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Sightsong

自縄自縛日記

ジャズ的写真集(3) 内藤忠行『NABESAN』

2008-05-31 23:05:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

『ZEBRA』などでも有名な内藤忠行による『NABESAN』(1977年、秦流社)は、渡辺貞夫を追いかけた写真集である。

言ってみればアイドル写真集のようなものであるから、「talented」な音楽家であるナベサダが、世界を旅し、大物の音楽家と渡り合い、豪快に大自然に溶け込み、しかし地道な練習を欠かさない、・・・といったような世界がわかるようなつくりになっている。といいつつ、やはり予定調和にはなっていないのであって、30年以上経った今でも疾走感やリアル感がギンギンに伝わってくる作品群だ。

『アット・ピットイン』や『サダオ・ワタナベ』といったレコードジャケットで見覚えのある作品も多い。ブレや高感度フィルムによる粒子を生かしたカットはとても上手い。間に挟まる、アフリカの動物や風景、ニューヨークの街並みなども絶妙。

観ていると、マウスピースの隙間から時折発せられるキュッキュッというノイズが思い出されて、ナベサダのレコードを聴きたくなってくる。


『アット・ピットイン』のジャケットに使われた写真


顔を隠すこの迫力


時折挟まれるインターミッション


夜の疾走感がとてもうまい


これからの備忘録

2008-05-31 14:36:35 | もろもろ

●エミリー・ウングワレー @国立新美術館 5/28-7/28 >>リンク >>感想
アボリジナルアートの大きな存在。オーストラリアでも観ることができなかった。

●青春のロシア・アヴァンギャルド @ザ・ミュージアム 6/21-8/17 >>リンク
亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書、1996年)を読んでから気になる存在だったフィローノフの作品も含まれているようだ。

●短編調査団 沖縄の巻 @neoneo坐 6/11 >>リンク >>感想
どれも観たことがない『沖縄から来た少年』(1969年)、『シーサーの屋根の下で』(山崎定人、1985年)、『あけもどろ』(野村岳也・田野多栄一、1972年)の3本。とくに『あけもどろ』の野村氏は『イザイホウ』を撮った人であり、読谷の土地を取り上げていることに注目。

●細江英公 『胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄』 @写大ギャラリー 4/9-6/8 >>リンク >>行けなかった
大野一雄は、むかし『天道地道』を観た。色気に期待。

●平カズオ 『ブリュッセル ―欧州の十字路の街で―』 @銀座ニコンサロン 6/25-7/8 >>リンク >>いけなかった
この、ライカと銀塩にこだわり続けた写真家が住んだブリュッセルの作品は、写真雑誌で散見してきた。オリジナルプリントを観るのが楽しみだ。

●北井一夫 『表現派 ドイツ』 @ギャラリー冬青 7月 >>リンク >>感想
三里塚のあとで当時評判が芳しくなかったそうだが、奇妙な建築の写真群はいいと思う(DVD『北井一夫全集2』に収録されている)。

●坂田雅子 『花はどこへ行った』 @岩波ホール 6/14-7/4 >>リンク >>感想
枯葉剤の問題は風化していない。ジャン・ユンカーマンが協力している。

●マーク・フランシス、ニック・フランシス 『おいしいコーヒーの真実』 @渋谷アップリンク 5/31- >>リンク >>感想
エチオピアのコーヒー農家の様子、ひいては国際流通構造を垣間見るために。

●裁判員制度はいらない!6/13全国集会 @日比谷公会堂 6/13 >>リンク >>行けなかった
『けーし風』読者の会に参加された方からご案内いただいた。勉強不足ながら、気になっていることのひとつ。

●盤洲干潟をまもる会 「初夏の干潟自然観察会」 @盤洲干潟 6/15 >>リンク >>記録
小櫃川河口に残された自然。

●翁長巳酉 『エルメート・パスコアール秘蔵映像モロ出し』 @UPLINK FACTORY 6/17 >>リンク >>気が向かず行かなかった
エルメート好きなのだ。マイルスとの共演とか、ナベサダを困惑させた日本公演とか、出てこないだろうか。

●「沖縄戦首都圏の会」総会 @明治大学リバティタワー 6/20 >>リンク >>記録
会の設立から1年。森住卓氏による『沖縄・ヤンバルの森から、「集団自決(強制集団死)」の現場へ』講演。

●藤本幸久 『Marines Go Home - 辺野古・梅香里・矢臼別』 @ポレポレ東中野 7/26- >>リンク
このような、沖縄、北海道、韓国をリンクする試みがあったとは知らなかった。


讃岐の彫漆、木村忠太

2008-05-31 10:34:43 | 中国・四国

所用で広島、新居浜、高松と移動して、最後に1時間ほど時間ができたので、高松市美術館の常設展を観た。今年度の第1期常設展として展示されていたのは、讃岐漆芸、とくに何十回、何百回と塗り重ねた漆を彫る彫漆に注目した『彫漆にみる写実と細密』、それからフランス印象派の後継者を自任した『魂の印象派 木村忠太』だった。

前回この美術館を訪れたときにはじめて讃岐漆芸のことを知り、また観たいと思っていたのだ(→リンク)。今回は、磯井如真が開拓した、漆に点彫りをしては色漆を塗って研ぎ出す「蒟醤」(きんま)の美しいグラデーションを味わうことができなかったのは残念だが、そのかわり、ダイナミックでも細密でもある彫漆のいろいろな作品を観ることができた。

