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ぶつぞうな日々 part III

大好きな仏像への思いを綴ります。知れば知るほど分からないことが増え、ますます仏像に魅了されていきます。

【米国ハワイ】オアフ島の平等院は歴史も自然も感動に満ちている!

人生初ハワイで平等院へ!

 ちょっとした用事で、人生初のハワイに出かけてきた。日本の古い仏像と二十五菩薩来迎会の追っかけである、この不肖者が、なんと、南の島へ。南都(奈良)にはよく行くけど、南の島はあまり行かない。人生何が起こるかわからないものである。

 ところが、現地に行ってみると、ハワイの雰囲気が思いのほか居心地がよく、自分に合っていた。まずお日さまが明るい。アメリカ合衆国の一州でありつつ、ハワイ独自の言語や文化が大切にされる。移民受け入れの歴史により育まれたのであろう、多文化社会の豊かさも感じる。日系人やアジア系の方も多く、米国本土より親近感もある。さらに、体格のよい方が多いので、自分が痩せていると錯覚してしまうというオマケも付いてくる(笑)

 短い滞在ではあったが、そんな心地よさのなか、半日余りの時間を無理やり空けて、ハワイのお寺と仏像を巡ってきた。

 まずは、前から気になっていた平等院へ。
 オアフ島コオラウ山脈を背景にした鳳凰堂が美しくて、息をのんだ。
 最初の日系移民のハワイ到着から100年を記念して、1968年に建立。
 慣れない土地でご苦労されたであろう日系移民の皆様にとって、平等院がアイコニックな存在だったのだろう。日本仏教の宗派が一丸となって建立に関わり、今も宗派を問わず礼拝の対象となっている。
胸が熱くなる。

コオラウ山脈の麓という最高の立地

 不肖ヒヨドリ、ハワイには、海やサーフィンのイメージしかなかった。(日本でいうところのサムライとフジヤマと同じレベルw)。しかし、まぁ、昔の教科書に、真夏の海のサンタクロースの写真が載っていたような気がするし、ディズニー映画『リロ&スティッチ』も大好きなのだから、しかたない。まぁ、しかたない。。。
 しかし、ここハワイの平等院に着いて、オアフ島はもっと奥深い自然に恵まれた場所なのだと知った。海だけではない。山がすごいのだと。それを一瞬にして体感したのである。
 まずはこの写真をご覧いただきたい。この平等院へのアプローチ。なんですか、この奥に見える緑色の絶壁は。これがオアフ島の中央に走るコオラウ山脈なのだ。島の東に面して、絶壁のような山肌が続く。

入場料を支払って振り返るとこの景色。このアプローチからすでに美しい
近づいてみてもやはり美しい!
あー、宇治にそっくりだけど違う! そして、美しい!

 私は宇治の平等院が大好きで、鳳凰堂の前で「はぁ〜♡」とつぶやきながら、写真を撮り続ける人間だ。なので、ハワイの平等院はがっかりするのではないか、と若干の心配をしていた。
 ところが、どっこいしょ! そんな心配は現地に着いて一瞬にして吹き飛んだ。
 いやいやいや、これは美しいではないか! 宇治とはまた別の美しさではないか!
 まぁ、あえて難を言えば、ハワイ鳳凰堂の建物はコンクリート造りである。宇治は国宝の木造建築で温かみがあり、しかも、平成の修理の際、創建時と同じ丹土(につち)と呼ばれる赤色顔料で塗り直している。その差は歴然である。
 しかし、その弱点を大きくカバーし、さらに、ハワイらしい魅力を加味しているのが、この立地ではないか。オアフ島の東に面して絶壁のように立つコオラウ山脈。その大きな緑色の背景と、熱帯の空気が、この鳳凰堂を際立たせる。ハワイは海だけでなく、山が抜群に美しいと知ったのだった。
 平等院のレプリカ建設のため、この最高の立地が選ばれたこと。その英断に賛辞を送りたい。藤原道長・頼道親子も称賛しているのに違いない! 

9フィートの丈六阿弥陀如来さま

あたたかみを感じる阿弥陀如来さま!

 鳳凰堂の中央に坐すのは9フィートの阿弥陀如来さま。つまりは丈六仏である。本家平等院阿弥陀如来さまが像高277.2cmなので、同じ大きさにしたのだろう。重さ2トン。
 宇治の阿弥陀如来坐像は天喜元年(1053)、仏師定朝の作。「仏の本様」としてのちの仏像の模範となった。いわずとしれた、国宝である。
 ハワイの阿弥陀如来さまは、日本の彫刻家Masuzo Inuiが製作したミニチュアの原型をもとに、Jokei Sagawaが腕をふるい彫りあげた。漆の上に金箔を貼る、いわゆる漆箔であることも本家と同じ。台座の蓮弁の並べ方や天蓋の感じも似ている。本家への限りない敬意が感じられる。そして、丸顔で、温かみのある阿弥陀さまだ。
 定朝を真似しつつも、どことなく南国感があるのは、阿弥陀さまが毎日拝まれる中でハワイの地に馴染んだからに違いない。これはあくまで私の主観だが、私はそう信じている。(東京多摩地域で平成初期に造立された高幡不動の不動三尊は、京都の仏師が制作したもので、最初はお堂の中で浮いて見えた。しかし、毎日何度も護摩を焚かれているうちに、地元に馴染み、今は完全に多摩の男らしくなっている。法隆寺金堂におられた勢至菩薩像もフランスのギメ美術館で長年暮らすうちに欧風になった、と私は思う)

台座の蓮弁の並べ方や天蓋の感じも本家に似せている!
ふわっと浮いたような阿弥陀さま。壁面には各宗派の御紋が並ぶ

多様な信仰が尊重される

 鳳凰堂の銘文には、この平等院を建てるに辺り、日本仏教が宗派をこえて協力したことが刻まれる。日蓮宗曹洞宗真言宗真宗東本願寺派、本派本願寺西本願寺派のことをハワイでは本派と呼ぶ)および浄土宗の名前が読み取れる。

 敬意を込めて、この銘文を書き写すと、以下のようになる。

BYODO-IN

THIS REPLICA OF BYODO-IN, UJI, JAPAN
COMMEMORATES THE 100TH ANNIVERSARY OF THE
ARRIVAL OF HAWAII’S FIRST JAPANESE IMMIGRANTS.

DEDICATED JUNE 7, 1968 BY

BISHOP KANJITSU IIJIMA   NICHIREN MISSION OF HAWAII

BISHOP TETSUEI KATODA  SHINGON MISSION OF HAWAII

BISHOP ZENKYO KOMAGATA SOTO MISSION OF HAWAII

BISHOP RYOICHI SHIRAYAMA HIGASHI HONGWANJI MISSION OF HAWAII
BISHOP KANMO IMAMURA  HONPA HONGAWANJI MISSION OF HAWAII
BISHOP KYODO FUJIHANA   JODO MISSION OF HAWAII

 なお、この感動的な銘文のまわりに、拝観マナーを呼びかける注意書きが貼られていた。特に、堂内で靴を脱ぐという文化がない人たちもたくさん来られるので、係の方々が絶えずお声がけされていた。こうした地道な努力により、信仰の多様性は維持されるのだろう。さすがハワイ!

感動的な銘文のまわり、拝観マナーを呼びかける注意書き。嫌いではない!

