ムウタの戦
ヒジュラ暦8年
162.ムスリム信徒の使者殺害と、それに対する罰:
アッラーの使徒(祝福と平安あれ)はアル=ハーリス・イブン・ウマイル・アル=アズディーを彼の書簡と共に、ローマ帝国を治めるカイサルが所有するブスラーの統治者、シャルハビール・イブン・アムル・アル=ガッサーニーに使者として送りしました。シャルハビールはアル=ハーリスを縄で縛りあげ、次に彼の首を切り落としてしまいました。当時から各国で使者や使節の殺害が普段から起きることではありませんでした。両者の間に激しい相違があったり、使者たちが携えていたメッセージが嫌われたとしてもです。これは軽視するわけにはいかない事件であり、使者や使節にとって大きな危険をはらんでおり、また送り主と送られたメッセージに対する激しい侮辱であるため、事件を起こした人物は罰せられるべきであり、事件が起きたことに対して怒りを露わにすることで、使節の生命が守られるよう、二度とこのような悲劇が起こらないようにしなければなりません。
163.ローマの領地内における初の軍:
アッラーの使徒(祝福と平安あれ)にアル=ハーリスが殺害されたとの知らせが届くと、ブスラーに人々を送ろうとしました。ヒジュラ暦8年のジュマーダー・アル=ウーラー月に起きたことです。3000人の信徒が出発の準備に取り掛かりました。アッラーの使徒(祝福と平安あれ)は、彼の召使でもあるザイド・イブン・ハーリサを軍の指揮官としました。軍は、先代のムハージルーンとアンサールで構成されていました。彼(祝福と平安あれ)は人々に言われました:《ザイドが倒れたら、ジャアファル・イブン・アブーターリブが指揮を執ること。もしジャアファルが倒れたら、アブドゥッラー・イブン・ラワーハが指揮を執ること》。人々の出発の時間がくると、町に残った人たちはアッラーの使徒(祝福と平安あれ)の軍を見送りました。彼らには長くて厳しい旅と、当時最大の王国の庇護を受けていた強硬な敵が待ち構えていました。
イスラーム軍は歩み進み、マアーンという場所に到着しました。そこでムスリムたちはヒラクルがバルカーゥにてローマから100000人を連れてきていること、そしてアラブの諸部族の多くが彼らと合流していることを知りました。ムスリムたちはマアーンに二晩滞在し、様子を伺いました。そして:アッラーの使徒(祝福と平安あれ)に手紙を送って、敵の数を知らせよう。助っ人が送られてくるかもしれないし、他の命令が来たらそれに従うことにしよう、と言いました。
164.われわれは数や力を理由にして戦うことはない:
アブドゥッラー・イブン・ラワーハは人々を鼓舞して言いました:皆!アッラーに誓って、君たちが嫌いつつも求めてやってきたもの、それは殉教だ。われわれは兵士の数や力や大勢さを理由にして戦うことはないし、アッラーが気前よくわれわれに与え給うたこの宗教においてでしか戦わないのだ。だからこそ、出発するのだ。結果は2つの善のどちらかだ。勝利か、殉教か。この言葉の後、人々は進んでいきました。
165.必死の戦いと、獅子たちの強さ:
人々がバルカーゥの境目に着くと、ローマとアラブの諸部族がバルカーゥにある小さな村のひとつであるマシャーリフで彼らに出くわしました。近付いて来る敵からムスリムたちはムウタという名の村に寄り、そこで両者の間で戦いが繰り広げられました。
ザイド・イブン・ハーリサはアッラーの使徒(祝福と平安あれ)の旗を手にして殉教するまで戦いました。彼の体の全ての場所を多くの弓が付き刺していました。つづいてジャアファルが旗を取り、戦い続けました。戦いが激しくなると、彼は己の馬に傷を付け、戦い続けました。右腕が切り落とされると、左手で旗を取り、左腕が切り落とされると、殺されるときまで両二の腕で旗を抱え続けました。彼は33歳でした。ムスリムたちはジャアファルの胸と肩の間と体の前面に90の傷があるのを見つけました。剣で受けた一撃も弓で受けた傷もすべて体の前面にありました。ジャアファルは楽園に思いを馳せていて、そこでの恩恵を歌い、敵と彼らの数と配備と現世の儚さを嘲笑していました。
ジャアファルが殺されると、アブドゥッラー・イブン・ラワーハが旗を取って前に進みました。彼が馬から降りたとき、彼のいとこが近付いて、骨付き肉を彼に渡して言いました:これで力を付けるんだ。こんなに厳しい日々を送っているのだから。アブドゥッラーは肉を受け取って、少し齧ってから、放り投げて、剣を手にして突き進み、殺されるまで戦い続けました。
参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P323~325
