勝つための部活動は、たぶん、顧問による。一般の公立高校生の力はそう大して変わりはない。練習が長ければ勝てるものでもなさそうだから、指導力の違いと言うことに帰結する。
「両立、両立」と言うが、実際に両立できている生徒は少ない。大抵は勉強が疎かになっている。でも、生徒は、勉強よりも部活が好きだから、問題にしない。この頃は、「部活を頑張っているから勉強は大目に見てもらえて当たり前だろ」という考え方が増えてきている。なぜなら、「その子の良いところを見る」と言う奇妙な「絶対評価」の影響があるからだ。
親の中にも、高校生活の活力は部活であると思っている人もいる。勉強は、或いは卒業証書は、入学すれば自動的に3年後に与えられるものであると思っていることもある。
何が言いたいかって?
二番手の場合、勉強は、きちんとやっていかないと落ちこぼれる。ところが、部活に精を出しすぎると、それも、本人の希望でそうであるとしても、下手をすると卒業できなくなるよ、と言うことである。勉強が、単位を取るためだけの者になって、高校生活で得たものは「部活動」のみとなり、「勉強は必要悪、あるいは方便」「最低限だけを暗記で済ます」というごまかし勉強の概念を社会全体に蔓延させることになるわけである。
「欠点を取ったら、練習禁止」は、当たり前である。部活動ができるのは、その学校の所属していることができるからである。「欠点は、高校に所属できなくなるかもしれない」というとこである。部活どころではないはずだ。
とは言いつつも、部活があるから、勉強で落ちこぼれてもなんとか学校生活を全うできた、という場合がないとは言わない。
しかし、勉強から明らかに逃げようとするのがいけないのである。
部活の顧問は、勝つのが得意な人は勝ちたがる。(←ヘンな表現。笑)だから、そのための練習をしたがる。勉強は二の次になる。だって、自分も授業より部活が好きなのだから。
「両立、両立」と言うが、実際に両立できている生徒は少ない。大抵は勉強が疎かになっている。でも、生徒は、勉強よりも部活が好きだから、問題にしない。この頃は、「部活を頑張っているから勉強は大目に見てもらえて当たり前だろ」という考え方が増えてきている。なぜなら、「その子の良いところを見る」と言う奇妙な「絶対評価」の影響があるからだ。
親の中にも、高校生活の活力は部活であると思っている人もいる。勉強は、或いは卒業証書は、入学すれば自動的に3年後に与えられるものであると思っていることもある。
何が言いたいかって?
二番手の場合、勉強は、きちんとやっていかないと落ちこぼれる。ところが、部活に精を出しすぎると、それも、本人の希望でそうであるとしても、下手をすると卒業できなくなるよ、と言うことである。勉強が、単位を取るためだけの者になって、高校生活で得たものは「部活動」のみとなり、「勉強は必要悪、あるいは方便」「最低限だけを暗記で済ます」というごまかし勉強の概念を社会全体に蔓延させることになるわけである。
「欠点を取ったら、練習禁止」は、当たり前である。部活動ができるのは、その学校の所属していることができるからである。「欠点は、高校に所属できなくなるかもしれない」というとこである。部活どころではないはずだ。
とは言いつつも、部活があるから、勉強で落ちこぼれてもなんとか学校生活を全うできた、という場合がないとは言わない。
しかし、勉強から明らかに逃げようとするのがいけないのである。
部活の顧問は、勝つのが得意な人は勝ちたがる。(←ヘンな表現。笑)だから、そのための練習をしたがる。勉強は二の次になる。だって、自分も授業より部活が好きなのだから。
こうこう考え方が,生徒のなかに存在するように見えるのは,教師の側にそういう心--「だって、自分も授業より部活が好きなのだから」--があるからでしょうね.
> 卒業証書は、入学すれば自動的に3年後に与えられるものであると思っていることもある
私は,諸悪の根源はここにあると思っています.
特に小学校,中学校の卒業証書は,入学式の日だけ行ってあとは全欠席でも発行される.
本来はこういう「柔軟な対応」は,校長の責任において(=校長が自らの首をかけて)行われるべきものでしょうが,そうでなくなってきているのが問題なのでしょうね(@内田先生).
すなわち,かつて,欠席人数が足りないとか成績が悪いとかの理由で本来なら卒業証書が発行されないはずだった生徒を,とある校長が自らの首をかけて救った,というヒーロー物語が実在した.ところが,後続者はこの物語の肝腎の部分,すなわち「校長は首をかけている」という部分を見落として,「生徒を救った」ということばかりを語り継ぐようになってしまった.
> 「欠点を取ったら、練習禁止」は、当たり前
異議なし!
或いは,そうでないことが例外的に認められるのは,その部活の延長線上にあるもの(プロのスポーツ選手とか)でその生徒が食っていけるということを「その教師の責任において」判断できる場合だけである.
でも,そんな勇気のある教師はごまんに一人もいないだろうから,普通は言うべきではないし,普通は罷り通るべき事ではない.
>ところが,後続者はこの物語の肝腎の部分,すなわち「校長は首をかけている」という部分を見落として,「生徒を救った」ということばかりを語り継ぐようになってしまった.
学校は、集団として生徒を扱う場なので、でないと集団としての秩序が保てず、本来の目的を果たすことができません。でも、どうしても「例外」というのが出てくる。これはもう、「個別」に判断するしかないのですが、その「個別」が「個別OK」という別個の集団を形作りつつあるというかという問題に帰着するかと思いますが。
まあ、ヒラ教員には「かんけーねぇ」判断ですが、あとあと響くもので、慎重に判断して貰いたいものです。「なんでアイツが良くって、オレはダメなんだ」が出てくると集団は壊れる。学校が悪くなる原因は、ほとんどこれですよ。(ほとんどが校長の責任。)
部活好きの先生には嫌われるだろうけれど、部活は、ケーキで言うと、「デコレーション」なんです。大事なのは、スポンジの土台。これをいかに美味しく上手に焼くか、つまり授業などを通した学習がいかに大切か。美味しいケーキ屋さんのケーキで、スポンジがマズイケーキなんてないですよね。
素人がケーキ作りで楽しむのは、「見た目」のデコレーション。でも、学校がそうなっては困るでしょうね。
ケーキで何となく連想してほとんど関係ないけどおもいだしました。
今月号の中央公論、内田先生と諏訪哲二先生の対談がありました。諏訪先生が、73年までは勉強ができなくても、行事などで1日中クレープを焼き続ける子とかがいたけど、(まあ、要は、みんなのために単純作業でも(そりゃ、自分も楽しみながらだろうけど)忍耐強くやり続けるということだろうけど)今はそういう子がいなくなったと。
(関係ないけど、養老先生の連載がなくなったのが悲しい。。。。涙。)