 写真、一番上のプレートには、Out of resepct for those who revere this temple, please remove your shoes.と書かれている。「弊寺院の信者への敬意として、どうか靴をお脱ぎください」。このように互いに敬意を払い合うという姿勢に学びたい。「なに靴履いたまま入ってきてんの! あほか!」と、頭ごなしに怒鳴るのではない。インバウンドでイラついている日本人が見習いたい一文だ。

 さらに、堂内には、上記宗派の御紋に加えて、出雲大社天理教の御紋、キリスト教の十字架まで掲げられている。お互いの信仰を認め、尊重し合う証だ。

堂内に掲げられる各宗派の御紋

 ハワイの平等院はValley of the Templesという私営墓地の一角にある。アメリカの映画やドラマで観るような、広い芝生に小さな墓石が並ぶエリアもあれば、日本式の長方形の墓石が並ぶエリアもある。ここにも多様性が表れている。
 コオラウ山脈の自然も美しいが、そうした寛容さと多様性も私は美しいと思った。

 こうして振り返ると、ハワイ平等院は素晴らしいところばかりだ。足りないものといえば、ただ一つ、雲中供養菩薩だけ(笑)。本家宇治平等院鳳凰堂の壁には、52体もの雲中供養菩薩が音楽を奏で、舞っておられる。私がイーロン・マスクほどの富豪であれば、仏師の村上清さんに発注して、奉納するのになぁ。。

日本の方にこそ行っていだたきたい!

ハワイの平等院は、欧米人向け島内観光ツアーにはほぼ必ず組み込まれるらしい。アメリカのドラマ『LOST』など、ロケ地になってもいて、観光地として有名なのだそうだ。
 しかし、肝心の日本人観光客で訪れる人は少ないと聞いた。本家が京都宇治にあるのに、なぜハワイまで行ってわざわざレプリカを観に行く必要があるのか。そう思われているのだろう。

 いやいやいや…。

 私は言いたい。もっと日本からお参りにいきませんか、と。

 オアフ島大自然を全身で感じながら、日系移民の皆様に想いを馳せようではないですか!

 そして、私は日系移民の歴史と仏教の関係について、学びたくなっている。

【拝観案内】

Byodo-in Temple Hawaii

住所 47-200 Kahekili Highway, Kaneohe, HI 96744, USA
行き方 アラモアナからTheBus 65番で約80分。バス停降りて、Valley of the Temples Memorial Park内を歩くと到着。バスは1時間に1本程度なので、レンタカー等の利用が便利かと。
公式サイトThe Byodo-In Temple
なお、ショップでお願いすると、御朱印もいただける。"Goshuin"とか"Goshuin Stamp"で通じる。日本語がネイティブでない方が書かれた日本語の文字がたまらなく好き。

【参考資料】

⚪︎Byodo-in Temple Hawaii Wikipedia
Byodo-In (Hawaii) - Wikipedia
⚪︎Valley of the Temples Memorial Park Wikipedia
Valley of the Temples Memorial Park - Wikipedia
⚪︎ハワイの日系移民の歴史をぱぱっと学べるサイト→hawaii.jpハワイの日系移民の歴史があって今のハワイがある | hawaii.jp
⚪︎ドラマLOST 第1シーズン第6話で、ハワイ平等院がロケ地として使われている。チラッと見たところ、夜のシーンで、なぜか韓国人夫婦が韓国語で会話するシーンだった。いやー、本家は日本でございますよーと叫びたい(笑)
https://www.disneyplus.com/ja-jp/play/e59feff8-d2dc-4ea3-a152-de49d80bede2

【信濃仏】仏師善光寺妙海の最後の日光・月光菩薩像@福満寺(麻績村)

善光寺住妙海と名乗る仏師

 仏師妙海をご存知だろうか。鎌倉時代の終わり頃、彗星のように突如として信濃に現れ、40代という若さで亡くなったかもしれない、伝説の仏師である…。(←プロジェクトX の感じで書き始めてみるw) 

 長野県麻績村、福満寺の日光・月光菩薩立像は、1332年、善光寺住妙海と名乗る仏師の40代にして最後の作。妙海は長野県内に5件、9躯の仏像を残し、そのすべてに仏師名と制作年度が記される(注1)。


文保元

1317

日光・月光菩薩立像

光久寺(安曇野市

県宝

元享2

1322

金剛力士

波田地区仁王門(松本市

県宝

元享3

1323

十一面観音菩薩立像

上島区(辰野町

重文

元享3

1323

日光・月光菩薩立像

光輪寺(朝日村

県宝

元徳4 正慶元

1332

日光・月光菩薩立像

福満寺(麻績村

重文

 上記のように、全9躯のうち、日光月光菩薩立像が3組を占める。どれも三尺ほどの素地仕上げ。高い髻に、左右の眉がつながる、いわゆる、連眉が特徴。

仏師が老いると仏像も老いる?

 恥ずかしながら告白すると、私は、安曇野の光久寺の日光菩薩・月光菩薩像がとにかく愛らしくて、大好きなのである。仏像なのに、こんなにかわいらしくていいのーー(♡♡)と叫びたくなる。それほどに愛らしい。若かりし日の妙海さんが、あふれでる若さを存分に注ぎ込んで彫り上げたに違いない。お像に若々しさが満ちている。

光久寺のかわいすぎる妙海仏♡

 一方、今回拝観したこちら福満寺の日光月光さまは、記録に残る限り、妙海の最後の作。最後と言っても、その時の妙海はまだ40代で、そんなにお爺さんではない。(注3)

福満寺の日光菩薩立像 この静謐さ
妙海の最後の作、福満寺の日光・月光菩薩立像

 しかし、福満寺のお像は、15年前の光久寺のそれと比べると、明らかに静かで、落ち着いている。はっちゃけたような元気さも、ほとばしるような若さもない。仏師が歳をとるにつれて、仏像も歳をとるーーー。そんなこともあるのだろう。よくみると、光久寺像のような見事な毛彫もない。

 かといって、福満寺のお像が劣るわけでは決してない。福満寺の菩薩像は、元気と若さでは光久寺に及ばないが、その巧みな彫技が確かに残っている。いや、むしろ円熟みを増して、慈悲深く、独特の魅力を放っている。
 正直なところ、私は光久寺の妙海仏への想いが強いがために、福満寺に着くまでは、福満寺の妙海仏に失望してしまったらどうしよう…という気持ちが、わずかながらあった。期待200%、不安2%という感じだった(動揺が激しすぎて、百分率がおかしい…w)。尊敬する武笠先生も、光久寺の日光月光菩薩像や波田の仁王像のような愛くるしさこそ、妙海の本領発揮だというようなことを書かれている(注2)。

 しかし、福満寺さまで、妙海仏に拝顔した瞬間、そんな不安は一気に消え去った。さっきまで光久寺のお像がかわいくて、かわいくて最高、と思っていた私が、福満寺のお堂に入った瞬間、ああーー、この妙海の菩薩像も、とんでもなく素敵ではないかーーー(!!!)と思ってしまった。うれしさ500%!(百分率の勉強やりなおそう...w)

 つまりは、宋風な表現に落ち着きと気品がプラスされた、妙海さまの技に、私は感嘆したのだった!! 妙海さま、あなたの仏像に私は夢中です!

