1998(平成10)年の8月下旬、東北本線の黒磯~新白河間が水害による路盤流失により運転不能となった。 このため、上野と札幌を結ぶブルートレイン北斗星も、当初は仙台~札幌間での折り返し運転とされたが、同年9月3日の始発駅発車分より、3~6号(当
蒸気機関車とブルートレインを買い取り、JR線上を走る「動く寺子屋」設立という大目標に向けて教育研究に歩む熱血先生のブログサイト! 機関誌ガンバレール9は第2号まで発刊。第3号作成中。RM誌にも寄稿の、色えんぴつによる鉄道人物絵が伝家の宝刀!
1998(平成10)年の8月下旬、東北本線の黒磯~新白河間が水害による路盤流失により運転不能となった。 このため、上野と札幌を結ぶブルートレイン北斗星も、当初は仙台~札幌間での折り返し運転とされたが、同年9月3日の始発駅発車分より、3~6号(当
2017年夏刊、拙ブログ本の第2号にも巻末へ、記事等を編さんしてるけど、この寝台券は・・21年前、カシオペアの札幌ゆき初列車に親友と2人で乗車できた時の宝物だ。奇しくも、この日、7月16日は小生25歳の誕生日。最高の夜
広島・西日本地区の水害により、7月上旬から運休中だったサンライズ出雲の個室寝台券である。10年前のこの日は、関西でフルマラソンを完走して夕方、まだ時間があったために、岡山まで新幹線で下って、やくも号に乗り換え。1時間でも長
2017年夏完成、拙ブログ本2号、出品継続中。今手元にある初版は数に限りあり、都合により増刷は早くて年度初めになります。ご希望の方、拙ブログ読者様にはお早めの入札を御願い致します。http://openuser.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/ganbarail
構想17年の、小生のオリジナル連載マンガ「はだしのゆきちゃん」第一話につづく形でまりも号等、日本一周2005などもまとめた131ページ構成の拙ブログ本2010年夏刊思い出の第1
ビル清掃の仕事を深夜未明にかけて担当したあと、ミニ旅行に出かける機会がある。この日は上野から、女性アテンダントが乗務する2Fグリーン車にゆられて東北線の久喜まで遊びにきた。 成田エクスプレスの旧型車両として活躍した253系が、 回送列車として久喜駅の
2002年12月改正以前の青森駅では、日本海号、はつかり号、はくつる号が顔合わせする瞬間があった。回送列車としてホームを離れる「はくつる」編成の最後尾がファインダーに入ったその時、午前8時半のことである。なお、この日のはくつる編成は12両全車が金帯
国鉄時代末期に、高崎に配備された6両編成のお座敷客車。 12系800番台グリーン車扱いで、当時たくさん作られていた仲間たちの中では、展望室の窓がとても大きな部類に入るだろう。すでに485系改造の電車編成に置き換えられて引退しているが、両端の展望
1983(昭和58)年に、14系座席車を改造して誕生した国鉄初の欧風客車。 7両編成の両端は、スハフ14の便所側に展望室を設けてあるが、そのうちの1両は定員外フリースペースのサロンとされ、寝台特急はやぶさのロビーカーの先駆けとなった。この車両以
ときわ号は、常磐線経由で上野~いわき(平)間を結んだ急行列車であったが、昭和60(1985)年のダイヤ改正で定期運用を終了している。画像は、臨時列車化されたあと、急行「スーパーエクスプレスレインボーときわ」という長い列車名として運行されたJR初期の
ED42形は、碓氷峠(うすいとうげ)がアプト式ラックレールによる旧線だったころの直流機関車。国鉄の前身、鉄道省が製作。 昭和9年から計28両製造された。横川~軽井沢間にて、キハ82系白鳥の上野直通編成などの牽引を担当したが、昭和38年に碓氷峠が新線に
東海道線の211系は、初期の編成については国鉄時代に落成している。 1989年以降に2階建てグリーン車を組み込んだ10両基本編成に、ラッシュ時は5両付属編成を増結するが、両者間の行き来は出来ない。 何故か、せっかく存在する貫通路を使っていない状
正月であるし、年頭に当たり運転「初日」のスハネ25 702デュエットを父が東京駅10番線で発車前に撮ってくれた、30年ほど前の一枚を初公開しよう。同じころデビューした14系レインボーの設計も担当したらしい技術者の方もこの日あさかぜ1号に乗っていた
車掌のアナウンスが続いている。「皆様、(注)スーパーブルートレインあさかぜの旅は如何でしたでしょうか。間もなく、終着駅の博多です。えー、どなた様も今年一年、良い年をおすごしくださいませ。今後ともお客様のために、わたくしどもJRは努力してまいります
ピョ~~~~ッ! あさかぜ1号は小倉駅を出る。いよいよ終点博多駅に向かうだけとなった。残すところ博多までは約一時間だ。だが、九州の鉄道は色々な電車があるので、すれちがう列車も楽しいものだ。寝台電車を改造した近郊型電車715系、L特急にちりん、有明
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その22) カートレイン九州と併走!