高松藩の漆彫師であり、讃岐漆芸の源流ともみなされる玉楮象谷による「堆朱」(ついしゅ、朱漆を彫ったもの)が1点あった。篳篥を入れるための箱であり、扇のように蓋が開くようになっている。そして花や草がびっちりと彫られており、迫力がある。しかし、1点だけで印象を云々することはできないだろうが、象谷のフォロワーである音丸耕堂や磯井如真の、豪快さ、モダンさ、精緻さなどの多様な側面のほうに、より心が惹かれるものがあった。

音丸耕堂の、堆朱による『昆虫の図』は、硯箱の蓋にトンボ、カタツムリ、キリギリス、カブトムシ、クワガタ、蝶なんかがリアルに掘り込まれている。昆虫の下にある波文は朱漆を25回、昆虫尽くしはさらに100回くらい塗ったあとの工芸だということだ。角度によって色も雰囲気も違う。

磯井如真の作品としては、堆朱や堆黒によるお香の箱がいくつもあった。10センチに満たない大きさの小箱に小さくびっちりと掘り込みがある。トンボだったり、稲穂だったり、筍だったり、茄子だったり、意匠によって浮かぶ気分が違って面白い。

もう1つの部屋で展示されていた木村忠太の作品群は、時期によって大きく変貌していた。1940年代の写実は、香月泰男の『シベリア・シリーズ』を思わせるほどの暗鬱さ。それが次第に光に満ち溢れる作風になっていく。正直言って、渡仏してからの作品はまったく好みでない(日本への手紙で、梅原龍三郎や林武よりも自分のほうが上だ、と書いている。それほど成功していたらしい)。しかし、それよりも前、ボナールに影響されたあとの『食事』などは、室内に注ぐ光が食器も食べ物も子どもたちも渾然と溶かしていて、素晴らしいとおもった。


姜泰煥・高橋悠治・田中泯

2008-05-28 23:59:34 | アヴァンギャルド・ジャズ

下北沢アレイホールで、姜泰煥(カン・テーファン)(アルトサックス)、高橋悠治(ピアノ)、田中泯(舞踏)のトリオを観てきた。

高橋悠治の演奏を実際に目にするのははじめてだ。この、現代音楽の巨匠は、野球帽とサンダルであらわれた。いかにも悠然と空気を読み、短い即興フレーズを、断続的に、しかし執拗に積み重ねていく。

姜泰煥はいつものように座蒲団にあぐらをかいて、循環呼吸での途切れのないサックスを吹く。前に姜泰煥をみたのは、1999年のことだった。それからあと、姜の演奏は、長い音のうねりを中心としたものから、最近、短いピッチの集合体にシフトしたものだと思い込んでいたが、そうでもなかった。この有機体の奔流のような音色は、聴くたびに圧倒されてしまう。そして、田中泯が背後からじわりじわりと迫ってきた。音があってもなくても、会場の僅かな音さえ気になるほどの緊張感があった。


前回聴いたときに、姜泰煥にサインをいただいたサインホ・ナムチラクとの共演盤。ヨハネは洗礼名だとのことだった。


コーヒー(3) 『珈琲相場師』

2008-05-27 23:59:20 | 食べ物飲み物

デイヴィッド・リスによる、文庫本500頁を超える長編『珈琲相場師』(2003年、ハヤカワ文庫)。舞台は17世紀のオランダ・アムステルダムであり、ちょうど先物取引というと引用されるチューリップ・バブルが起きたちょっと後という設定となっている。つまり、先物を含め、金融派生商品のさまざまな方法について模索していたに違いないころだ。この小説でも、新手の神秘的な飲み物として現れてきたコーヒーを使って、市場の操作を行い、大儲けをたくらむ人物が主役である。

コーヒーはといえば、『コーヒーが廻り世界史が廻る』(臼井隆一郎、1992年、中公新書)によれば、この時期はイエメンから他のイスラーム圏に流通させて利益を得ていたオランダ商人が、本格的に輸入するようになった時期にあたる。そしてこの後まもなく、「買って売る」から、「作って売る」にシフトしていく。セイロン(スリランカ)やジャワ(インドネシア)でのプランテーションのはじまりであり、すなわち、土地の支配者、植民地政府、東インド会社、商人という流れの利益構造ができていくわけである。当然不利益は生産者に強いられる。何のことはない、こう書くと、現在の流通構造と本質においては変わっていない

商品としての利益のあり方が変わり始めるだけでなく、コーヒーがヨーロッパ人たちの体内を循環しはじめるころでもある。この小説でも、コーヒーを充分に買ってくれないトルコ人の夫たちは妻が離婚できるそうだ、とか、コーヒーハウスでケシの抽出液と混ぜて肉体の歓楽を得るらしい、とか、ヨーロッパ人にとってのワインのようなものだ、とか、商人たちがまことしやかにコーヒーの魅力を囁く様子が楽しい。

決してストーリーテリングが上手いとはいえないし、徒に長いが、それらを差し引いても、コーヒーが西側世界を浸蝕する一断面を描いていて、面白い。


『あごら』 「沖縄の声」を聞いてください―少女暴行事件に想う―

2008-05-24 23:59:37 | 沖縄

『けーし風』読者の集いに出席されていたHさんに、この『あごら』を送っていただいた。特集は、米兵による少女暴行事件のことだ。2008年2月、基地外に居住する米兵が、中学生に暴行をはたらいた。しかし、被害者は自ら提訴をとりさげたとされる。

