとき、その人の前提知識に探りを入れながら話す。 その人が興味を持っているようだったら、多少の知
集団でもない属性の一部が悪ければ同じ属性は全て規制されるべきか - novtan別館あたりの議論とか、自分の先日の議論とかが対象の話題なのだけれども。 木を見て森を見た気になる まず、共通する問題点として、個と全体の混同というのがある。議論をするならば、というよりも論理的に考えるためには単体の存在と、その集団は違うものだということをちゃんと区別しないといけない。 これは、例をあげると「確かにそれはおかしいよね」と分かるものなのだが、時にこのおかしさを感じない時があるので注意する必要がある。 Java屋のA氏にPHPを馬鹿にされた → Java屋は全てPHPを馬鹿にしている B氏は悪徳弁護士だった → 弁護士はみな悪徳だ C氏はビジュアル的にも人間的にも気持ち悪いヲタクだった → ヲタクはみな気持ち悪い D氏は匿名をいいことに人々を罵倒して回った → 匿名で発言する人は全部ろくなものじゃない
http://d.hatena.ne.jp/oredoco/20080606/1212734547とか、だから - finalventの日記の話題って、blogを管理する立場にある側が、管理不行き届きでとんでもない発言を野放しにしてしまった場合の話題だよね。 このへんの話題の本流というか、原泉ってソーシャルブックマーク不要論というか、ネガティブブックマーク規制論だったような気がするけど、話題が何度か転がっているんだろう。よくわからない。 まずルールを確認しておこうか まず、blogでの発言と言うのは、望む望まないにかかわらず世界に向けた発信であるという事実があり、公表された言論に対しては批判の対象となる、という単純なルールがある。 つまり、「俺は議論がしたいんじゃない、一方的にお前に文句を言いたいだけだ。俺の文句は聞け。そして俺に文句をつけるな!」という、あまりに幼稚な主張は論外なんだよね
昭和のレトロ感あふれる背景に、古びた新聞が映し出される。 古いフィルムだ。セピア色の擦り切れて傷んだ映像。 新聞の見出しにはこう書かれていた。 「無断リンク禁止宣言サイトへの無断リンク行為とは」 前世紀からネット使っている人間としては*1、そんな時代の出来事だったかと思うぐらい古びた話題なのだけど、今なお盛んに話題にされているあたり、歴史は繰り返すのだな、と思う。 そりゃ、論じている人が入れ替わり立ち替わりなんだから、延々と論じられ続ける話題とも言えるか。自分も昔はそれを論じたし、論じて論じて相応の答えを得た、という自分が育ってきた過程として、無断リンク問題は懐かしいものを感じさせる。ネットで声高に演説しようという人間の多くが通る通過儀礼なのかもしれない。 そう、これは麻疹のようなものなんだ。 対称性について考えよう まず、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアンの名台
なぜか。以下の点から言えるような気がします。 リンクをされたくない側とリンクをしたい側で利害が一致していない リンクをされたくない側は、リンク行為がなされる前に通告を受けていれば、自身がどのような形で害を被るか(例えば、リンクをされるがままにする、内容を書き換える、ネットから削除するなど)を選択できる つまり、無断リンク禁止を宣言しているサイトに通告なしにリンクをすることは、相手に内容を書き換えたり、ネットから削除する選択肢を与えることなく、リンクをされるがままの状態を強いたうえで無理やりリンクをするという形になっているわけです。これって、宣戦布告なしの奇襲攻撃みたいなものではないでしょうか。 本来ならば、事前に通告して相手にどのような形で害を被るかを選択する猶予を与えるのがマナーというものでしょう。たとえその結果として相手サイトにリンクをすることが自分を利することにならなくなったとしても