ED76-42は、我があさかぜ1号を引いて門司駅を出発する。列車は、JR九州の鹿児島本線に入った。冬とは思えぬほど暖かい九州の大地を走る「あさかぜ」は輝いている。ゆっくりと、自席のカルテット5番室にもどっちて車窓をながめていると、カートレイン九州
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その21) 二度目の機関車交代
EF81が去ると、つぎの王者は九州専用のED76-42号機だ。車体の色はEF81-409と全く同じだから(注)、素人ならば間違えてしまいそうだ。しかしEF81に比べて古いため、車体は汚れていた。 なお、ED76-37号機という機関車は、JR貨
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その20) 関門トンネル通過
EF81-409が汽笛を高らかに鳴らす。 ピィ~~~~ッ! ゴオオォォ~~ッ・・・関門トンネルに入った。外は何も見えない。列車はただ、真っ暗なトンネルを走るのである。余談だが、昭和62年1月にはじめてあさかぜ1号に乗った時も、関門間は409号機
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その19) 一度目の機関車交代
9時31分、ドアは開く。「下関~、下関~!」電源車の音は、ガアアァ~~ァ~~ッと響き渡っているが、先頭のEF66-51は、もう車庫へと去ろうとしている。作業員が2~3名で、連結器をはずす。機関士が「ピョッ!」と汽笛を鳴らしたと思った瞬間、ウオォ
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その18) 朝日を浴びて山陽本線をゆく
では、そろそろ食堂車へ行こう。朝日のまぶしい通路を歩き、食堂車に入る。いやぁおどろいた、昨夜と同様に超満員だ。約5分ほど待合室で待たされて、席につく。夜とは違ったさわやかな感じがする。洋定食をとってみる。まあまあの味かな。・・・ 右のほうから山
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その17) 1988年元旦・初日の出
あさかぜ1号は、瀬戸内海の海岸線に沿う大カーブを激走する。通路の窓から、先頭に立つEF66-51がよく見える。力強い。グングンと加速している。 あさかぜは宮島口駅に到着、数人の乗客があさかぜに別れを告げて改札へと向かっていった。発車してしばらく
【鉄道】 あさかぜ1号の旅路 (その16) オシ24から見たナシ20
あさかぜ号32年の歴史の中で、最も長い間にわたって使われ、愛されたのは20系客車だろう。筆者はふと、山陽本線厚狭駅構内に今も残る20系の食堂車を思った。(ここに留置されていたナシ20形5両は、平成元年ごろに撤去されたという。残念!) こんなことを考
レッドトレインと呼ばれた一般型客車50系も、JR線に残るのは、私ガンバレールの知る限りはJR九州の観光用客車700番台の3両程度だけであり、私鉄に売却された物も、今では真岡鉄道のSL列車用に残存するのみである。 旧型客車に代わって東北地方や山陰
東北(宇都宮線)・高崎線は、すでに二階建てグリーン車を組み込んだE231系または211系に置き換えられており、画像のような国鉄型車両115系は、中央本線立川以西を除き首都圏からは全車両が引退している。 先頭車のクハ115に乗ると、いつもトイレのニ
201系は、この2009年夏現在、首都圏ではもはや絶滅危惧種であるが、JR西日本では主力車両として大活躍。 ウグイス色の物は、比較的最近のデビューだ。 国鉄時代、山手線に201系を投入する計画もあったがついに実現せず、長らく、きみどり色の物はN
これまで撮ってきた鉄道の動画名場面1。103系スクリーンショット各種ごらんいただきましょう。
1999年ごろの103系です。
山手線のウグイス色103系が全廃されたのは、総武線から101系が引退した時と同じ1988(昭和63)年であった。 この時代、常磐快速線では103系の最長編成である15連運行が始まったばかりで、首都圏はまだまだ103系天国であった。 しかし、103
東に向かう5032M サンライズ瀬戸・出雲を描いたこの拙作品は、レイル・マガジン通巻413号イラストステーションにも掲載されています。スーツさんに叶わないまでも、285系は機会を見つけて乗っておきたいですね。8月から始めている鉄道動画のアップにもいろいろと回りた