双子のようなそっくりさんなのに、衣の表現は変えてくるところも好き

虎屋といえば羊羹、妙海といえば日光・月光菩薩

 福満寺の日光・月光菩薩像は、福満寺の薬師如来坐像に比して小さめなため、千手観音菩薩坐像(現在、客殿安置)の両脇侍として造立されたのではないか、という説があるのだそうだ。

 しかし、それについては、私は首を傾げざるをえない。以下、妙海ファンの妄想も混じってくるが、聞いてほしい。

 前述のように、妙海による仏像9躯のうち6躯が日光・月光菩薩の立像なのである。妙海が薬師如来信仰と関わりがあったと考えてもよいのではないか? 

 ちなみに、福王寺(長野県佐久市)の菩薩像の一体は妙海だった可能性が指摘される。平安後期の地方作とされる阿弥陀如来(大好きな阿弥陀さま)の脇侍として、後から造立されたのだとされるが、それもなぜか「伝月光菩薩」である(お寺では、正面右側に安置されていてわかりにくかったが、こちらが伝月光菩薩らしい。しかも、頭部などに後の補修が入っていて、妙海仏とはわかりにくい。が、衣の薄いヒラヒラに妙海が垣間見える)。とにかく、虎屋と言えば羊羹、妙海といえば薬師如来の両脇侍、日光・月光菩薩なのだ(たぶん)

 なにより、福満寺の薬師如来は平安後期に遡る古像だ。それにふさわしい脇侍像の造立にあたり、薬師信仰と関わりがあって腕も確かな妙海が抜擢されたのではないか。

 また、銘の残る妙海の日光・月光菩薩立像3組がどれも三尺であることを考えると、福満寺像だけ薬師以外の脇侍だったとは考えにくくはないか…?

 さらに、あえて妙海ファンの妄想を進めて吐露すると、おそらく病気で身体が弱った妙海が、体力の衰えをそれまでの彫技で補いつつ、制作したのではないだろうか。細かい毛彫がなされなかったのも、身体がしんどかったためではなかったか。しかし、自身の体調のつらさがあったからこそ、この深い慈悲に満ちた表情を木に写し出せたのではないだろうか。その根底に、薬師信仰があったに違いない…。弱っているからこそ、深い信心でなしうるものがきっとある。その一例が福満寺のこの菩薩像ではないか。

 長々と書いてしまった。まだ、言いたいことや疑問はあるが、書き出すとと取り留めなくなくなりそうだ…。


 そこで、結論。
 若々しくて愛らしい光久寺像が大好き! そして、福満寺の円熟した菩薩像も大好き! どちらも良さがあって、本当に大好き!
 日本の仏像史上に燦然と輝く仏師妙海さまを今後もお慕いしていくことをここに誓う! (プロジェクトX風に始まった本稿だが、なぜか選手宣誓で閉めることに…笑) そう、次の目標は朝日村! 朝日に向かって走り出そう!

【拝観案内】

福満寺(長野県麻績村
住所 長野県東筑摩郡麻績村山寺

・縁起

嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁が東国を巡る際、巨大な一本の霊木から薬師如来、日光月光菩薩、四天王、十二神将を彫り出し、一宇建立してまつったのが始まりとされる。

・仏像の宝庫

福満寺は仏像の宝庫で、収蔵庫には平安後期の薬師如来坐像を中心に、たくさんの仏像が安置される。妙海さまで興奮してしまって、ここでは書けなかったが、平安仏がこれまた素晴らしい。薬師如来坐像の他にも、千手観音の脇侍である不動明王立像と毘沙門天立像が平安後期、四天王のうち3躯が平安で1躯が鎌倉仏。拝観時間をたっぷり取って予定を組まれるのがよろしいかと。
なお、客殿の千手観音菩薩坐像は5月3日の祭礼の際に拝観できると伺った。平安時代の作だが、後補部分が多いとかで、村指定文化財だという。
薬師如来坐像 平安後期 147.0cm 桂 寄木造り  重文
日光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 114.7cm 重文
月光菩薩立像 鎌倉時代 妙海 115.5cm 重文
不動明王立像 平安後期 159.5cm 桧 寄木造り 重文
毘沙門天立像 平安後期 169.0cm 桧 寄木造り 重文
四天王立像 平安3体、鎌倉1体 村指定
賓頭盧尊者坐像 村指定
十二神将
仁王像 村指定
千手観音菩薩坐像 平安後期 106.5cm 村指定(客殿秘仏で5月3日に公開)

【注と写真】

注1) 妙海の製作年度の表は、伊藤羊子「仏師 善光寺妙海はなぜ注目されるのか」『めくるめく信州仏像巡礼』の表を少しだけアレンジした。
注2) 詳しくは武笠朗「妙海」『鎌倉時代仏師列伝』(吉川弘文館)をぜひぜひお読みください。私はこの武笠先生の章を読んで以来、武笠先生のファン。
注3) 麻績村文化財サイトには妙海48歳の作とあるが、本稿ではあえて「40代」とした。理由はお像の銘記によって微妙に妙海の年齢が異なるから。光久寺像に文保元年(1317)34歳とある一方で、波田辰野町の像には元享3年(1323)34歳と記載される。まさか永遠の35歳のなのか(笑)。光久寺像が正しければ、1284年生まれとなり福満寺像は48歳の作となる。しかし、波田と辰野の銘記が正しければ、1290年生まれとなり、福満寺像は43歳の作となる。詳しくは、上記注2)に記載の武笠先生の章をご参照ください

※写真※ 月光菩薩立像の全身像が友人もぐじ氏が撮影。それ以外はすべて不肖ヒヨドリの撮影。

【参考文献】

・『めくるめく信州仏像巡礼』 武笠朗 (監修) 長野県信濃美術館 (編集) 2015年
・『鎌倉時代仏師列伝』山本 勉 (著), 武笠 朗 (著)  吉川弘文館 2023年
・『善光寺御開帳記念"いのり”のかたち 善光寺信仰展 』長野県信濃美術館2009年特別展図録
麻績村文化財サイト 彫刻|麻績村
・まるきょう氏 信州の福満寺(善光寺妙海仏を訪ねて) - 和顔愛語 古寺と古仏を訪ねて (仏像への接し方も写真も素敵だわぁと思ったら、お友達のブログだった!)
・ソゾタケ氏 光久寺(長野県安曇野市)—妙海による最初期の日光・月光菩薩像 – 祇是未在 (写真が最高)
・拙稿 【信濃仏】光久寺(安曇野市)若き妙海の日光月光菩薩像はかわいらしい双子のようだった! - ぶつぞうな日々 part III
・拙稿 【信濃仏】福王寺(佐久市)の力強い阿弥陀さまと雨ごい邪鬼の毘沙門天さま - ぶつぞうな日々 part III

【信濃仏】「ハッケン!上田の仏像」展@上田市立美術館に大興奮

「ハッケン!上田の仏像」展
上田市立美術館(長野県上田市
2025/1/11-3/9

これは行かなければ!!! となるチラシ
入り口からこんな感じでずるくないですかー

長野県上田市で仏像の特別展が始まった。実にマニアック。平成28年から実施された上田市による仏像悉皆調査の成果を盛り込んだ、仏像愛好家垂涎の展覧会である!