この背景には、日本の法律が、殺人、強盗、放火、強姦の凶悪犯罪のうち、最後の1つだけが「親告罪」となっている(本人の起訴意思が問われる)状況がある、ということだ。

明らかに個別の事例ではなく、構造的な問題であろうから、見えない事件を含め、幾度となくこのような暴力が繰り返されるのだろう。本誌の多くの声から、共通項として見えてくることは、事件が顕在化するたびに披露される政治的なセレモニーが欺瞞に他ならないこと、私たちの分身がいつの間にか加害の側に身を置いてしまっていること、といったことである。もっと直接的に言えば、基地や軍隊といった存在がこのような暴力をもたらし続けることが必然であるにも関わらず、それを覆い隠そうとする意識は、必然すなわち暴力的な構造が見え隠れするたびに苛つき、構造を否定しようとする力を憎み始めるのではないか、というわけだ。そして、「基地があるから暴力事件が起きるのだ」という直接的・本来的な見方こそが回避されるばかりか、いつの間にか、短絡的な憎むべき思考ということになってしまう。この歪んだ回路は、他者のものではない。

今回の事件を契機に、米軍の基地外住宅の現状が見え始めてきているようだ(つまり、これまで全貌がまったく見えていなかったということだ―――国会で最近追及されるまで、政府も、基地を置く自治体の長も把握していなかった)。米兵が基地外に住んで基地に通う。住民登録をしていない存在。そしてその住居費用は非常に高く、私たちの税金がふんだんに投入されている。

数字を拾ってみる。(すべて本誌からの孫引きであり、検証のためには元の数字にあたらなければならないことが前提)

●基地外住宅の数は、登録6,098戸、契約5,107戸。(2007年9月現在)
●自治体別に見ると、多い順に、横須賀市、北谷町、沖縄市。
●住宅の家賃は20~45万円。建設費も家賃も「思いやり予算」から充てられている。
●沖縄には、軍人・軍属・家族あわせて44,968人が駐留。軍人22,772人の内訳は、陸軍880人、海軍1,970人、空軍7,100人、海兵隊12,520人。
●基地外居住者は沖縄県10,319人、本土11,566人。神奈川県は5,672人、うち横須賀市3,420人。相模原市は119人ながら、厚木と座間の近くを含めると1,232人。(米軍発表)
●1945~2004年に訴えのあった性暴力の被害者総数258人(10代未満5人、10代59人、20代94人、30代37人、40代23人、60代6人、その他34人)。加害者493人。加害者のうち処罰を受けたのはわずか33人。これらは訴えのあった数であり、訴えないほうが圧倒的に多いとされている。(「基地・軍隊を許さない女たちの会」調べ)
●沖縄市における米軍構成員等による犯罪は、2003年度31件、2004年度11件、2005年度17件、2006年度20件、2007年度18件(2007/2/23現在)。所属別にみれば、海兵隊29件、空軍21件、陸軍7件、海軍5件の順に多い。なお、海兵隊は<即戦部隊としての訓練を受けている>ものと位置づけられる。そして全体の67%、凶悪犯・粗暴犯の74%は深夜に発生している。
●米軍における1年間(2006年10月~07年9月)の性的暴力は、報告数だけで2,688件であり、米兵1万人あたり18件。日本社会の強姦と強制わいせつ件数は1万人あたり0.8件。

こうして見たあとに、あらためて、目立つ事件が起きるたびに「怒りを覚え」、「綱紀粛正を求める」セレモニーが意味するものがはっきりしてくる。


森山大道展 レトロスペクティヴ1965-2005、ハワイ

2008-05-22 23:59:30 | 写真

所用で恵比寿に行った帰りに、東京都写真美術館で開催中の『森山大道展 I. レトロスペクティヴ1965-2005、II. ハワイ』を観た。

『レトロスペクティヴ』では、『プロヴォーク』への掲載作品、『写真よさようなら』、『何かへの旅』など、森山大道の代表作とされるものを観ることができた。面白いのは、60年代、70年代の雑誌掲載作品が、印刷とオリジナルプリントとでクオリティがあまりにも異なることだ。雑誌の印刷により、極度にハイコントラストさが強調されたことが、森山大道神話の形成に一役買ったのではないだろうか、とまで思わせる。だからといってそれがメディアのトリックだと言う気は毛頭ないのであって、オリジナルプリントの持つ存在感は、現在まで観る私を圧倒する。

これまで森山大道について感じていたこと。仁侠映画的にまで肩で風を切っておきながら、その実はシャイで、小心であるのではないかということである。スナップにおいても、相手に気付かせないという意識が作品に染み出ていて、実際、後姿やおそらくノーファインダーでの撮影が目立っている。今回作品群を観ながら思ったのは、これはひとが息をしながら見るぎりぎりの視線と重なるのではないか、といったことだ。その意味で、表面の<擦れ>も、背後にあるかもしれない<意味>も、結果としての<印画紙>も、全て表面であり、かつ内面である。しかし、この衡平さは絶望的なところに成立しそうではある。そして、森山大道の写真には、エネルギーとその裏返しの無力感が横溢している(写真よさようなら、か)。

最近の『ハワイ』では、痛いほどまぶしい光が、印画紙の<白>となってこちらがわにまわりこんでいる。新しい森山大道にも、まったく変わらない森山大道にも見える。

『ハワイ』の展示の一角では、撮影風景の映像を上映している。40分くらいはありそうだ。音楽がジム・オルークの飽き飽きするもので悪くない。森山大道は、オリンパスのOM-1か2、リコーGR-1やGR-21、オリンパスペン(だろうか)、などを幾つも下げて、視線を焼き続けている。あまりにも不自然な様子(木村伊兵衛のような溶け込む自然さとは対極的)であり、存在の違和感が妙に嬉しくなるのだった。