寝台特急サンライズ出雲・サンライズ瀬戸は、東京~岡山間は併桔して長大14両編成で走っている。 7・8号車間は、このように側面から見ると観音開きの扉に描かれたシンボルマークが目立つ。連結部分でも列車名をアピールすることが出来るのは素敵だ。今宵も、
地味なブルートレインだった彗星だが、赤い機関車に輝く青いマークは美しかった。 ED76は、下り列車の場合は大分以南をけん引し、下関~大分間はEF81が担当するという異色のパターン。上りの京都行きは、門司までED76が先頭に立っていた。九州内の機
“青島”を初訪問するために日南線直通列車を利用したが、21世紀に入って間もない頃はまだ国鉄型キハ58系が活躍していた。 キハ58+キハ28という基本2両編成だったが、エンジンを噴かしてまったりと走り、短時間の乗車であったが、ボックスシートを独り
機関車大集合というイベントだったと記憶。DD51形のデッキに立つ小6の私を父が撮影。昭和61年夏。品川駅。同じく夏休みに開催されていた銀座デパートの鉄道模型展示なみに酷い混雑もなく、貴重な1枚を残してくれた父には感謝したい。この他EF57
新幹線0系の横で、昭和61年ごろ流行していたハイソックスと、半ズボン姿の小生は当時6年生だ。 国鉄時代、東京からブルートレイン富士に乗って小倉まで行った後、新幹線こだまに博多駅まで乗車。博多滞在わずか。同駅から新幹線で夜行日帰りで帰京する際に父が
50系客車のマニ50荷物車を改造した異端児で、東日本の501号が2006年に廃車解体、JR北海道の502号車も今年3月のダイヤ改正で運用を離脱。すでに思い出の車両となってしまった。車体断面が垂直で、他の24系寝台車に比べて細身のボディが特徴であった
このプリントの裏面には、北斗3号キハ183×9と書かれてある。 鉄道ジャーナル社が協力する団体旅行・YTCレールメイトツアーに参加した時の撮影で、9両編成とは今の北斗号ではあまり実現しない長編成である。7号車に、逆向き連結の中間先頭車が組み込ま
十和田号は、常磐線経由で上野~青森間を結んだ12系(14系)の臨時夜行急行列車であった。昭和57年秋までは20系寝台車編成を含む3往復運転、戦前は201・202列車を名乗り、進駐軍のアメリカ人が編成中の豪華寝台車に乗ってた時代も。 画像は、昭和60年
常磐線の佐貫と青森を結んでいた、臨時特急列車。 国鉄時代末期から、485系によって毎年8月の青森ねぶた祭りに合わせて数日運行されてきたが、1999年の運転からはフレッシュひたち用のE653系を使用。東北本線が第3セクターによって分断される直前の
長らく、新宿と新潟を結ぶ夜行快速電車として親しまれてきたが、去る2009年3月のダイヤ改正で臨時電車に格下げされた。 春の青春18きっぷ期間の終了とともに、本日現在は運転されておらず、今後はゴールデンウイークにかろうじて上下1便が設定されて
革命軍の首脳である主人公タケルが、軍師四迷たちと協力、 幽閉されてたタケルの実父(先代王)を救いに行く最終巻。。関ヶ原の戦い並みに敵も、味方も相次ぎ星となる。。だけど、伊達政宗が父を殺さざるを得なかったように、人質に取られてた先代王を宿敵ごと倒してしまう
銀河号(写真左側の列車)の廃止により、ついに東京駅発着のブルートレインは電源車カニ24を連結する24系25形が全廃となってしまった。 まず、2005年3月改正であさかぜ号廃止、富士はやぶさからの24系撤退により大幅に数を減らしたのもつかの間、博
関西~九週間のブルートレインとして、あかつき号とともに最後まで頑張っていた人気列車・なは号は、昇り列車は、新大阪に9時台に着くダイヤであった。 画像は、まだEF65形けん引のころであるが、単独運転における晩年は、2両増結されて9号車まである
日本一周2007の旅で、熊本から寝台特急なは号を利用。カニ24のテール は白幕と間違える ほど列車名判読 不能も・・・側面方向幕は京都の表示が出るまでに クルクル回る。。 国鉄時代の旅情あふれる思い出 愛称!ああ懐かしいっ!!にほんブログ村 https://blog
常磐線に大雪が降った4年前の1シーンである。 常磐線の馬橋に生まれ、25歳の時まで北松戸に住んでいたガンバレールナインだが、雪の降る中、常磐線を撮った機会はきわめて少なかった。 この撮影時、まさか203系よりも先にE501系が首都圏から消えてしまうな
横須賀線・総武快速線のE217系は、JR東日本の電車としては、はじめて形式の頭に「E」をつけたことでも有名だが、1994(平成6年)デビュー当時は斬新なイメージで驚いた。ああ、国鉄型が一気に無くなるだろうなと感じたのももう、じつに17年も前になる。
