ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=中央左) 1894年夏、フランス陸軍省は陸軍機密文書の名が列挙された手紙を入手した。手紙はドイツ陸軍武官宛てで、フランス陸軍内部に情報漏洩者がいるのではないかと懸念された。筆跡が似ていたことから、ユダヤ人砲兵大尉のアルフレド・ドレフュスが逮捕された[2]。しかし、具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱えている、もしくは急に金回りが良くなったなどといった状況証拠すら欠いていたため、スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されなかった。 ところが、この件が反ユダヤ主義の新聞に暴露されたことから、対処を余儀なくされた軍は、12月22日に終身禁固刑を言い渡した。1895年3月、ドレフュスはフランス領ギアナ沖の離島、ディアブル島に送られた[3]。 1896年、フランス陸軍情報部は、情報漏洩者がフランス陸軍の
沿線付近には多くの軍事施設があったが、そのうち陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所(現在の北九州市小倉北区にある山田緑地)にあった火薬倉庫の一棟が1944年6月16日の空襲により焼失した。このため、西部軍司令部の指令により新たな倉庫を探していたところ、当トンネルと吉木トンネルが空襲の被害から安全と思われ、適切な地下火薬庫であるとされた。 これにより1944年7月から1945年2月にわたって搬入が行われた。彦山駅まで列車で運ばれてきた火薬類はトロッコによってトンネルに搬入された。 1945年8月15日に日本が降伏し、第二次世界大戦は終結した。連合国福岡地区占領軍は添田警察署と責任者で山田填薬所長だった陸軍少佐に対して火薬類の引き渡しを指示したため、陸軍少佐は8月30日までに在庫確認したが、それによると二又トンネルには532,185キログラムの火薬及び爆弾の信管185キログラムが保管されていたという。
[書評]優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝) 私は優生学というものにそれほど関心を持ったことはなく、よって、浅薄な見解しか持ち合わせていない。単純に人間の選別に加担する間違った医学であり、ナチスのホロコーストにもつながる間違った思想なのだろう、というくらいの認識しかなかった。 本書「優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか(米本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝)」(参照)はその程度の「認識」を踏まえ、それに対置した形で議論が緻密に描かれている。しかも、読みやすく、そして啓発的だった。 とはいえ、この啓発の意味合いをどうとらえてよいかという問題は残った。率直に言うと、本書の見解はどことなく「歴史修正主義」といった思考の圏内に近い印象もあったからだ。あるいは、「ホロコースト ― ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌(
Miss Mitchan took a crap along the road. Since she had no paper, She wiped it off with her hand. And then since she didn't want to waste it, She licked it all. 「わらべうたの研究(楽譜編・研究編)」 小泉文夫編 わらべうたの研究刊行会 1969 より抜粋 決して表立ってメディアで公開されることもなく その伝播形式はほぼ完全に口伝のみに依存していたであろうにもかかわらず 日本中この歌を知らない者はいないといってもいいのではないだろうか。 ミチコ、ミチオ、ミツヒコ、ミツハル、ミキヒサ 「み」をその名に冠する子供たちへの恐怖の洗礼 「みっちゃんみちみち」 この歌がいつ、どこで、どのような人物の手によって生まれたのか、解明できたら柳田國男を
というわけで、先日Ah!SKIの話題を書いたので、押し入れからAh!SKIやASCIIを引っ張り出してきた。 (1時間ほど経過) あまりにも懐かしくて、思わず読みふけってしまいました。^^; Ah!SKIの創刊は、1981年4月号からだったんですね。 手元にあるのは1982年4月号のASCIIに綴じ込みでAh!SKIが掲載されています。 以降Ah!SKIはASCIIから独立販売されるようになった。 ぼくが現在持っているのは1983/1984/1985/1987/1988の5冊。 第1号だけでなく、第6号も抜けてましたね。 第8号以降、どこまで続いたんだろうか。Ah!SKI. さて、いくつかざっと概略を紹介していきましょう。 Ah!SKI 第2号 (1982年4月号 ASCII綴じ込み) 「表参道アドベンチャー」のリストが公開されていますね。 ほとんどこれに占領されていて、パロディ色がほとん
昭和41年、姫路の上空に彗星の如く現れた「新時代の都市交通機関」、それがモノレールであった。渋滞する道路交通を尻目に、排ガスを出さずスマートに市街地を走り抜ける。頑丈な軌道も必要なく、理論上は160km/hという高速走行も可能な、まさに夢のような交通システムでした。 しかし、たった8年で運行を絶たれ、昭和54年に僅か13年という短い命を正式に閉じることとなったのです。謎の多いこのモノレールを、有志と共に記録として残そうということでまとめています。画像や資料をご提供下さいました諸兄に改めて感謝しつつ、歴史に埋もれたモノレールを振り返ってみたいと思います。
⇒教育刑で犯罪抑止した世界で最初の人物は鬼の平蔵だった - 地下生活者の手遊び ⇒はてなブックマーク - 教育刑で犯罪抑止した世界で最初の人物は鬼の平蔵だった - 地下生活者の手遊び ⇒この記事は歴史的に間違ってる ⇒http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20081020204555 ⇒鬼平エントリへのネガ反応をおいしくいただく - 地下生活者の手遊び ⇒はてなブックマーク - 鬼平エントリへのネガ反応をおいしくいただく - 地下生活者の手遊び ちょっと時間がないので手短かつラフに(後記:手短になりませんでした)。ブコメや増田の反応を拝見して、史実というよりは鬼平犯科帳と、tikani_nemuru_Mさんの記事が主題としているだろう事柄との関連について、私なりの補足を。さいとう版も読んでる、というかそれから入った。小学生
つまらない歴史教科書をつくる会 唐沢俊一のガセビア 唐沢俊一のガセビアその2 唐沢俊一のガセビアその3 「新しい歴史教科書をつくる会」もようやく死に体になってきた。元スターリニストの組織力はあの程度らしい。 連中の誰かが、「昔の左翼の歴史教科書には物語的な気迫があって、そこは美点だった」と懐かしんでいたのを、どこかで読んだ。それを読んで私は深く納得した。その主張の当否に、ではない。昔の左翼の歴史教科書など読んだことがないので、その主張が正しいかどうか私には知るよしもない。 私が納得したのは、「だからお前はダメなんだ」ということだ。 「QWERTY配列という十字架を人類に背負わせたのは、20世紀初頭のアメリカのタイプライター・トラストなんだよ。トラストというのはね(後略)」 「秋葉原は昔はアキハノハラやアキバハラと読まれていたかもしれない。どの読み方が正式なのかもわからないし、そもそも正式な
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「支那」という呼称を意識的に使用する人々がいる、その背景には拭いがたいレイシズムの思想と、歴史に対する無理解、または人間というものに対する無知が横たわっている。 「支那」の語源についての考察 (文字飾りはわたしが行った) (略) 日本の社会が「支那」という言葉を使って中国を軽蔑の意味を込めて称し始めたのは、中日甲午戦争で清が敗れた時からである。一八九五年、清政府は余儀なく日本政府を相手に、主権を喪失し国が恥辱をこうむる馬関条約(日本では下関条約と言われている)を締結して、近代中国のこうむった恥辱は極点に達した。昔から中国のことを「上国」として尊敬してきた日本人は最初は驚き、続いて勝ったあとの陶酔に走り、町に出てデモ行進を行い、「日本は勝った。『支那』は負けた」と狂気のように叫んだ。そのときから、「支那」という言葉は日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになり、中性的な言
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