参考
『季刊d/SIGN』の「写真都市」特集
『SOLITUDE DE L'OEIL 眼の孤独』

 

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樹木からコースターとカメラのグリップ

2008-05-20 23:28:42 | オーストラリア

パースの書店で、矢も盾もたまらず『A GUIDE TO PLANTS OF INLAND AUSTRALIA』(Philip Moore、New Holland Publishers、2005年)という本を買った。(ところで、出版社の名前は、17世紀にオランダ東インド会社が航海士エイベル・タスマンに南方を調査させ、その後、オーストラリアの西側を「ニュー・ホランド」と呼び始めたことに由来するのだろうか。だとすると凄い名前だ。なお、タスマンの名前はタスマニア島に残っている。)

オーストラリアの専門家に聞くと、ユーカリは、主要なものだけでざっと200種類はあるという。この本にも、Eucalyptusの項に50種くらい掲載されている。またアカシアは90種類くらいも掲載されている。郊外で見る潅木にもユニークなものが多くある。

シドニーのロックス地域で週末に開かれる屋外マーケットでは、自宅用に、バンクシアの実から作られたコースターを手に入れた。これが面白くて、実が輪切りになっており、ずれないように心棒が通っている。そのコースターは6枚ある。実用的かどうかは少し微妙だ。

正確には「Banksia Grandis」を使っているようで、売り場にもその写真が貼ってあった。残念ながらこの本には掲載されていないが、西海岸の他のバンクシアが似ている。

ところで、私は以前から、カメラに、オーストラリアのアカシアから作られたハンドメイドのグリップを付けている。オーストラリア人が、このペンタックスLXというカメラのマニアで、ネット上で売りに出していたものだ。やはりプラスチックと違って、握り心地がとても良い。

正確には「Acacia Cambagei」といい、本書には通称ギッジーというのだと書いてあった。ニューサウスウェールズ州とクインズランド州に分布していて、雨の時期や花が咲く頃には天然ガスのようなひどい臭いがするとある。もちろん、グリップからはそんな臭いはしない。

この作り手は、もう割に合わないので作らないということだった。いま考えれば、機会があるうちにもう1個くらい確保しておくべきだった。


オーストラリアのアート(4) アボリジナルアート、フィオナ・ホール、グリーソン、ドライスデイル、ボイド

2008-05-19 08:55:10 | オーストラリア

シドニーでは、もう仕事が終って休日、乗り継ぎの関係で1日ゆっくりと使うことができた。

●現代美術館(Museum of Contemporary Art)

3階では、『彼らは瞑想している』と題された、おもに北部準州(NT)のアボリジニたちによる、1960年代以降の樹皮アートが展示されていた。モチーフ、人、カンガルー、エミュー、蛇、鰐、ディジェリドゥ(楽器)、魚など様々だ。面白いのは、それぞれ模様を大き目の格子で区切ったり、内臓を模様として描いたりといった共通点が見られることだ。樹皮の上に、白や茶や黒の色が付けられている。

なかでも、指導者的な立場であったイラワラ(Yirawala)の作品がフィーチャーされていた。実際に、カンガルーを狩る人の絵など、他の作品よりも動きの表現が豊かで、また手形を隙間にスプレーで付けるなど余裕が感じられた。

会場の一角には、映像コーナーが設けられていて、60年代の記録映像を観ることができた。祭祀の様子なのだが、大勢が木と木を1秒に1回くらい叩き続け、そのテンポでステップを踏みつつ踊っている。観ていたら、疲れていたこともあって、居眠りをしてしまった。


イラワラの作品(1970年)(一部分)


イラワラの作品(1976年) ポストカードより

階下では、フィオナ・ホールによる『力の場』と題した展示を行っていた。キャンベラの国立美術館でも観たのだが、缶などから生えた植物を模した金属のデリケートな彫刻のシリーズが最も有名なもののようだ。ここでの展示を観ると、それが精巧なミニチュアの面白さのために植物を題材にしているのではなく、壊れやすく多様な自然を大事に考えていることがよくわかる。特に、新聞紙を使って自然を模した作品や、紙幣の上にさまざまな植物の葉のドローイングを配したシリーズなど、世界への愛情さえ感じられる。エロチックだったりもするのだが、それも、いのちという文脈でみえてきた。


アルミのサーディン缶にジャイアントケルプを配した作品(2007年)

●ニューサウスウェールズ州立美術館(Art Gallery of New South Wales)

とても大規模な美術館であるから、地下3階の現代アボリジナルアートと、1階の20世紀オーストラリア美術に絞って観た。

現代アボリジナルアートについては、『Living Black』と題されていた。


子供向けに頒布しているパンフ

上述の樹皮アートとは異なり、平面上に描かれるアボリジナルアートは、多くのドットとその集合によるうねりを用いて、洞窟、沼、川、食べ物などの世界を表現する共通点がある。しかし、かろうじてそのような分類に入る作品でも個性がそれぞれ異なり、また、当然、類型からはみ出す拡がりがある。