103系1200番台を置き換えるために投入された、東京メトロ東西線乗り入れ用のJR車両はE231系の800番台として区分されている。青系統の帯を入れてある。このため、もし、鉄道に詳しくない人がこの電車を見たならば、京浜東北線と区別がつかないかもしれない
列車の連結、連結面は鉄道ファンでなくても魅力を感じるものだ。在来線の代表例は、寝台特急サンライズエクスプレス瀬戸と、同・出雲だろう。連結時でも英語の列車名がわかる。にほんブログ村https://blogmura.com/
2009年6月現在、寒冷地仕様の200番台も含めて全車両が健在しており、まだ置き換えの話はない。 しかし、成田エクスプレスの新車E259系が完成したことにより、踊り子号は253系に変更されるのかもしれない。 万一、そうなった場合、このオリジナル
千葉県(房総)方面の特急「わかしお」「さざなみ」に使われる車両。中央本線の臨時特急に担当されることもある。東中野付近にて2007年1月1日撮影。 ガンバレールは、にほんブログ村 (鉄道部門)に参加しています。https://railroad.blogmura.com/in
貨物線を通り、武蔵野線・京葉線経由で走っていたTDL(ディズニーランド)直通快速。 車内がリクライニングシートに改装された専用の167系4連を使用し、メルヘン立川2・3号が立川~舞浜間を、メルヘン大宮1・4号が大宮~舞浜間を結んでいた。途中駅
かつて、日本海2号は秋田駅にてED75からEF81への機関車交換を実施していた。このため、秋田始発の今は無きブルートレイン出羽号の客車と、数分間だが顔を並べている。 オハネフ25からホロを取り外したような表情の電源車カニ24-100番台とは、こ
2009年2月現在、この千代田線用6000系電車は未だに1両の廃車もなく、元気良く走っている。 初期の編成は、すでに製造後41年も経過するが、21世紀を先取りしたという正面のデザインは今もなお斬新ですらある。しかし、発車時にク~ンと鳴り響くチョ
九州ブルートレイン、青い流れ星5人兄弟。その中でいちばん地味だとされ続けた寝台特急が、この、みずほ号である。これは、後続の富士号・4人用B個室カルテットに乗る前に、東京駅で小生ガンバレール9の父撮影。当時は、この、スハネフ14系みずほ号や
国鉄時代の末期からJR発足後の数年間にかけて、たまに、ブルートレイン富士のEF66には赤地のトレインマークがつくことがあった。 1987年の大みそかに、神田駅側から入線してきた瞬間を東京駅10番ホームでとらえた1枚であるが、当時は中学生で、撮影
この絵を描いた2008年は、ブルトレ50周年という記念すべき節目だった。あさかぜ号の遺志を受け継ぐ24系25形金帯車“北斗星”は、当時1往復のみの運行になるなど先行きが非常に心配された。 クルーズトレインを除く、夜行列車の伝統は、ブルーの車
東北本線の上野~日暮里(にっぽり)駅間は、常磐線の線路が完全に平行して並んでいます。日暮里駅を過ぎて常磐線が大きく右に分かれてゆくところまでの約2キロメートルを、23時に上野駅を同時刻発車した《ゆうづる3号》と《はくつる3号》の姉妹列車が仲良く3分
1993〈平成5〉年12月のダイヤ改正では、特急《ゆうづる号》以外にも、上野発夜行列車の老舗格とも言うべき青森行きの急行《八甲田号》に《津軽号》、秋田行きの寝台特急《出羽号》も廃止されています。平成のバブル崩壊は、青森行き夜行列車にもリストラと言う
結局、弘前大学の受験には失敗し、私は実家の松戸市を離れて、東京の三鷹市で下宿を兼ねながら浪人生活を送ることになりました。下宿の管理人が学習塾の先生であり、塾へ出かける前の早朝などには、下宿の食堂でもゼロ時間目の授業やテストを行うのです。中学受験時代
青函トンネルの開業と同時に、《ゆうづる号》の客車編成は電気機関車もろとも《北斗星号》専用となります。特急《ゆうづる号》は、毎日運転される定期列車が誕生当初と同じたったの1往復となってしまいました。これは583系(ゴッパーサン)電車編成で運転されます
私立中学校に通い始めてから約3ヶ月、日の出の早い初夏の頃には、24系客車編成の《ゆうづる4号》を見たくなる日が多くなりました。この場合、中学校には一番早く登校できたものです。 津軽海峡の海底トンネル(青函トンネル)の完成を翌年に控えて、24系の《
機関車が豪快な音を立てて迫り、青色一色の静かな車体が続くという点が客車編成の大きな特色です。ブルートレインとも呼ばれるこの24系編成は、元はわが国で最長距離を走破していた特急《富士号》として、はるか鹿児島と東京との間を連日連夜のように行き来する運用