この争点において、「禁止」は「命令」であって「お願い」ではないのだからマナー違反であるとの指摘があります。 両者ともに「要求」であることに違いはないのですが、ニュアンスとしてどこに本質的な相違点あるのかと考えてみると、おそらく「命令」には「それを無視した場合に、(無視せざるを得なかった必然性の説明がないならば)敵対するかもよ」という脅しが含まれるのに対して、「お願い」には「それを無視したとしても、(無視せざるを得ない何らかの必然性があったのだと解釈して)敵対はしないよ」との表明が含まれるということなのではないでしょうか。まあ、他人同士の個人間のやり取りの場合、敵対といってもせいぜい要求を無視されたことに対する不快感をアピールする程度のものであって、高が知れているわけですけど。 だとすると、他人からなされる自分に直接影響のある行為に対する要求に関して、争点として以下の2つが考えられると思いま
極端なこと言えば批判されたくないなら記事書かなきゃいいんですよ。 ブログのコメントやソーシャルブックマークのコメント、リンクを一方的な攻撃だと主張する人々。 ブログのコメントやソーシャルブックマークのコメント、トラックバックにリンクを一方的な攻撃だ!という人がいますね。 無断リンクを不意打ちであると持論を展開するのは、無断リンク禁止宣言サイトへの無断リンク行為とは のくっぱ先生。ブックマークというか、はてブのコメントやタグを規制したいのは、ネット規制よりもユーザーによる制裁を と主張する池田先生。ブログのコメント欄に関しては、コメントスクラムについて - 小倉秀夫の「IT法のTop Front」 にてブログのコメント欄での執拗な質問、批判をコメントスクラムという造語で定義した小倉先生が有名でしょうか。 さてさて、コメントとかリンクは一方的な攻撃なんでしょうか? ところで、上記の例とは違いま
おそらく、無断リンクをされたくない側も、無断リンクをしたい側も、お互いに相手を無理に咎めすぎている部分があって、でもそのやりすぎな部分を削ぎ落とすとそれなりにシンプルな構造になっているような気がします。 例えば、小学校の校庭にある踏み切り板付きの砂場を考えてみましょう。ある児童が放課後にその砂場において砂でお城を造形していたところ、課外活動で陸上競技クラブに所属している児童が走り幅跳びの練習にやってきたとしましょう。学校としては、砂場の利用に関して、砂遊びよりも走り幅跳びの練習に優先権があるという立場をとっているとします。 このとき、幅跳びをしたい児童の「俺が幅跳びの練習をしたいと(脳内で)思うときに砂で城を作っているなよ」は無理な要求でしょう。相手は誰がいつ幅跳びの練習をしたいと思うかなんて判らないのだから、いきなり踏み切り板から跳躍して相手の作った砂の城を蹴り崩すことには問題がありそう
「俺は無断でリンクするけど、お前は俺にリンクするな」がダメなのはわかるよね。 無断リンク論は麻疹のようなものかもしれない - プログラマーの脳みそ だからこその無断リンク禁止宣言なのでは。つまり、「(お前は無断リンク禁止を宣言してもよい。しなくてもよい。もしもお前がその宣言をしないなら、)俺は無断でリンクするけど、(俺は無断リンク禁止を宣言するから、事前の通告なしに)お前は俺にリンクするな」なら筋が通るわけです。 無断リンク禁止宣言サイトへの無断リンク行為とは ふむふむ。なるほど。面白いアイデアだ。宣言によって対称性を確保しようという試みなんだね。「誰もが、相手がどのように宣言したかを確認したうえで、リンク拒否をしていないなら自由にリンクすることができる」というルールならどうか、というわけだ。 無断リンク禁止 = 無断言及禁止 ところで、引用元のエントリでは結論として以下のことを導いていた
無断リンク禁止!といったところで、URLの言及は表現の自由で守られるだろうから*1結局のところ子供の言うバリアと同じで、その願いが叶えられるわけではない。 叶えてくれれない世界が悪い!と言うことはできるけど駄々をこねても、本の中に入り込んだ、みたいな物語が始まるわけもなく、駄々をこねる子供を無視して世界は回る。 残念ながら、現在のルールではリンクを無断で行うことは法的には何も問題ないとされる(参考)。だから、無断リンクを禁止したいなら、法を変えなくてはならない。 そして、法を作るにあたって、 http://d.hatena.ne.jp/Nagise/ ttp://d.hatena.ne.jp/Nagise/ のどっちが良くてどっちがダメをはっきりさせないといけない。そして、両方ダメとなると、表現の自由とぶつかるため*2、そっちも併せて変更するようにしなければならない。 無断リンクを禁止する
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