飛鳥時代後期の菩薩立像/長福寺(上田市

会場入ってすぐの小さなスペースに、飛鳥時代後期の菩薩立像(長福寺)がおられる。長野県屈指の古像へのリスペクトを感じる。飛鳥周辺で制作され、天武・持統天皇の時代の仏教拡大の政策のもと、7世紀後半に北信濃にもたらされたのではないか、と展示解説にあった。ある本によると、この金銅仏とよく似たお像が愛知県西尾市の修法寺におられるそうだ。このような仏像が日本各地に運ばれ、仏のみ教えを広める役割を担われたのだろうか。

聖観音菩薩立像/清水寺長野市松代)

2022年に清水寺で筆者が撮影。展覧会場では違って見えるのが不思議

そして、次の一室には、平安時代の仏像が並ぶ。なんとその真ん中に、清水寺長野市松代)の観音菩薩立像が! 平安前期のお像は強力な印象のものも少なくないが、このお像は特にパンチがある。それなのに、お寺でお会いしたときよりも、ものすごく繊細で、艶っぽくも感じられたから、不思議だ。展覧会場の照明がお寺のそれよりも繊細なためだろう。お寺では見ることができない、お背中も間近で拝見。ぞくぞくした。これは必見!

普賢菩薩立像/大法寺(青木村

大法寺(長野県青木村)の普賢菩薩立像。眼をはっきりと彫り出さないところが私はとても気になる。閉じたような、不思議な両目。照明の違いのためか、お寺より細かい点もよく見える。それなのに、いや、そのせいか、私はまたしても、この不思議な両目に惹きつけられたのだった。
私の大法寺拝観記録(2018年)はこちら(↓)。同じ仏師による思われる十一面観音立像は本展にはお出ましではない
【信濃仏】大法寺(青木村)~瞳を閉じた十一面観音さまは何を感じ取ろうとされているのだろう~ - ぶつぞうな日々 part III

十一面観音菩薩立像/実相院(上田市真田町

美しい実相院の十一面観音さま 写真は展覧会のサイトより

そして、前からお会いしたかった、実相院(上田市真田町)の十一面観音菩薩立像!! 四阿山白山信仰の霊山とされ、この十一面観音さまは山家神社とその別当である白山寺に本地仏としてまつられていた。明治初めの神仏分離の際に、白山寺が廃寺となり、実相院に遷座されたという。お身体全体や衣文は平安後期の穏やかさがあるが、お顔の表情は厳しい。本地仏の観音さまは厳しめのことが多いように思うのだが、なぜだろう。そして、その言葉にできない何かに惹きつけられるのはなぜだろう。白山の本地仏は十一面観音坐像が多いように思うが、立像である点も気になる。こんなに魅力的でありがたい観音さまに、ありえないくらいの近さでお会いできる。ずっと見つめていたい観音さまだった。

大日如来坐像/前山寺(上田市前山)

“発見”された大日如来さま 写真は展覧会のサイトより

実相院の十一面観音さまのあと、呼吸を整え直す暇もなく、鎌倉時代の仏像の展示が始まる。
鎌倉仏の最初に現れるのが、前山寺(上田市前山)の金剛界大日如来坐像。これがもうびっくり。一眼で鎌倉仏とわかるのだが、それにしては、頬が丸く張り出して、童顔のようで、かわいらしい! 一瞬にして魅了される! こんなことがあってよいのか!? よくない!
さらに、驚くのが、松山寺本堂のご本尊でありながら、昨年11月、上田市文化財に指定されたばかりだという。なんてことだ! 長年にわたる信仰の対象について、令和になってやっと、その文化的歴史的価値が認められたことになる。展覧会のタイトル「ハッケン!」にはこのお像のことが含まれるのだろう。こんなことがあってよいのか!? よくない!! 非常によろしくなくて、素晴らしすぎる!! 仏像調査に敬意を評したいし、私もその内容を学びたくなるではないか!! (展覧会図録がまだできていないそうで、予約したので、早く読みたい!)
前山寺の今年はじめのインスタグラムには、「間もなく開基700年を迎える前山寺のほんの一時をお預かりする山主も苦渋の決断、厳重な移動を迎えるその瞬間も不安と心配でいっぱい」と吐露されていた。ご出展を決断されたお寺様に心からの感謝を申し上げたい。本当にありがとうございます! たくさん「!」を連発してしまった私をお許しください。

他にも、わぁわぁと心の中で叫びながら拝観したお像がおられた。京都広隆寺秘仏薬師如来さまを想起させる神畑薬師堂の薬師如来立像や、そばで拝見するとぬめっとしていかにも生身信仰の芳泉寺の阿弥陀如来立像など。できれば会期中に再訪したい…


展覧会公式サイト
www.santomyuze.com

【番外編】 パレスチナ・ガザの画家三人展 1/18まで 相模原のフクヤマ画廊にて

パレスチナ・ガザの画家三人展
2025/1/7-1/18
フクヤマ画廊(神奈川県相模原市
http://www.fgallery.com/info/gaza_3.PDF

大学で国際政治を学んだのに、私は世界の平和のために何もできていない。半径2メール以内の笑顔を守ろうとするだけで精一杯。いや、それさえもままならない…。そんな自分に罪悪感があるが、現状どうにもならず…

そんななか、いとうせいこう氏のSNS投稿で、パレスチナ・ガザのアーティストの作品展が開催されると知り、出かけてきた。
企画・主催はPHAP(パレスチナのハート アートプロジェクトとフクヤマ画廊。PHAP代表で現代美術家の上條陽子 氏は、2001年からレバノンパレスチナ難民キャンプで絵画指導を行ってきた。2019年には、ガザのアーティスト3人の作品を日本に輸送。さらに、渡航VISAという難問もクリアして3人を日本に招聘。同年2月に日本各地で作品展を開催した。

今回の作品展は、この時に日本に渡ったこの3人の作品で構成される。アーティストの名は、ソヘイル・セレイム(Sohail Salem)、モハメド・アル・ハワジリ(Mohammad Al-Hawajri)、そしてライエッド・イサ(Raeed Issa)。彼らの血の通った作品をこの目で観て、感じることができる。

パレスチナのガザでは、この3人を含め、アーティスト7人で画廊エルチカが運営されていた。しかし、2023年10月に始まった戦火により、画廊が破壊され、作品や画材すべてが失われてしまった。唯一戦禍を逃れたのが、これら日本に残る作品なのだという。作家本人の希望により、日本のフクヤマ画廊で最後の販売展示が行われ、残った作品のすべてはドバイに渡るそうだ。

つまりは、今回の戦禍前の彼らの作品を日本で観られる最後の機会なのである。ニュースで観るガザの映像は瓦礫ばかりで、色が感じられない。それがつらい。しかし、3人の作品を間近で観ることで、一人ひとりに色があり、特徴があることを感じることができる(一人一人に個性があるなんて、当たり前のことなのだが、、、その理解と共感こそが平和への第一歩ではないかという思いで、あえて書いておく)

ソヘイルとライエッドは今もガザで暮らす。アルハワジリはドバイへ逃げられたが、家族親族24名を亡くした。
彼らの生活を支えるため、日本で少しでも多く作品が購入されるよう願っている。私は資金不足で購入できないので、わずかでも展覧会の宣伝になることを願ってこれを書いている。フクヤマ画廊はJRと京王線橋本駅の近く。18日まで無休で開催されているので、ご興味あるかたはぜひ。

If I must die, you must live to tell my story... (Refaat Alareer) 武器や暴力の前で人は無力である。だけど、言葉とアートの力を私は信じたい。



【参考】
上條陽子氏の活動を紹介するNHKの番組
⚪︎NHK WORLD Direct Talk
Paintings for Peace in Gaza: Kamijo Yoko / Artist
www3.nhk.or.jp
(上記リンクから視聴可能)