昭和61(1986)年11月の国鉄最後となる時刻改正で、《ゆうづる》の2,3号が臨時列車となり、走らないことが多くなりました。冬も近づき、中学受験の勉強も追い込みの頃、毎日予備校に通い、帰りは十時半が当然でした。ところが線路ぎわで40分立っていても
私は私立中学校を受験するため、小学校4年生から駅前の進学予備校へ通いました。6年生になると授業の終わるのも遅くなり、居残りテストがあり、全問正解した者から順に帰宅を許されました。しかも不正解の度に、講師の先生から怒鳴られ、殴られるというスパルタ指導
私は、平成10年(当時)の今日も故郷の松戸に住んでいます。自宅から歩いて九分のところを常磐線が走っており、幼少のころ父や祖父に抱かれて列車を見に行ったものでした。中でも朝9時ごろに青森からやってくる《ゆうづる14号》の583系電車(ゴッパーサン)
《ゆうづる》号は昭和40(1965)年10月、(はくつる)の1年後に誕生しましたが、上野駅と岩沼駅の間は太平洋側の常磐(じょうばん)線全線を走り、そのぶん距離も時間も少し長くかかりました。 しかし3年後の昭和43(1968)年、東北本線全線の電化
JR東日本が担当したあさかぜ1号・4号は、1991年ごろから機関車交換が下関駅のみとなって、関門トンネル用のEF81-400番台けん引で博多駅へ乗り入れていた。 2009年現在もあけぼの号や、日本海号で活躍する折戸の金帯24系25形編成で、電源
カンガルーライナーを初撮影
短編成の特急は回送列車だろうか。
E531系赤電は、かつての401系のあずき色を再現してある。原ノ町 2022年8月
すずめの戸締まりの聖地お茶の水をゆく丸ノ内線2022年撮影。
新大阪まで高いグリーン料金を支払っていたし、一人で、ずっと以後も食堂車に居座るのはさすがにまずいだろうということで、名古屋の前で飲食代を清算。数両近くの自席へ。ところがだ、予約してた一人掛け席には見知らぬおばあさんが、座ってて驚いた。
2000年3月10日・金曜日新幹線・食堂車営業の下り最終列車は静岡県を順調に進んでいくところだった。もちろんのこと私は、2階建てグリーン車の1人掛けを東京→新大阪で手配しての旅だった。しかし名残惜しい新幹線168食堂車を
2000年3月10日撮影博多側に2つほどあった、2人向かいわせの席のひとつに、座れた。一人旅で動きやすかったからだろう。銀ボタン五個を第1ボタンまでしっかりとじた、濃紺の詰襟を着た男性が向かい側に座って、ジュースを注文していたが、
最後まで活躍中だった新幹線の食堂車は、グランドひかりという、JR西日本の2階建て4両連結の編成だった。発車前から、食堂車の前や、階下の通路だって順番待ちで盛況。食堂車は、最後の日まで一日4往復の東京発博多行きとしてのダイヤ設定
2000年3月10日は、新幹線から食堂車が消えた日である。もう18年以上前になるけれども、放送大学卒業記念を兼ねて、最終営業列車に乗った。連続シリーズ5回で、最終日の食堂車168形3004番車内などをアップ。(つづく)
1999~2003年ごろの大阪駅、朝7時台の電光時刻表示を撮っていた。この時間帯に、別のホームには日本海2号と、10番線に新大阪行き彗星、京都行きのあかつきと、連続で夜行列車が到着していた。急行ちくま号は、すでに383系化されてしまっ
TDL(東京ディズニーランド)最寄りの舞浜駅が開業した1988年12月1日、武蔵野線経由で大宮~舞浜間を結ぶ臨時快速“メルヘン大宮”の運転が始まった。 リクライニングシートを設置した167系の4両編成で、全車座席指定。ノンストップで快走していた
ガンバレールが、ブルートレインでも国鉄型でもない、地方私鉄の話題を取り上げるのは極めて異例のことになるが、今朝の読売新聞に、廃線となっている宮崎県の高千穂鉄道を再建するぞという熱い話題が載っていたので嬉しく、その元気だった頃の様子を紹介した
こっちからの流動は期待できぬが、なにもせぬよりは何か書いておく。
こっちからの流動は期待できぬが、なにもせぬよりは何か書いておく。エックスに比べると効力は小さいが、随時、このライブドアブログからも発信してみるのはよいだろう。
本日3月13日は、好景気だった1988年、上野~札幌間を結んだ青函ブルートレイン北斗星3往復が運転を開始。 万一、運転継続中だったら32年目を迎えた日だ。 清掃作業を、尾久駅より望遠200ミリで撮影。 写真は、1999年4月に東北本線尾久駅にて小生による。