例えば、
ヤクルティ・ナパンガティ(Yukultji Napangati) 黄色とオレンジのドットによるうねり。
ワラングラ・ナパナンガ(Walangkura Napanangka) 黒地に赤・白・黄の浮き出たドットによるうねり。他の作品では線も効果的に使っているようだ(→ リンク
ロゼッラ・ナモク(Rosella Namok) 黒地に縦何本もの薄い茶色のグラデーション。川をあらわしている。他の作品でも縦線を使っている(→ リンク
ルーシー・ユケンバリ・ナパナンガ(Lucy Yukenbarri Napanangka) 白、黄、赤、紅などのドットによる色分け。食べ物をあらわしている。
ローナ・ナパナンガ(Lorna Napanangka) 黒地に赤ドットのクラスター群。ゆるいうねり。

こういった若手よりも何回りも上の、エミリー・ウングワレー(Emily Kngwarreye)の作品展が、今月から国立新美術館で開催される。いまからとても楽しみだ。残念ながら、この美術館では展示していなかったが、アボリジニの芸術家たちのなかでもとりわけ評価されているようだ。(→ リンク

1階には、20世紀オーストラリア美術の広いコーナーがある。先述の国立美術館で観た、ジェームス・グリーセンやアルバート・タッカー、シドニー・ノーランはもちろんだが、アーサー・ボイドによる終末的、カタストロフィー的な作品が多数展示されていて、これにも興奮した。


アーサー・ボイド(1966-68年) ポストカードより

また、ラッセル・ドライスデイルによる、エッジのくっきりしたアボリジニの絵やゴールドラッシュ跡のゴーストタウンの絵なども素晴らしいとおもった。


ラッセル・ドライスデイル(1947年) ポストカードより


オーストラリアのアート(3) グリーソンらのシュルレアリスム、ノーラン、デュペイン

2008-05-19 08:00:00 | オーストラリア

●オーストラリア国立美術館(National Gallery of Australia)

キャンベラの国立美術館では、『オーストラリアのシュルレアリスム』と題して、おもに1930年代、40年代あたりの作品が集められていた。解説によると、ヨーロッパにおけるブルトンやフロイトらの動きに起因する精神分析的な作品ではなく、マグリットやダリなどのイマジナリーな側面が、オーストラリアにおいては強く影響していたようだ(もっとも、ダリには両方の側面があるのだろう)。そして、オーストラリアでも、自国のシュルレアリスムの歴史は最近までほとんど認識されていなかったという。


図録の表紙と裏表紙(ともにジェームス・グリーソンの作品)

展示作品のなかでもっとも鮮烈だったのが、ジェームス・グリーソンによる悪夢の世界だ。この細密さは真っ先にダリを思い出させるが、脈打つようなマチエールはエルンスト的でもある。もちろん、世界はグリーソン独自のものだ。

クリフォード・バイリスアルバート・タッカーらのユニークな作品もいい。また、写真家マックス・デュペインによる、「無関係なものを無意識的に組み合わせる」というシュルレアリスムの典型的な作品群も悪くない。

○『オーストラリアのシュルレアリスム』展の解説(グリーソン、デュペイン、ボイドなどの作品群を「Selected Works」で観ることができる) → リンク
○グリーソンの作品群(今回の展示外)① → リンク
○グリーソンの作品群(今回の展示外)② → リンク
○バイリスの作品群(今回の展示外) → リンク

別室では、シドニー・ノーランによる『ネッド・ケリー』のシリーズがまとめられていた。ネッド・ケリーはオーストラリアの19世紀のアウトローであり、いわば大衆的ヒーローである。とても人気があり、先述の国立フィルム・音響アーカイヴでも、最近映画化された際のマスクや衣装なんかの小道具を展示していた(その前は、ミック・ジャガーがケリーを演じたこともあるそうだ)。市場でもオーナメントの類になっている。

たまたま子どもたちの社会見学に鉢合わせして、学芸員が解説するのを聞くともなく聞いていた。学芸員が「ネッド・ケリーは体制に立ち向かった人のiconなのです。iconって何だかわかりますか。」と尋ねたところ、子どものひとりが「symbolのようなものだね」と答え、完璧な回答だと褒められていた(笑)。実際、ジャン・コクトー『オルフェ』の劇のデザインなど、グラフィックな面でも活躍したノーランによるケリーのマスクは、違和感をあえて感じさせるようなセンスのものであり、ケリーの活躍から逮捕までを続けて観ると絵物語のような効果があった。


シドニー・ノーランによる『ネッド・ケリー』シリーズの1枚

●オーストラリア国立アーカイヴ(National Archives of Australia)

シュルレアリスムの流れにも位置づけられていたマックス・デュペインだが、ここでは、依頼仕事の成果をまとめて展示していた。二眼レフ、ローライコード(これも展示してあった)で撮影された自然光に溢れた作品は、あまりにも強い陽光によってハレーション気味であり、優しく、悪くない。

しかし、企業からの依頼による工場や労働風景の作品は、当然だが固定したイメージをあえて見せるだけのものであり、たいして面白くもなかった。このあたりの作品群はスナップではないから、依頼仕事らしく大判カメラで撮影されている。室内では、デュペインの撮影風景や白黒プリントの様子がヴィデオで流されていた。暗箱はサンダーソンとか言っていただろうか、レンズはツァイスのテッサーだった。そして引き伸ばし用のレンズはシュナイダーのコンポノン180mmF5.6。


オーストラリアのアート(2) キャンベラの国立フィルム・音響アーカイヴ

2008-05-18 23:59:58 | オーストラリア

キャンベラには国立アーカイヴが2つある。ホテルのフロントで嘘を教えられて、行くつもりでなかったのに、この国立フィルム・音響アーカイヴ(National Film & Sound Archive)を訪れた。