ヒジュラ暦8年
162.ムスリム信徒の使者殺害と、それに対する罰:
アッラーの使徒(祝福と平安あれ)はアル=ハーリス・イブン・ウマイル・アル=アズディーを彼の書簡と共に、ローマ帝国を治めるカイサルが所有するブスラーの統治者、シャルハビール・イブン・アムル・アル=ガッサーニーに使者として送りしました。シャルハビールはアル=ハーリスを縄で縛りあげ、次に彼の首を切り落としてしまいました。当時から各国で使者や使節の殺害が普段から起きることではありませんでした。両者の間に激しい相違があったり、使者たちが携えていたメッセージが嫌われたとしてもです。これは軽視するわけにはいかない事件であり、使者や使節にとって大きな危険をはらんでおり、また送り主と送られたメッセージに対する激しい侮辱であるため、事件を起こした人物は罰せられるべきであり、事件が起きたことに対して怒りを露わにすることで、使節の生命が守られるよう、二度とこのような悲劇が起こらないようにしなければなりません。
163.ローマの領地内における初の軍:
アッラーの使徒(祝福と平安あれ)にアル=ハーリスが殺害されたとの知らせが届くと、ブスラーに人々を送ろうとしました。ヒジュラ暦8年のジュマーダー・アル=ウーラー月に起きたことです。3000人の信徒が出発の準備に取り掛かりました。アッラーの使徒(祝福と平安あれ)は、彼の召使でもあるザイド・イブン・ハーリサを軍の指揮官としました。軍は、先代のムハージルーンとアンサールで構成されていました。彼(祝福と平安あれ)は人々に言われました:《ザイドが倒れたら、ジャアファル・イブン・アブーターリブが指揮を執ること。もしジャアファルが倒れたら、アブドゥッラー・イブン・ラワーハが指揮を執ること》。人々の出発の時間がくると、町に残った人たちはアッラーの使徒(祝福と平安あれ)の軍を見送りました。彼らには長くて厳しい旅と、当時最大の王国の庇護を受けていた強硬な敵が待ち構えていました。
イスラーム軍は歩み進み、マアーンという場所に到着しました。そこでムスリムたちはヒラクルがバルカーゥにてローマから100000人を連れてきていること、そしてアラブの諸部族の多くが彼らと合流していることを知りました。ムスリムたちはマアーンに二晩滞在し、様子を伺いました。そして:アッラーの使徒(祝福と平安あれ)に手紙を送って、敵の数を知らせよう。助っ人が送られてくるかもしれないし、他の命令が来たらそれに従うことにしよう、と言いました。
164.われわれは数や力を理由にして戦うことはない:
アブドゥッラー・イブン・ラワーハは人々を鼓舞して言いました:皆!アッラーに誓って、君たちが嫌いつつも求めてやってきたもの、それは殉教だ。われわれは兵士の数や力や大勢さを理由にして戦うことはないし、アッラーが気前よくわれわれに与え給うたこの宗教においてでしか戦わないのだ。だからこそ、出発するのだ。結果は2つの善のどちらかだ。勝利か、殉教か。この言葉の後、人々は進んでいきました。
165.必死の戦いと、獅子たちの強さ:
人々がバルカーゥの境目に着くと、ローマとアラブの諸部族がバルカーゥにある小さな村のひとつであるマシャーリフで彼らに出くわしました。近付いて来る敵からムスリムたちはムウタという名の村に寄り、そこで両者の間で戦いが繰り広げられました。
ザイド・イブン・ハーリサはアッラーの使徒(祝福と平安あれ)の旗を手にして殉教するまで戦いました。彼の体の全ての場所を多くの弓が付き刺していました。つづいてジャアファルが旗を取り、戦い続けました。戦いが激しくなると、彼は己の馬に傷を付け、戦い続けました。右腕が切り落とされると、左手で旗を取り、左腕が切り落とされると、殺されるときまで両二の腕で旗を抱え続けました。彼は33歳でした。ムスリムたちはジャアファルの胸と肩の間と体の前面に90の傷があるのを見つけました。剣で受けた一撃も弓で受けた傷もすべて体の前面にありました。ジャアファルは楽園に思いを馳せていて、そこでの恩恵を歌い、敵と彼らの数と配備と現世の儚さを嘲笑していました。
ジャアファルが殺されると、アブドゥッラー・イブン・ラワーハが旗を取って前に進みました。彼が馬から降りたとき、彼のいとこが近付いて、骨付き肉を彼に渡して言いました:これで力を付けるんだ。こんなに厳しい日々を送っているのだから。アブドゥッラーは肉を受け取って、少し齧ってから、放り投げて、剣を手にして突き進み、殺されるまで戦い続けました。
参考文献:「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P323~325