マンガの神様が、音楽の神を描いた異色の作品であるが、極めて残念なことに未完の絶筆となっている。 幼い頃からルートヴィヒという名前のつく動物や人物を憎む、フランツという美青年の適役が登場し、たいへん面白い。ラストシーンは、ベートーベンが月光ソ
共産党幹部も務めた政治家ながら 大のつくベートーベン愛好家だった 小松雄一郎氏による岩波文庫下巻。以下、210ページより引用(※拙ブログ読者 にわかりやすく読んで頂く ため部分修正済み)。 我が旧き尊敬する友、フランツ、ゲルハルト・ヴェーゲラーよ!ブロイニン
ベートーベン誕生250年という節目の今年、大のつくほどベートーベン愛好家だった小松雄一郎氏の岩波楽聖賛歌を紹介しよう。。以下、54ページより引用(※拙ブログ読者様にわかりやすく修正、または部分補筆してます。) ベートーベンは音楽で哲学的思考とも言うべきこ
芸術の都イタリアにベートーベン訪問叶わず、56歳3か月の波乱に満ちた生涯を閉じた。その生涯のほとんどを国内から離れなかった点では、音楽の父バッハとよく似る。でも、まぼろしの第10交響曲は、あの、第1楽章から天にも昇る勢いの、激情な、すさまじい旋律で始ま
悩みを突き抜けて歓喜にと至ったとされてる、楽聖の最晩年、子供のいなかった彼は二番目の弟(40歳代で病死)の遺児カール少年を後継(音楽家)にする夢を閉ざされてしまった。 ベートーベンが死ぬ約1年前に、最愛の甥カールはピストル自殺を図ったからである。キリスト
ナポレオンが独裁政治に走り、市庁舎の前に兵士の死体がいくつも転がっていた18世紀のドイツならば、ベートーベンの56歳という生涯は、当時の男性平均寿命と言えよう。これは、45歳の楽聖を写実的に描いた絵画だ。現在に残ってるベートーベンの数ある絵の中では珍し
耳が聞こえないどころか、視力も、悪くなってきてた50歳代のベートーベンは、今日よく知られる第9交響曲合唱付きを20年以上もの歳月をかけ完成し後世に残してることは有名だ。しかし、長年、宮廷楽長という高い身分のサリエリに師事し、イタリア歌曲や交響曲10番など
比較的最近まで、国鉄色の381系しなの号は活躍していたようである。 しかし、このように貫通型0番台のものはほとんどが廃車され、今では現存しないと思われる。往年のしなの号運用では、多客期にこの貫通路が生かされ、クハ381が向き合ったりして10~1
北小金から武蔵野線に入り、南流山より進行方向を変えてた舞浜ゆき行楽臨。武蔵野線の東京駅延伸に際し、東京駅まで延長運転してた記憶もある。403系が4両編成で京葉線を爆走。にほんブログ村https://blogmura.com/
419系は、世界初の寝台座席両用電車である581・583系を改造した近郊形電車である。 画像のように、種車クハネ581の特急形先頭車をそのまま使用したクハ419のほか、中間車サハネ581を改造した切妻先頭車クハ418も存在する。クハとは反対側の
寝台電車のパイオニアである、月光型581系を改造して誕生した近郊形車両。鉄道ファンからは食パン電車、もしくはひょうきん族と呼ばれていた。 長崎寄りの先頭車クハ715は、画像のようにクハネ581に乗降ドアを1つ増設しただけの姿であり、4両編成の反
1995(平成7)年12月ダイヤ改正で、老朽化した401・403系の置き換え用に新製投入された常磐線の通勤型電車。 混雑緩和のため、1997年に行われた増備を前後して昼間の運用でも、基本編成10両と付属編成5両を合わせた15両編成で走行。中距離
バブルの絶頂期に、開業から間もない京葉線の東京~西船橋間に運転されていた全車自由席の快速電車。 103系が10両編成、短くても6両で活躍していた同区間に、なぜか3両というミニ編成で走っていたため、混雑がひどくて評判も悪く、数年後には廃止されてし
奥久慈(おくくじ)号は、常磐線・水郡線経由で上野~郡山間を結んだキハ58系の急行列車であった。画像は、臨時列車化されて編成が5両と短くなり、行き先も水郡線の磐城石川止まりとされた晩年の姿であるが、1988年以降は、白地に緑とオレンジの新塗装車両を連
209系と言えば京浜東北線が有名であるが、常磐緩行線にもわずか2編成が存在する。国鉄時代からの伝統?で、地下鉄直通車の1000番台を名乗るが、千代田線は東京メトロの6000系ばかりが走っているイメージが強く、209系には、めったに乗車することが出
国鉄最初にして、唯一となるVVVFインバーター制御方式の通勤電車であり、10両編成1本が作られたのみである。 1986年11月の登場から、早くも21年以上の歳月が流れ、ついにE233系への置き換えが予定されるようになった。しかし、203系や60