⚪︎NHK日曜美術館「壁を越える〜パレスチナ・ガザの画家と上條陽子の挑戦〜」
初回放送日:2021年6月6日
www.nhk.jp

⚪︎Al-Hawajiri
Al-Hawajri - Home

⚪︎Sohail Salem
https://www.facebook.com/sohail.salem.3

⚪︎Raed Issa
https://www.facebook.com/raed.issa.73

【信濃仏】西念寺(長野県佐久市)〜浅間山の南におられる穏やかな阿弥陀如来さま〜

西念寺(長野県佐久市
ご本尊阿弥陀如来様 

※2022年7月の拝観記録です

西念寺ご本尊阿弥陀如来坐像(長野県宝)

 浅間山の南で、穏やかで気品あふれる阿弥陀如来様を拝ませいただいた。佐久市岩村田西念寺のご本尊様は平安後期に遡る定朝様。像高130.3cm。桧の寄木造。肩の力を抜いてゆったりと座るお姿。お椀をひっくり返したのような、ぽっくりとした肉髻。ざくざくと刻む螺髪。切長の半眼。肩や腕の辺りの薄い衣文。そのすべてを前に、自分の身体の中の嫌な塊が溶けていくのを感じた。


平安後期らしい穏やかさ
<>
客仏の阿弥陀如来さまと

 新型コロナがあり、戦争があり、街では殺傷事件が起こる。得体の知れない不穏や不安がそこかしこに漂っていないだろうか。大好きな奈良で起きた事件の衝撃も私には大きかった。そんな2022年7月、平安時代のみほとけに拝顔できた。ただそのことに感謝する。

客仏 阿弥陀如来坐像


 内陣須弥壇に客仏としてまつられる阿弥陀如来さま。佐久市根々井のお寺様のご本尊だったと伺った。ご本尊としての風格が感じられる。

客仏 阿弥陀如来立像


 こちらは浅科の長念寺のご本尊だった阿弥陀如来さま。廃寺となり、西念寺でおまつりされることになった。

徳本上人名号塔


 境内に文化13年の徳本上人名号塔も残る。後方の銘文をはこんな感じだろうか。

維時文化十三年丙子年八月當山十六世西誉代

徳本上人
御開眼畢於當寺
三日御化益供養塔
施主
渡邊武左衛門原斎?建立

 文化13年、つまり、徳本上人が亡くなられる2年前に建立。徳本上人が西念寺に立ち寄った記録はないが、徳本上人から許可を得て建立されたようだと伺った。

【山梨】瑜伽寺(笛吹市)〜十二神将を拝観後悩み続けています〜

瑜伽寺(山梨県笛吹市

 無碍山瑜伽寺という美しい名前のお寺様で、古仏を拝観させていただいた。ありがたく心から感謝。そして、十二神将像について悩み始めてしまった。

塑像残欠(どろ仏様)(県指定文化財

 瑜伽寺は霊亀元年(715年)創建と伝わり、塑像の残欠が多く残る。塑像の作例が奈良時代に多いことを考えると、創建時の本尊(薬師如来?)だった可能性は十分にある。
 残欠のうち大きめのものは、東京国立博物館に寄託。しかし、私が瑜伽寺をお参りした日は、近くの山梨県立博物館「奈良大和路のみほとけ」展で特別展示されていた。小さな残欠は瑜伽寺の収蔵庫に保管されており、同じ日に大小の塑像残欠を拝観させていただ句ことができた。
 これら塑像の残欠は、今では「どろ仏(ぼとけ)」様と呼ばれているそうだ。欠けらになってもなお、そのような愛称で呼ばれることに胸が熱くなる。よく見ると、残欠の一部に金箔が残っている。欠けらになっても、1300年経っても、みほとけであり続けていることに感動する。

木造如来形坐像(県指定文化財

瑜伽寺木造如来形坐像(写真は『甲斐百八霊場』平成17年改訂版より)

 収蔵庫に安置される木彫仏。檜の一木造り。像高84.5cm。量感ある体躯は平安前期の特徴を示す。塑像の初代薬師如来を引き継ぐ、二代目の本尊だった可能性があると伺った。つまりは、薬師如来だった可能性があるのだが、なぜか、だいにっちゃん(大日如来)と呼ばれていた時期があるのだとか。
 指を曲げた独特な両手はいずれも後補。玉眼は近年の修理で取り除かれている。
 つまりは、いろいろなご経験をされているお像である。私がお像の言葉がわかるなら、これまでのあれこれを夜通し伺いたい。そんな風に思わされる、謎多き尊像である。

木造十二神将(県指定文化財

 薬師堂に安置。檜材。子神と辰神は寄木造りで、他の10躯は一木割矧ぎ造り。
 実は、この十二神将について、私はひどく悩んでいる。塩山にある放光寺仁王像との類似性から成朝の作かも、と言われてきたらしい。が、帰ってから調べてみると、最近は成朝説が否定されていたりするようなのだ。
 さらに、よく見ると、大倉薬師堂様に特徴的な巳神像タイプ(右腕を下ろして立つ)と戌神像タイプ(髪の毛が巻毛)もおられる。お寺ではそれぞれ別の尊像の名前がついており、私の悩みをさらに強める。そもそも成朝の作であれば、制作年代は北条義時が大倉薬師堂を建てる前だったことになり、制作年代がおかしいのでは。それとも、大倉薬師堂より前に、その様式は存在していたのか?
 詳しい方、教えてください!!

雨乞いの破損仏

 収蔵庫の中に木彫の破損仏が二体。自立できる感じではなく、壁にもたれかかって立っておられる。雨乞いの儀式でいじめられたお像である。
 この辺りでは、雨が降らないのは神仏がさぼっているからだと考え、お像を水につけたり、火で炙ったり、叩いたりして神仏にはっぱをかけ、しっかり働いてもらって雨を降らせてもらおうとしたのだという。強請祈願と呼ばれるこの風習、長野県佐久市上田市辺りでも聞いたことがある。神仏とのこういう距離感に私は惹かれる。

【拝観案内】

無碍山瑜伽寺
〒1406−0823 笛吹市八代町永井1543
公式サイト 臨済宗のご葬儀・法事なら山梨県笛吹市の「瑜伽寺」

【参考資料】

参考 『甲斐百八霊場 改訂版』平成17年、テレビ山梨、監修 清雲俊元(放光寺長老)
参考 「成朝―鎌倉時代仏師列伝 外伝―」山本勉 成朝―鎌倉時代仏師列伝 外伝― 山本 勉|吉川弘文館『本郷』Web編集部
参考 せきどよしおさん瑜伽寺の如来形坐像と十二神将像 - butsuzoutanbou ページ!