映画・映像と音の記録を収集管理している施設であり、常設展示室があった。そんなに広くもないのだが、それぞれのブースで流されている映像を全部観ていたら時間がいくらあっても足りない。それで、いくつか興味深いものを集中して観た。客はほとんど居なかった。


パンフが何種類もあり、ネッド・ケリーの物語(左)やアボリジニの記録(中)など独自性を出している

●『ココダ・フロント・ライン』

第2次世界大戦時、ニューギニアのココダにおけるオーストラリア軍と日本軍との戦闘のドキュ(ダミアン・パラー、1942年)。アカデミー賞を受賞していて、オスカー像も飾ってあった。短いので全編を観た。おそらく当時にしてみれば生々しすぎる最前線の映像であり、日本軍の手ごわさを語っているあたり、情報隠蔽を主としていた日本の様子との違いを感じさせる。オーストラリア軍はニューギニア現地の住民を使っていて、「彼らの皮膚は黒いが、いまや白人だ」と、白豪主義そのもののようなナレーションを挿入していることも、紛れもなく時代的だとおもった。

●ポール・コックス(Paul Cox)の映画

まったく知らなかった映画監督だが、2006年の「Ken G Hall Award」という賞を受けたとかで、過去の監督作のフッテージが経年的に流されていた。何も考えず観ていると、一度沈んだような渋い映像と、思索的であったりエキセントリックであったりする雰囲気に、かなり惹かれるものがあった。

帰国して調べてみると、多作で多様、低コストで撮ることが多く、また製作面にのみ注力されるオーストラリアの映画界にあって異色な、作家性のあるひとらしい。また、本人の好きな映画監督は、ルイス・ブニュエルと、グルジアのセルゲイ・パラジャーノフだという(Philip Tyndall、2000年 → リンク)。

また、日本ではあまり公開されていない。老人の介護を描いた『ある老女の物語(A Woman's Tale)』(1991年)や、老いてから恋愛する『もういちど(Innocence)』(2000年)の評価が高いようだ。実際に、アーカイヴで観たこれらのフッテージは印象的だった。前者は、青い塗り壁の前に登場する老女の姿。後者は、恋愛相手の昔の姿(おそらくスーパー8)を鏡を用いて挿入する切ないシーン。

『Cactus』(1986年)の幻想的な映像は、麻薬としてのサボテンをとりあげたものだろうか。またゴッホを描いた『Vincent』(1987年)は、D.D.ダンカンがコダックのネガカラーで撮った写真集『ひまわり』を思い出させる、まっ黄色なひまわりの鮮やかさだった。

かなり観てみたい。まずはレンタル店で探してみようかとおもう。

○「NY Times」によるフィルモグラフィー(いくつか予告編がある) → リンク
○『ある老女の物語』予告編 → リンク

このアーカイヴには映画館も併設されていて、たとえば5月のプログラムは『黒い罠』、『アメリカの夜』、『アルフィー』、『イタリア旅行』などとてもいい感じ。近くにあったら通ってしまいそうだ。しかし、この日の夜はトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』。高校生のころ友だちにヴィデオを借りて、しばらく思い出しては畏怖していた記憶がある(怖い映画は苦手なのだ)。何で外国に来て、血生臭い映画など観なければならないのかと思い、さっさとホテルで寝た。


オーストラリアのアート(1) パースの西オーストラリア博物館、現代美術館、侯孝賢の新作

2008-05-18 16:38:36 | オーストラリア

オーストラリアに、仕事で1週間あまり行ってきた。「today」=「トゥダイ」はもとより、「may」=「マイ」、「paper」=「パイパー」など、独自の発音に一瞬ためらう。もっとも、昔、英国を初めて訪れたとき、ああ、自分が教わっていたのは米語だったのだと思い知ったときほどのインパクトはなかったが。

カンタス機のなかで、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の新作『Voyage du ballon rouge(赤い風船の旅)』(2007年)を観ることができたのは嬉しかった。深夜便で、ビールを飲んで、英語字幕が霞んでいて、要は少しうとうとしながら観たのだが、確信犯的にゆったりとしたリズム、フィルム内のフィルム(ジュリエット・ビノシュの息子を世話する若いSong Fengとう女性が、赤い風船を巡る映画を撮っている)のもたらす夢のような効果など、とても印象的だった。上映される際にはまた観ようと思う。

○『Voyage du ballon rouge(赤い風船の旅)』の予告編 → リンク

パース、メルボルン、キャンベラ、シドニーと、西から東への強行軍。それでも暇を見つけては、いろいろ覗いてきた。自然や街やライヴ(シンディ・ブラックマンを聴いた)の写真はおいおいアップするとして、美術館・博物館は、こんなところを訪れた。

○パース 西オーストラリア博物館、パース現代美術館(PICA)
○キャンベラ オーストラリア国立美術館、国立フィルム・音響アーカイヴ、オーストラリア国立アーカイヴ、首都計画展示館
○シドニー 現代美術館(MCA)、ニューサウスウェールズ州立美術館
(これだけみると遊びに行っているようだが、もちろん誤解である。)

まず、パースの美術館・博物館を紹介したい。

●西オーストラリア博物館

恐竜やコアラやウォンバットなどの骨格、マングローブ類、数多い珊瑚や海綿や蟹(『美味しんぼ』で紹介されたマッド・クラブもある)など、駆け足では全部を観ることができなかった。それでも、今回西海岸で実際の姿に触れることのできなかったストロマトライトの34.7億年前の化石を観たことが最大の収穫。1980年代に放送されたNHKスペシャル『地球大紀行』で初めてその存在を知ってから、憧れていたのだ。