一番手前にはテスト走行線を新設しています。届いたNゲージ車両を開封後、速やかにライトチェック等、する際にも重宝する線路です。この新設線路、一番手前に設置してあるがために、ちょっと問題点も。万一、手を滑らせて車輌を転落させてしまいますと、約1メ
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1998(平成10)年の8月下旬、東北本線の黒磯~新白河間が水害による路盤流失により運転不能となった。 このため、上野と札幌を結ぶブルートレイン北斗星も、当初は仙台~札幌間での折り返し運転とされたが、同年9月3日の始発駅発車分より、3~6号(当
2017年夏刊、拙ブログ本の第2号にも巻末へ、記事等を編さんしてるけど、この寝台券は・・21年前、カシオペアの札幌ゆき初列車に親友と2人で乗車できた時の宝物だ。奇しくも、この日、7月16日は小生25歳の誕生日。最高の夜
広島・西日本地区の水害により、7月上旬から運休中だったサンライズ出雲の個室寝台券である。10年前のこの日は、関西でフルマラソンを完走して夕方、まだ時間があったために、岡山まで新幹線で下って、やくも号に乗り換え。1時間でも長
2017年夏完成、拙ブログ本2号、出品継続中。今手元にある初版は数に限りあり、都合により増刷は早くて年度初めになります。ご希望の方、拙ブログ読者様にはお早めの入札を御願い致します。http://openuser.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/ganbarail
構想17年の、小生のオリジナル連載マンガ「はだしのゆきちゃん」第一話につづく形でまりも号等、日本一周2005などもまとめた131ページ構成の拙ブログ本2010年夏刊思い出の第1
ビル清掃の仕事を深夜未明にかけて担当したあと、ミニ旅行に出かける機会がある。この日は上野から、女性アテンダントが乗務する2Fグリーン車にゆられて東北線の久喜まで遊びにきた。 成田エクスプレスの旧型車両として活躍した253系が、 回送列車として久喜駅の
2002年12月改正以前の青森駅では、日本海号、はつかり号、はくつる号が顔合わせする瞬間があった。回送列車としてホームを離れる「はくつる」編成の最後尾がファインダーに入ったその時、午前8時半のことである。なお、この日のはくつる編成は12両全車が金帯
国鉄時代末期に、高崎に配備された6両編成のお座敷客車。 12系800番台グリーン車扱いで、当時たくさん作られていた仲間たちの中では、展望室の窓がとても大きな部類に入るだろう。すでに485系改造の電車編成に置き換えられて引退しているが、両端の展望
1983(昭和58)年に、14系座席車を改造して誕生した国鉄初の欧風客車。 7両編成の両端は、スハフ14の便所側に展望室を設けてあるが、そのうちの1両は定員外フリースペースのサロンとされ、寝台特急はやぶさのロビーカーの先駆けとなった。この車両以
ときわ号は、常磐線経由で上野~いわき(平)間を結んだ急行列車であったが、昭和60(1985)年のダイヤ改正で定期運用を終了している。画像は、臨時列車化されたあと、急行「スーパーエクスプレスレインボーときわ」という長い列車名として運行されたJR初期の
ED42形は、碓氷峠(うすいとうげ)がアプト式ラックレールによる旧線だったころの直流機関車。国鉄の前身、鉄道省が製作。 昭和9年から計28両製造された。横川~軽井沢間にて、キハ82系白鳥の上野直通編成などの牽引を担当したが、昭和38年に碓氷峠が新線に
東海道線の211系は、初期の編成については国鉄時代に落成している。 1989年以降に2階建てグリーン車を組み込んだ10両基本編成に、ラッシュ時は5両付属編成を増結するが、両者間の行き来は出来ない。 何故か、せっかく存在する貫通路を使っていない状
正月であるし、年頭に当たり運転「初日」のスハネ25 702デュエットを父が東京駅10番線で発車前に撮ってくれた、30年ほど前の一枚を初公開しよう。同じころデビューした14系レインボーの設計も担当したらしい技術者の方もこの日あさかぜ1号に乗っていた
車掌のアナウンスが続いている。「皆様、(注)スーパーブルートレインあさかぜの旅は如何でしたでしょうか。間もなく、終着駅の博多です。えー、どなた様も今年一年、良い年をおすごしくださいませ。今後ともお客様のために、わたくしどもJRは努力してまいります
ピョ~~~~ッ! あさかぜ1号は小倉駅を出る。いよいよ終点博多駅に向かうだけとなった。残すところ博多までは約一時間だ。だが、九州の鉄道は色々な電車があるので、すれちがう列車も楽しいものだ。寝台電車を改造した近郊型電車715系、L特急にちりん、有明
