メメント・モリという単語がある。意味としては死を忘れるなだとか死を想えといったものだ。
この概念自体は割と有名なので聞いたことがある人も多いだろう。
現代で最もこの概念を共有させたのは、かのスティーブ・ジョブズによるスタンフォード大学での講演で、彼はそこで
「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」
「違うという答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直した方がいいんじゃないだろうか」
と問いかけ、最後に「ハングリーであれ。愚か者であれ」と宣言してスピーチを〆た。
人間はいつか死ぬ。だから精一杯生きよう。そういう風に認知をスイッチするのに、この言葉は恐らく使われている。
お前は不死身ではない
ただ同時に、このメメント・モリという言葉がどういう事を言いたいのかがよくわからなくなる事も多かった。
確かに私達は必ず死ぬ。
しかし、それならそれで陰鬱な死を考える時間を持ち、凹む時間をわざわざ作る必要があるのだろうか?死なんて忘れられるなら、直前まで忘れてた方が幸せじゃね?そういう風にも僕は思えるのである。
そもそも調べてみると、元々このメメント・モリはローマで戦に勝った将軍が、勝ち戦に気を大きくして「俺は不死身で無敵の将軍だから、どんな無茶な戦いでも絶対に勝つんだ」という風に気を大きくしてしまいがちなので、それを咎めるために凱旋パレードの最中に隣に囚人を置いて
「死を忘れるな。お前は必ず死ぬ」
と何度も何度も言い聞かせたのが元々の由来なんだそうだ。
ならメメント・モリは出典に従えば
「調子にのるな」
ぐらいのニュアンスのはずなのだ。少なくともジョブスのスピーチのように感動する要素は全くない。
死なんて忘れてた方が幸せなんじゃないだろうか?
繰り返すが、私達は必ず死ぬ。この事実は純粋に多くの人にとって恐怖なので、多くの人は意識の底に沈めている。
死は生物的には恐怖以外の何物でもない。
その恐怖はたまに思い出す分には悪くはないかもしれないが、常にそれを頭に抱え続けるまで来ると、なんていうか病的である。
「なんかちょっと違うんじゃないか?」
そういう思いがずっと頭から離れなかったのだが、最近になってようやくメメント・モリに対する納得できる理解が自分の中で醸造されてきた。今日はそれについて書いてみようかと思う。
イライラするのは動作が遅いのが原因ではない
あなたがネットサーフィンを楽しんでいたとしよう。
サクサクとページが動くのはとても気持ちがいい。その一方で、ネット回線が混雑しているからなのか、突然ページがモッサリして動きが悪くなると、物凄くイライラしてこないだろうか?
「なに当たり前のことを言ってるんですか?」と思われる人も多いだろうが、実は客観的に分析すると、これは大変に奇妙なことなのである。
いくらページがモッサリしたとしてもだ。それを時間にすれば高々10秒とか、そんなもんである。
改めて日常生活を見直してみると、私達は割と平気で10秒や5分、いやそれ以上多くの時間を無駄にする。
例えば僕は趣味でパンを最近焼いているのだが、パンがオーブンで焼けている様は30分とかみていても全く飽きない。
むしろこの時間は有意義にすら感じるが、他人からみれば時間の無駄遣い以外の何物でもないだろう。
つまり…ネットのページがモッサリしてイラつくのは、動作が遅いとか時間云々の問題ではない。
じゃあ何に私達はイラついているのだろうか?それは「自分ではコントロールできると思っているのに、実はコントロールできないという圧倒的な現実を突きつけられている」というものだ。
期待値を下回ると、人はイライラする
どんなに遅くても、どんなに時間がかかっても、最初から「そんなもんでしょ」と思っている事にはイライラはしない。
例えばAmazonに荷物を頼んで、当日だか翌日に届いて「こんな荷物を運ぶのに、○時間もかかんのかよ」と憤る人はいない。
まあ相場的に、そんなもんじゃない?むしろスピーディで助かるわと思う人が多いだろう。
しかし当日だか翌日に届くと言われていた荷物が、色々な不具合でもって一週間後になりますとか言われたり、挙句の果てには「荷物が用意できませんでした」と言われたら、多くの人は
「は、はぁ~!?」
とイライラしてしまう。
このように人間というのは何かに対する期待値が己の中にフワッとある。そしてそれを大幅に逸脱すると、ものすごくイライラする。なぜか?