また、特別展として、西オーストラリアで最も古い歴史を持つというアボリジニ、「Katta Djinoong」の展示が充実していた。19世紀末頃の、樹皮を用いて作られた盾、ブーメラン、投げ棒、皿などや、現代のアボリジナルアート、さらには英国による支配・虐殺の歴史などがテーマ別にまとめられている。

興味深いのは、1960年代ころまで、白人への同化政策として、アボリジニの赤ん坊を白人が引き取って育てるということが行われていたということだ。親から引き離されたことによる精神的な傷がもたらした影響やルーツ探しに関して、ヴィデオで、大人になったその子どもが語っていた。

また、子どもの生活力教育として、「大人が使う道具を小さくしたものを与える」という面白い習慣が紹介されていた。ブーメランも、押し車も、使えるものが小さく作られている。

○会場の雰囲気 → リンク

●パース現代美術館(PRCA)

HATCHED」という、若いアーティストの公募による発表の場のようだ。美術館というか、3階まであるちょっとしたギャラリーという感じだ。西オーストラリア博物館の隣、ユーカリの大きな樹のもとに入口がある。公立の美術館・博物館はだいたい夕方5時には閉まってしまうが、こちらは6時までなので飛び込むことができた。

ちょっとたかを括って言えば、国によらず、若者の現代美術なんて玉石混交であり、ずぶずぶと肥大した自意識と止め処もない暴力的なものにうんざりさせられる。これもそうだ。深みのないコンセプチュアルアート、どこかで見たようなもの、垂れ流し。それでも声を立てて笑ってしまうような良いものがあった。

ダグラス・ハスレム『小さなダンサーと音楽猫』。自分の祖父母をイメージして歯磨きなんかから作られたという、文字通り「tiny」な作品。2作品だけあったが、シリーズになればさぞ楽しいだろう。

ヘイディ・ケンヨン『あなたの考えうる全ては真実だ』。アボカドの葉を切り絵風に刻んで作られた何葉もの作品群で、これも「tiny」な感じだ。ヴァルネラブルというか、フラジャイルというか、物理的な弱さと存在の強さのバランスが気持ちいい。

ミーガン・スプラグ『肩をすくめたアトラス』。ぱっと見にはわからないが、同じ型から作られたこの4,000体ものプラスチック人形は、首も背中も丸めてうずくまって座っている。集団の象徴、1人1人がそれぞれ世界の重みを肩に負っているというコンセプトのようだ。ということは、コレクティヴでありなから個の象徴ということにもなる。おもわず笑ってしまった。こんなうな垂れた体育座りが一杯いると、ちょっと腹がむず痒くなってくる。

会場でアンケートに答えると、クランプラーのバッグが抽選で当るということだった(当然書いた)。そういえば、クランプラーはオーストラリアの自転車乗りが開発したものだった。

○「HATCHED 08」 → リンク


三番瀬(5) 『海辺再生』

2008-05-10 09:11:37 | 環境・自然

NPO法人・三番瀬環境市民センターによる『海辺再生・東京湾三番瀬』(築地書館、2008年)が出ていたので早速読んだ。表紙に、去年観察会に参加したとき(→リンク)の私の姿が写っている。何だか間抜けだ。

前半は、主に最近のNPO三番瀬や三番瀬フォーラムによる、自然保護と再生に向けた取り組みの内容が具体的に書かれている。とくに三番瀬付近からほとんど消えてしまったアマモを再生しようとする動きについては、その執念や熱意に驚かされる。漁協や市などを説得しながら、富津のアマモを移植し(富津にも東京湾で数少ない干潟が残っている)、工夫して植え付けをし、厳寒の海でもモニタリングを行うというすごさであり、尊敬にあたいする。その、育成中のアマモの観察は面白い。酸素を水中に供給しながら、生き物たちの棲家となっていて、貴重なギンポ、メバル、シバエビ、アサリの稚貝などがアマモという場所を活用していたという。実験的にごく一部に植え付けただけなのに、そこを生き物たちが見つけ、最適化をはかるということは、本書にも書かれているが、あらためて不思議なことだ。

本書の後半は、主に80年代からの三番瀬保全の経緯、とくに千葉県での意思決定方法のまずさについて説明がなされている。このあたりは、三番瀬埋立の白紙撤回を掲げて堂本現知事が当選し、三番瀬についての円卓会議がスタートした2001年に書かれた『三番瀬から日本の海は変わる』(三番瀬フォーラム、きんのくわがた社、2001年)とあわせて読むと、議論や雰囲気の変化が把握できる。前書のあと、円卓会議の議論は停滞し、このNPOも議論の場から離脱する。従って、行政の場での議論についての書きっぷりも、この2冊の間には大きな乖離がある。

あらためて今回の本書で主張していることは、「三番瀬の特性や歴史について知見を持たないメンバーをへんに含めたやり方は間違っている」ということだ。とくに論点として、人為的に開発された結果衰えてしまった三番瀬に対して、植生や干潟の回復の特別なてこ入れを行い、市民が海にアクセスしやすいような都市計画(道の駅、公共交通など)を進めるべきだということが主張されている。このあたりについては、乱暴に言えば「三番瀬について長く研究し、知見をもっとも持つメンバーが、行政をコントロールし、良い方向に持っていくべきだ。素人を含めた全会一致原則などでは話がいつまでたっても前に進まない」ということだと思うが、半分は納得しつつも、半分は違和感を禁じえない。仮に議論のトレーサビリティを確保してもらったとしてもだ。これまでの実績に裏付けされた矜持は、環境エリート主義と表裏の関係にあるような印象を、どうしても持ってしまうのだ。勿論、主張内容には、「素人」としては概ね賛成なのだが。