ED76-42は、我があさかぜ1号を引いて門司駅を出発する。列車は、JR九州の鹿児島本線に入った。冬とは思えぬほど暖かい九州の大地を走る「あさかぜ」は輝いている。ゆっくりと、自席のカルテット5番室にもどっちて車窓をながめていると、カートレイン九州
EF81が去ると、つぎの王者は九州専用のED76-42号機だ。車体の色はEF81-409と全く同じだから(注)、素人ならば間違えてしまいそうだ。しかしEF81に比べて古いため、車体は汚れていた。 なお、ED76-37号機という機関車は、JR貨
EF81-409が汽笛を高らかに鳴らす。 ピィ~~~~ッ! ゴオオォォ~~ッ・・・関門トンネルに入った。外は何も見えない。列車はただ、真っ暗なトンネルを走るのである。余談だが、昭和62年1月にはじめてあさかぜ1号に乗った時も、関門間は409号機
9時31分、ドアは開く。「下関~、下関~!」電源車の音は、ガアアァ~~ァ~~ッと響き渡っているが、先頭のEF66-51は、もう車庫へと去ろうとしている。作業員が2~3名で、連結器をはずす。機関士が「ピョッ!」と汽笛を鳴らしたと思った瞬間、ウオォ
では、そろそろ食堂車へ行こう。朝日のまぶしい通路を歩き、食堂車に入る。いやぁおどろいた、昨夜と同様に超満員だ。約5分ほど待合室で待たされて、席につく。夜とは違ったさわやかな感じがする。洋定食をとってみる。まあまあの味かな。・・・ 右のほうから山
10年前に、神田の古本屋で5500円で購入したガンバレールのお宝本である。ちなみに、当時の価格は250円なり。 最新号であるNo502号と見比べてみると、41年という時の差をかみしめることができ、ページ数が少なくて背表紙が無かったことや、裏
489系の夜行急行“能登”は、かつては福井駅まで乗り入れていた。 到着後、能登号編成は進行方向を変えて東金沢まで回送していたようだ。今は無き加越号・国鉄色485系と、交直流近郊形電車413系との並びである。北陸本線においても、こうして国鉄型が3
キハ65を改造し700番台、1700番台とした特急列車エーデル北近畿。1998年 城崎にてにほんブログ村https://blogmura.com/
ブログは、記事タイトルを32文字以上にすると検索される、というらしいから、さっそく、やってみる。E231系
熱いお茶にお吸物とデザートつき。部屋で気がねなく食事できるのもロイヤルの長所である。夕立の宇都宮を発車し、北をめざす。2007/08/17 18:31
選挙カー騒音煩い大都会の駅前を離れて伊豆か、箱根へ逃れたくても仕事忙しい今は駅弁を食べガマンしたい。この、北からの駅弁はうまかった。海鮮は疲れた体にいい。都心部から簡単にでれなくとも海の香りは大事だね。魚介類と言え
夏の青春18きっぷ・利用期間ラストである9月10日(木)に、横浜へ行きました。 18歳のときの浪人生時代を含めれば、18切符を買ったのは今回で3回目でしたが、かろうじて有効期限内に使い終わった次第です。 夕方5時に仕事を中断して、ますは新宿
札幌の日航ホテル客室から見た、寝台特急北斗星1号編成ふかん(上空からの撮影)。 屋根が低い食堂車を中央に、寝台車の高い屋根が連続して輝き、美しい姿である。夜は、札幌を発車した北斗星4号を流し撮りしてみた2004年4月撮影
次世代の豪華寝台車として、1988(昭和63)年に試作された24系25形900番台「夢空間」が、ついにこの3月を最後に引退することとなった。 東北・北海道ブルートレイン「夢空間北斗星」に連結されることも多かったが、その設定も2003年の
エックスのポストも数をこなすことは大事なため、この深夜帯もなにかしらつぶやきたいが、本当に残念なことになっている。やむを得ずこのライブドアブログ経由で引き続きつぶやくことにする。理想としては、話題作りにE8系とか新幹線敦賀駅を撮りに行くとかしてもよいが、若
何の欲ももたず、とりあえずは、朝6時ごろとされるロック解除の時刻を待つとしよう。今夜はこんなとこにあれこれ書いても逆効果というか、大きな意味はもたぬつぶやきが繰り返されるのみだ。今日、朝が来て明るくなったあと、エックスをとりあえずいじってみて、またポス
今回の状況をなげく最新動画のアクセス数が3、エックスのいいねも3である。残念だが誰一人として自分を気にもとめておらぬとわかる数値。それぞれが30とかならば違ってくるが、世間は週末でもガンバレール9 を思う人はほぼ皆無に等しい現実がある。コロナ禍前ならば、