2024年感謝状 一年間の出会いに感謝申し上げます

2024年は仕事もプライベートも怒涛の一年だった。みほとけのお像にお会いする時間は例年にも増して貴重で、かけがいのないものとなった。どのお像との出会いも感動と感謝に満ちていた。2024年を振り返り、特に5つの感謝状をここに捧げたい。

【感謝状 〜ああ、福山の秘仏十一面観音さま!〜】

明王院広島県福知山市
33年に一度だけご開帳される十一面観音菩薩様にお会いした感動は言葉に尽くせない。11月初めの雨の日、たどり着いたお堂にのぼると、穏やかな照明のなか、美しい立ち姿が目に入ってきた。厳しくもあり、ひたすらかわいらしくもあり。これほど尊く気高い存在はそうありえない。五重塔弥勒菩薩像の歴史とそれを紐解いた研究成果も素晴らしい。ブログを書くのも楽しかった。
ここに心より感謝申し上げます
butsuzodiary.hateblo.jp

【感謝状 〜公民館の片隅にびっくりの薬師如来さま〜】

事前に写真を拝見せず、拝観に伺う…。そんなやんちゃなことをしてしまったら、なんと、公民館の片隅にその薬師如来さまは立っておられた…! これは鎌倉時代? しかも、元々おられたお堂も判明し、現地へ向かうことに! なんという偶然の巡り合わせだろう! 公民館の仏像は庶民に愛された証なのと思う(この話は長くなるので、また別の機会に)
ここに心より感謝申し上げます
butsuzodiary.hateblo.jp

【感謝状 〜悲しい私に奇跡の出会い〜】


父を亡くした悲しみで身体中の細胞が埋め尽くされていた頃、とある外出先の公園に私はいた。そして、ふと思い出した。その近くに、前からお会いしたいと思っていた阿弥陀如来さまがおられることを。思い切ってお電話してみると、夕方なら時間あるのでどうぞ、とのこと。電話したのは朝の9時半だった。いつもなら一日の予定はパンパンだが、その日は悲しくてそれどころではなく、午後の予定は入れていなかった。夕方までカフェで時間をつぶし、お寺様へ向かった。
阿弥陀如来さまは、極楽浄土におられるようだった。まさに當麻曼荼羅を彷彿とさせるその光景に息を呑んだ。父はきっと阿弥陀如来さまのおそばにいる。そう確認して帰宅した。
それから数日経ち、なんとそのお寺様からお手紙をいただいた。そこには、「大切な人を亡くし、つらい思いを抱えた方のために、できる限りお寺を開けてお参りいただけるようにしていますので、ぜひまたお参りください」とあった。驚いた。そして、泣いた。父のことは何も伝えていなかったからだ。
私は単に仏像が好きなだけの人間。しかし、そのおかげで、思いもかけない出会いと感動に巡り逢えることがある。
ここに心より感謝申し上げます

【感謝状 〜大切なのは目に見えない思いやりと敬意〜】


仏友さんに連れて行っていただいた丹波のお寺様が感動に満ちていた。お堂に入ってまず目に飛び込んでくるのが、平安時代、一木造りの虚空菩薩立像。像高165.8cmの古びた佇まいに惹きつけられた。奈良国立博物館の観音像が立ち並ぶ一室に紛れ込んでも、まったく違和感ない感じ。もう少し時代のくだる大日如来坐像の気高さにも感嘆。
しかし、何より感動したのが、友人とお寺様とのおしゃべりから垣間見える両者の関係である。友人はひたすらお寺様を尊敬し、さりげない心配りを見せる。お寺様は友人がお参りに来ることを喜んでくださる。友人もお寺様もどちらも尊敬せずにはいられない!!
お寺で仏像が見えにくいと文句をいう人が時々いるらしい。合掌すらせず、写真だけバシャバシャと撮って去っていく人を見たこともある。それは寂しく、貧しい行動だと私は思う。
仏像を“見る”だけで満足なのか。それとも、過去と現在と未来をつなぐ仏像に敬意を払えているのか。これまで仏像に護られ、仏像をお守りされてきた方々への敬意は。そんな大切なことを改めて教えていただいた。
ここに心から感謝申し上げます

【感謝状 〜国外流出した平安仏に手を合わせる〜】


大日如来坐像(米国ハワイ州ホノルル美術館)
ちょっとした用事がありハワイに行ってきた。まさか自分の人生でハワイと接点ができるとは思っていなかった。短い滞在であったが、なんとか時間をやりくりして、ホノルル美術館へ。日本の仏像が何体か展示されていた。
特に、この大日如来坐像は、平安時代でも古いものと思われ、激しく惹かれた。ガラスケースなしで、撮影可能。ホノルル美術館のアイコン的存在である中国の遊戯坐の観音像が展示室奥の中央にどーんとおられるのだが、この大日如来像はそのすぐ横にこじんまりとした感じで置かれている。しかし、日本の仏像が大好きな私には、その観音像が霞んで見えるほどの感動だった。
おそらく明治初め、廃仏毀釈の頃に国外へ流出したのだろう。今はこうして日本と世界とを結ぶ親善大使の役割を担われている。
ここに心から感謝申し上げます

ぶつぞうな日々Part II (バックナンバー)はこちらです!

仏像のブログを書き始めたのは、2005年の年末でした。最初の投稿はこんな感じ。

f:id:butsuzodiary:20180212015258j:plain

 

10年以上が過ぎてもこの気持ちに変わりありません。ますます仏像に魅了されています。

上記のブログは「ココログ」で書いていたのですが、投稿に無駄な手間暇がかかるのが悩みでした。

これからこちらの「はてなブログ」でお世話になろうと思います。

過去の記録は以下からご覧ください。

hiyodori-art2.cocolog-nifty.com




ブログを書いている「はらぺこヒヨドリ」さんのプロフィールは

はらぺこヒヨドリ をご覧ください。

 

素人の雑文ですが、これからも仏像への愛を叫んでいければと思っています。平凡な中にも山あり谷ありの人生ですが、仏像が好きなおかげでとても救われています。

仏像好きなみなさん、一緒に「仏像大好き~♪」と叫びましょう。仏像とそれを守られてきた皆様に感謝を伝えたいのです。

どうぞよろしくお願いいたします。

【広島】明王院(福山市)十一面観音菩薩さまご開帳~33年ぶりご開帳に泣き、令和の印仏に参加~

明王院広島県福山市
秘仏十一面観世音菩薩さまご開帳
2024/11/1-11/4

1) 序文~穏やかな照明のもと秘仏観音様にお会いする~

 秘仏十一面観音菩薩さま33年ぶりのご開帳にお参りした。
 穏やかな照明のもと、お厨子の近くで憧れの観音さまにお会いできた。泣いた。写真で拝見していた印象の何百倍も神々しい。ありがたくて、ありがたくて、ありがたい。
 お腹から下の衣文は平安前期に特有の深いもの。膝下には明らかな翻波式衣文。その一方、この時期だとご尊顔が厳しかったりするのだが、明王院の観音様は伏目で、慈愛に満ちている。ただ見惚れる。
 照明の当て方が愛に満ちていた。お厨子の下から小さなスポットライトが二つ。さらに、内陣と外陣の境の壁の上から大きなライトが二つ。観音様が美しく見えるように工夫したに違いない。
 春日厨子も美しい。脇侍の毘沙門天不動明王の立像の穏やかな佇まいもよい
。つまりは極楽のような空間だった。
 昨年、五重塔弥勒菩薩坐像の頭部から、釈迦如来薬師如来地蔵菩薩の三尊のハンコを押した紙がたくさん見つかった。ご結縁の方々が奉納した、いわゆる印仏である。今回のご開帳では、これと同じデザインのハンコが作られており、一般参拝者も押すことができた。私はもちろん参加。
 明王院五重塔は中世の方々が少額寄進して建てたという銘が残る。その皆様の思いを後世に伝えるため、私の少額のお納めが少しでもお役に立ちますよう。

2) 明王院のみほとけ!