三番瀬を巡る「諍い」を、逆の側から書いた、『公共事業は変われるか 千葉県三番瀬円卓・再生会議を追って』(永尾俊彦、岩波ブックレット、2007年)というものもある(→リンク)。この内容については全く評価できないのだが、「三番瀬保全のための開発」が、なし崩しに「第二湾岸道路を含めた、開発のための開発」になってしまうのではないかという危惧に関しては、確かにひっかかるような気がする。

来年行われる千葉県知事選において、湾岸の開発がどのように争点となるのか、あるいはあえて伏せられるのか、という点にも注目しておきたい。


土田ヒロミのニッポン

2008-05-08 23:59:28 | 写真

銀座ニコンサロンで開催中の『土田ヒロミのニッポン』を覗いた。

主に70年代以降の、この写真家による代表作からピックアップされている。「俗神」(1968~74年)では、青森、浅草、富士山、伊勢神宮などの場における、ひとの蠢きが記録されている。対象は汁が滴りそうなくらいの生き物なのだが、写真はドライというのか、皿のような眼でみているような感がある。土俗といえばキャッチフレーズ的で簡単だが、ここではむしろ、どのような存在であれ無数の神になりうる無数の地場に惹きつけられるものがあった。

これが、本当に無数の群集を捉えた「砂を数える」(1975~89年)になると、何といえばいいのか、写真家の目線もそうなのだろうが、観るこちらも何ものかに圧倒されて距離を置くほかなくなるようだ。

モノクロプリントは、富士フイルムの多階調バライタ紙であるレンブラントが使われていた。このような質の作品群を観ると、本当に眼が悦び、重心が下がるような気がする。

新・砂を数える」(1995~2004年)や「続・俗神」(1980~2004年)は、フィルムのデジタル化、エプソンのプリンター出力に移行している。写真家は楽しんでいるのだろうそれらは、やはり、神の眼でもなく、同じ場を共有する人の眼でもなく、記録者としてのものだとおもった。

今回は展示されていなかった「ヒロシマ」も含め、数十年も持続して記録してきた跡の迫力ということだろうか。そして、安易な感情移入や解釈を許さないものがあるように感じた。


『Point of Departure』のスティーヴ・レイシー特集

2008-05-06 23:24:51 | アヴァンギャルド・ジャズ

音楽評論家・横井一江さんのブログ『音楽の長いしっぽ』(→リンク)で、ジャズのオンライン・マガジン『Point of Departure』の存在を知った。最新号はスティーヴ・レイシーを特集しているというので、まずはナナメ読みしてみた(→リンク)。

表紙の写真では、レイシーが窓から外に向かってソプラノサックスを吹いている。どこかで見たと思ったら、『Sands』(TZADIK、1998年)のジャケット内部の写真とおそらく同じときに撮られたものだ。


『Sands』(TZADIK、1998年)の内部の写真

面白いのは、ブノワ・デルベック(ピアノ)とアラン・チェイス(サックス)による対談だ。デルベックが、レイシーはたとえばドン・チェリーとのセッションなど完全即興も行っていたが、次第に「曲」をベースとするスタンス―――それでも自由さは損なわれない―――に収斂していったのではないかと考える。チェイスはそれに対し、レイシーがセロニアス・モンクの曲をモチーフに演奏を極めていったのはもとより、レイシーの演奏から感じられる規律や物語性やリズム的言語は、伝統的なニューオーリンズ・スタイルやシカゴ・スタイルに起因しているのではないか、と発言する。さらには、レイシーのことを、トラディッショナルからビバップを飛び越えてフリーに至った稀な音楽家と位置づけており、納得できる。

そして、もの凄いエピソードが飛び出す。レイシーが、亡くなる6日前に、チェイスに打ち明けた思い出話だ。マイルス・デイヴィスは、グループからジョン・コルトレーンが脱退し、ウェイン・ショーターが加入する前、ギル・エヴァンスを通じて、レイシーをグループに誘っていたという。そしてライヴに参加したとき、あまりにもテンポがはやく、レイシーはテンポとエネルギーを維持しようと努めたが全く合わないため、1曲で楽器をしまいこんだ。次の機会に、マイルスがレイシーに楽器を持っているかと尋ね、いやないと答えると、「Shit」と吐き棄てたという話である。

まるで水と油のような2人の個性、もしチェイスが語っているように、ごく短期間でも音楽を共にしていたなら、どのような世界が繰り広げられたのだろうか、と想像する。あるいはサム・リヴァースのように、マイルス・ファンからは忌まわしい異物のように扱われただろうか。(なお、私はサム・リヴァースを聴くために、『マイルス・イン・トーキョー』を大事に持っている。)

他の記事からは、レイシーがテキスト、特に詩を、演奏に至るまでの過程と演奏そのものにおいて大切にしていたことがわかる。ここで詩というのは、朗読にしても文字にしても、身体を通過したものということが大前提となる。すなわちリズムであり、色彩感であり、トーンであり、微妙な音やつっかえであり、個人の声であり、と挙げていくと、レイシーのひしゃげたような音、かすれ、トーンの変化などと重なっていくことに気がつく。


『Sands』(TZADIK、1998年)

●参考 レイシーは最後まで前衛だった