それは私達は期待値という基準値内で未来がコントロールされ続けるという体験を通じて、自分が自身の運命をコントロールできていると勝手に誤解してるからだ。
それがまったくの誤解だという事実を突きつけられるから、我々は期待値を下回る現実にイラつくのである。
イライラしっぱなしの人は、出禁
よく何かにつけて他人にイライラしている人がいる。あのイライラの正体は間違いなく、自分では自身の運命をコントロールできないという現実を直視できない事である。
実際にはイライラや恫喝でもって他人を動かす事は可能ではある。
しかしこれを繰り返すのは、単なるクレーマーである。こういう人は誰からも嫌われて、挙句の果てには
「もうあんた、出禁」
と集団からパージされてしまう。
不快感というのは正当なるメッセージ
人間、時に他人をどうにかして動かさないといけない時があるのは事実ではあるが、イライラや恫喝は伝家の宝刀みたいなもので、基本的には抜いてはいけないものだ。
もちろん時にせっつかないと全然動いてくれないという人はいる。
そういう人は催促だとか審議や根回し、時にはハラスメントに近い手法でもって、焚き付けないとどうしようもない事もある。
とはいえ、そればかり多用し続けなくてはならないというのなら、恐らく何かが根本的に誤っている。
そういう間違った場所に居続けるのは、自分にとっても他人にとっても良い事ではないし、たぶんマネジメントのやり方や職業適性の問題もある。
このように不快感というのは、何かに気がつくための重要なサインとして利用ができる。
実はこの不快感こそが、メメント・モリが私達に教えてくれる最重要ポイントなのである。
最初はありがたかったんだが…
話をメメント・モリに戻そう。
瞑想法の修行の一環に死随念という死を考え続けるものがある。僕がこれをやっていて、ふと
「そもそも自分がいつ寿命を迎えるのかって、マジで全然わからんな」
「なんでわからないのかを改めて考えてみると、心臓やら呼吸やらが身体が勝手に働いて僕が生かし続けてるからなわけで、そう考えると自分って自分の力で生きてすらいないわ」
「そう考えると時間(寿命)の無駄だって思う不快感が、そもそも勘違いなんじゃないか?だって命って自分が掌握できるものじゃないし」
と気が付き、ハッとした。
コントロール不可能なものを、コントロールできると誤認すると不幸になる
そして自分の中でメメント・モリの意味が確立した。
メメント・モリとは、たぶん死の不快感を通じて、世の中には絶対にコントロールできない現象が沢山あるという事実を受け入れるという事なのだ。
「調子に乗るな。お前は全知全能の神ではない」
「けど、人間だ。だから人間をちゃんとやれ」
たぶん、これぐらいのニュアンスなんじゃないかと自分は思う。
冒頭に書いた通り、人間はコントロール不可能なものを、コントロールできると誤認すると不幸になる。
そういう観点でいうと、少なくとも自分は自分自身の命というものをある程度は自由に操れるものだという認知を多かれ少なかれ持っていた。
しかし、そもそも生死は僕のコントロールの外にあるものだ。僕は自分がいつ死ぬのか全くわからないし、生きる努力などしなくても、勝手に自律神経系が僕を生かし続けている。
このように命というものはコントロール不可能な現象のはずなのに、何故か私達は時間(寿命)を無駄にしたというように、何かが期待値から下回った際にイラッとしてしまうのがやめられない。
時間(寿命)は本質的には自分の力の及ばないものだから、無駄とか有益という尺度で図れるようなものではないはずなのに。
「これ、ネット回線が遅くてイラつくのと同じ事じゃん…」
そう気がついてからというものの、僕は自分が誰かに時間を無駄にさせられたと思った瞬間に、自分が慢心を捨てきれていないのだと反省するようになった。
いい歳した大人が不機嫌でもって他人をコントロールしようとしている姿をみるのは、とても見苦しい
コントロールできないものに対して、イライラで対応するのはただの馬鹿である。
ネット回線が遅くて怒る事に正当性が持てる人間は、自分でインターネット配線を組める人間だけである。
いや、実際にはインターネット配線を自分で組める人間はサクサク問題を解決するだろうから、イラつく暇があったら動いているだろう。
いい歳した大人が不機嫌でもって他人をコントロールしようとしている姿をみるのは、とても見苦しい。
少なくともお金を払っているのに適切なサービスが常に受けられないのは耐えられないというような消費者マインドでもってブチギレるのは、ナンセンス極まりない。サービスに不満があるのなら、他社に乗り換えればいいだけの話である。
人生の無駄についても全く同じことだ。イライラする暇があったら、やるべきことを淡々とやるべきなだけである。
コントロールできないものに執着するのではなく、コントロール可能な部分に関心を向ける
このように、コントロール不可能なものに過度に執着心を燃やすのは、ただの馬鹿である。
そんな暇があるのなら、コントロール可能な領域に軸足を移し、適切な関心を働かせた方が、よっぽど生産性は高い。
具体的な例をあげよう。ストレングスファインダー等で有名なギャラップ社のトム・ラスさんは、VHL遺伝子変異という厄介な障害を抱えて生まれてきてしまった。この遺伝子変異のせいで、トム・ラスさんは10代の頃に
「これから貴方は様々なガンにかかる」
「残りの寿命は20年もないし、その20年も苦痛にまみれたものになるだろう」
と主治医に宣告されたんだそうだ。
<参考 元気は、ためられる>
この遺伝子変異が原因でトム・ラスさんは左目を失明し、それ以外にも様々な場所に腫瘍が発生した。
それを見つけるために定期的な通院や入院・検査が必須となっており、人生の自由を大きく奪われる事になったのだという。
彼はこうしてメメント・モリを常に意識させられるような不幸を抱える事になったわけだが、そんな中で彼は
「将来の事はよくわからないけど、とりあえず今日1日を有意義に過ごすのは、自分自身で決められそうだ」
と気が付き、それから毎日を有意義に過ごすためにはどうすればいいのかに腐心するようになったのだという。
その結果、彼は仕事に成功し、幸せな家庭も築き、多数のベストセラーを執筆するという豊かな人生を今も歩み続けている。
トム・ラスさんの境遇はどう考えても多くの人よりも不幸だが、それでも彼は凡百の人間よりも圧倒的に成果を出し続けている。
この違いがどこにあるのか、それを考える事に、恐らく良い命を育む為のコツがある。
あなたもたまにはメメント・モリについて深く考えてみるのもよいかもしれない。
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【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
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