 秘仏の観音様を含め、明王院では思いのほか多くの仏像にお会いできたので、以下に書き留めたい。

2-1) 本堂

秘仏十一面観音菩薩立像(重文)

明王院秘仏本尊十一面観音菩薩立像(写真は1991年の展示図録より)
観音様の深い表情に魅了される(写真はふくやま美術館前の看板。大雨の中で撮影)

 33年に一度ご開帳の秘仏一木造り。像高149.2cm。本体と共木で造られた蓮肉部を含む総高は171.7cm。一木造りの木取りは、両腕内側の天衣遊離部を含め、右手上膊の半ばまでと、左手首までを含む。蓮華座に立つ左足の親指が上に向いているが、これも一材から彫出されているというから、驚きだ。着衣の衣文は深く、美しく、複雑に流れる。膝から下には、はっきりとした翻波式を刻む。
 観音様はお厨子の中におられるため、側面と背面は見えない。展覧会図録に掲載の写真を拝見すると、どっしりと量感がある。特に、背面の美しさに魅了された。背面にも翻波式衣文がある。
 こうした平安前期の特徴があると、ご尊顔は厳しく強烈な印象があってもおかしくない。しかし、この明王院の十一面観音様のご尊顔は森厳でありながら、慈しみに満ちている。私はそう感じた。照明はお顔に特に白めに当てているので、それが観音様の見え方に大きく影響を与えているとは思う。お顔だけ白く浮かび上がっているように見えた。そのためなのかどうなのか、ご尊顔は伏し目がちで、厳しめでありながら、なぜかお優しい。ご一緒に参拝した女性数名から、「なんて優しいお顔なの...」というため息も聞こえてきた。
 この厳しくも優しくも見えるご尊顔は、この観音様の大きな特徴の一つなのではないか。「ふくやまの仏さま」展図録(2024年)では、このご尊顔について、かなり主観的な文章が掲載されており、その思いを強くした。以下に引用する(同図録p124上段より)。

>引用始め>この観音像の最大の魅力は、柔らかく、慈愛に満ちており、それでいて芯の通った強さを感じさせる面貌にあります。まっすぐ正面を見据える眼差しは、祈りを捧げるものを包み込む慈悲を湛え、引き結んだ唇は、弱い心を打ち滅ぼし、正しい道へと導こうとする強い意志を表出しています。<引用終わり

 図録といえば、寸法だったり制作年代だったり、サイエンスベースで記述するものだ。それなのに、上記のようにお像の"意志"にまで踏み込んだ書き方をしている。筆者の先生も観音様のご尊顔に強く魅了された証であろう。

毘沙門天立像と不動明王立像

秘仏観音様の脇侍。像高は毘沙門天が88.3cm、不動明王が66.5cm。どちらも平安後期かと思ったが、平成3年の図録「明王院ーその歴史と文化財ー」には、毘沙門天が平安末期、不動明王が室町前期とあった。

阿弥陀如来立像

本堂の脇侍に安置される、像高183.0cmの大きな阿弥陀様の立像。鎌倉後期の地方作。かつてあった阿弥陀堂にまつられていたか。

2-2) 五重塔

弥勒菩薩坐像および両脇侍坐像(県指定)

五重塔弥勒菩薩坐像及び両脇侍坐像(写真は「ふくやまの仏さま」展図録より)

 明王院の国宝五重塔弥勒菩薩坐像、不動明王坐像、愛染明王坐像の三尊がまつられる。五重塔の伏鉢(貞和4年 1348)には、兜率天上詣の願望を遂げ、弥勒菩薩と縁を結ぶため、一文勧進の小資を募って建立されたことを示す銘がある。明王院の門前に流れる芦田川の中州、草戸千軒の民衆が、少額を寄進したことを伺わせる貴重な銘文である。(同伏鉢のレプリカが、福山駅近く、広島県立歴史博物館<ふくやま草戸千軒ミュージアム>で展示されている。草戸千軒の街並み復元もあるので、明王院と合わせて訪問するのも悪くない!)
 弥勒菩薩、不動、愛染とも、造立時期は五重塔建立の貞和4年(1348)頃。どの像も一木割矧ぎで、玉眼嵌入。
 この弥勒菩薩坐像は実に興味深い。2022年度から2023年にかけて保存修理が行われ、頭部内の空洞に紙状の納入品が納められていることが判明したのである。紙縒(こより)でつながれた印仏2点と、折紙の書状(断片・印仏含む)1点だった。印仏は地蔵菩薩、釈迦如来薬師如来の三尊を一つの版とし、紙の表と裏に捺印され、紙縒で閉じられていた。一文寄進によるご結縁の証として、弥勒菩薩坐像の頭部に納入されたと考えられる。
今回のご開帳では、この印仏のデザインを模ったハンコが用意されており、それを参拝者が押すことができた。令和の印仏として、五重塔に納めていただけるという。印仏に憧れていたので、一瞬の迷いもなく、志納のうえ、この印仏に参加させていただいた。ありがたい!

境内に掲示されていた印仏の説明
私が奉納させていただいた令和の印仏。中世の本物よりだいぶ大きめ。裏面に住所氏名、願いごとを書きました。

 なお、明王院五重塔弥勒菩薩から印仏が見つかったというニュースは昨年拝見していたのだが、その際、五重塔なのだから弥勒菩薩ではなく、大日如来なのではないか、と素朴な疑問を感じた。今回の旅で、五重塔兜率天におられる弥勒菩薩との結縁を願って建立されたことを知り、なるほどと思った。
 これに関連して驚いたことがある。33年前、1991年の展覧会図録を拝見すると、この弥勒菩薩坐像が、なんとなんと、胎蔵界大日如来坐像として掲載されていたのである! 当時の写真を見ると、今のように宝塔をお持ちではない。さらに、明王院公式ホームページの文化財欄にも、まだ大日如来として掲載されている。むむむ、つまりは、わりと最近まで胎蔵界大日如来として認識されており、その後の研究によって弥勒菩薩坐像と特定されたのだろう。
 調べてみると、2016年に福山市教育委員会大日如来から弥勒菩薩へと名称変更したことがわかった。
濱田宣先生の論文によると、その理由は三つある。
i) 掌上に柄穴が確認され、弥勒菩薩の持つ宝塔があった可能性が高いと考えられること、
ii) 五重塔屋根上の伏鉢印刻銘に弥勒菩薩と結縁するために同塔を建立したとあること、および、
iii)五重塔内四天柱に描かれた三十六の尊像に弥勒菩薩を加えることによって金剛界三十七尊が揃うこと。

とてもとても興味深い。お像の尊名が変わったのは、研究の進歩によるもの。敬意を表したい。
 さらに、もう一点付記すると、五重塔弥勒菩薩不動明王愛染明王は、「各像に共通する文様表現と五重塔内荘厳画との類似から、三躯共に南北朝時代五重塔 建立当初(1348年)頃の制作であるとされた」とのこと。1348年の状況をこうして解明していく仕事に敬服する。

2-3) 護摩

不動明王立像(市指定)

 護摩堂の不動明王立像は寄木造りで玉眼嵌入。像高98.0cm。室町から江戸時代。
 護摩堂では、矜羯羅童子・制吒迦童子が二組まつられる。奥の二童子が本不動明王像と一具で、手前の二童子は他所から移安されたものとみられる。両脇侍像はいずれも江戸時代。

2-4) 書院

不動明王立像(市指定)

 書院に小さな仏像がまとめられており、参拝者がお参りできるようになっていた。市指定文化財が二つ含まれており、この不動明王立像はその一つ。
 像高94.0cm。平安末期の上品な感じのするお不動さま。明王院裏山中腹に愛宕神社があり、その本尊としてまつられていたと伝わる。

阿弥陀如来立像(市指定)

 来迎印を結ぶ、鎌倉時代阿弥陀如来立像。像高78.0cmと、三尺より小さいが、端正な表情で、衣文も流麗。

3) 拝観順路

 ご開帳中、境内の拝観順路が以下のとおり決められていた。僧侶や係の方々のご案内により、気持ちよくスムーズに拝観できた。

五重塔 

本堂 

護摩堂 

書院 

令和の印仏

4) 感想まとめ

 実はいろいろあって、11/1と11/2の二日連続でお参りしてしまった。どちらも大雨の中での拝観だった。特に、11/2は福山より西側の大雨の影響で、午前中は新幹線がストップ。私もそれに巻き込まれて福山を脱出できなくなり、ありがたいご縁により11/2も明王院にお参りすることになったのだった。当日はいろいろハラハラしたし、大変だった。が、今これを書きながら振り返ると、すべてが何かのお導きだったような気がしてくる。33年に一度、4日間のみのご開帳。そのうち2日も通ってしまった。本当にありがたい。
 また、印仏という作善に憧れていたので、令和の印仏に参加できたこともありがたい。
 この秘仏の観音様はなんと11/12からふくやま美術館「ふくやまの仏たち」展にお出ましになる。五重塔の三尊(上記の印仏が初公開)、護摩堂の不動明王と矜羯羅制吒迦二組など、明王院の仏像が美術館に集結する。秘仏観音様は、お堂とは別の照明のもと、お堂とはまた別の見え方になるのではないだろうか。お寺のご開帳と、展覧会、その両方に行かれる方も多いのでは。私は展覧会に行く予定は確保できていない。展覧会の様子を漏れ聞くことを楽しみにしている。

【参考文献】

・「ふくやまの仏さまー国宝明王院本堂本尊三十三年ぶり特別公開記念ー」展覧会図録(ふくやま美術館/2024年)
・「明王院ーその歴史と文化ー」展覧会図録(広島県立歴史博物館/1991年)

・「五重塔三尊仏《弥勒菩薩不動明王愛染明王》-各尊像の仏像史上の位置付けと西大寺律宗との関連性-」徳島文理大学文学部  教授  濱田 宣 明王院五重塔ご本尊弥勒菩薩解体中に見つかった「印仏」に関する講演 - 明王院を愛する会 福山市 国宝明王院
・TBSニュース「675年前の仏像内にあった紙 描かれていたのは3体の仏 民衆の願いの表れか 広島・福山市の国宝・五重塔の本尊」
newsdig.tbs.co.jp

【参拝案内】

明王院
住所 広島県福山市草戸町1473
公式サイト 国宝 明王院 オフィシャルホームページ

五重塔とその奥の本堂が国宝建築。秘仏ご開帳の日の境内です!

【京都】国立博物館1階の彫刻展示「如来と菩薩」

京都国立博物館1F-1展示室
彫刻「如来と菩薩」
2024年6月18日(火)~ 9月8日(日)

京都国立博物館新館の1階、最初のお部屋に平安時代を中心とした古像が並ぶ。展示解説をメモしながら拝観すると、あっという間に1時間が過ぎた。本稿は、そのメモを文字お越しし、さらに感想や関連リンク等を少しだけ追記したもの。
初見の像はほぼなかったと思う。が、よいお像は何度お会いしても感動する。さらに調べてみると新たな発見もあって、感動が倍増する。

薬師如来立像(京都・長源寺)

10世紀 重要文化財
長源寺のある京都市左京区岩倉は10世紀後半には天台寺院が多かった。本像ももとは天台宗寺院のものだったと考えられる。比叡山延暦寺根本中堂最澄自刻像と共通の特徴をもつ、いわゆる天台薬師の作例。

10世紀の"天台薬師"(京都・長源寺)

最澄自刻の薬師如来像は、鎌倉時代慈円によると、右手を挙げて親指と中指を結び、左手は掌を上に向けて全指を前に伸ばし、薬壺を持たないお姿だった。これを模した天台薬師は10世紀後半以降、数多く造立されるようになる。
長源寺は1463年創建の浄土宗寺院。10世紀の作である本像は、明治5年(1872)に当寺と合併した恵尊寺の旧仏だったという説がある。
(感想:2022年の天台展(京博)でもお会いしたが、こういう10世紀の天台薬師は感動する)
(写真は京博サイトより)

阿弥陀如来坐像(京都・心光院)

12世紀前半
定朝様。主要部門は前後左右四材の寄木造り。後頭部は体部と共木から彫出。
(感想:お背中まで拝めて♡♡♡)

十一面観音菩薩立像(京都・妙傳寺)

10世紀 重要文化財
10世紀末の和様彫刻の夜明けの時期の様相をよく示す。丸顔。まなじりの短い目。少しめくれる唇。

妙傳寺(京都八瀬)十一面観音立像

(感想:耳に髪がかかる感じとか、臂釧の感じなど、同じようなお像をどこかで拝見したなぁ…と思った。今、調べてみたら、滋賀県大津・九品寺の聖観音菩薩立像とそっくりだった! しかも、前にTwitterに同じことを書いていた!→
https://x.com/hphiyodori/status/1551315092611837952
(写真は京博サイトより)

千手観音菩薩立像(京都・光明寺

8-9世紀 重要文化財
長岡京市粟生の光明寺の千手観音像。深い眼差しや天衣の柔らかな表現は奈良時代の塑像や乾漆像の特徴。一方、裳裾の力強い衣文や量感ある体躯は平安初期の特徴を示す。
(感想:♡♡♡ 前にもお会いしているはずなのだが、今回は特に感動。奈良時代と平安初期の特徴が混ざってるなんて、最高の中の最高!)

如意輪観音菩薩坐像(京都・廬山寺)

13-14世紀 重要文化財
杏仁形の眼、規則的に折りたたまれた着衣のしわは飛鳥時代の特徴。四天王寺の救世観音像(現存せず)を鎌倉時代に模刻したか。

地蔵菩薩立像(京都・常念寺)

鎌倉時代13世紀
木津川市加茂町、常念寺の2メートルほどの地蔵菩薩立像
(私の感想:衣文は運慶っぽい? 横須賀満願寺の菩薩・地蔵立像を想起する。助けに来てくれるお姿の大きな地蔵菩薩立像で、最初にお会いした時に感動したことを思い出した)

地蔵菩薩踏下像(滋賀・御影堂新善光寺

13世紀 重要文化財
片足を下におろす、いわゆる踏下像。唐末から五代の敦煌絵画、高麗時代の仏画などに多く見られ、日本では平安後期から違例がある。鎌倉時代以降に盛行。若々しい表現は鎌倉前期の特徴。

長浜の御影堂新善光寺地蔵菩薩像。写真は2019年時宗の名宝展図録より

如意輪観音菩薩坐像(京都・透玄寺)

重要文化財
装飾的な髪の表現や長い爪は宋風。肥後定慶の弟子筋の作。像内から銅製経筒に納められた経巻が見つかり、その奥書に建長8年(1256)に円空によって八条院大慈恩寺において書写された旨が記載。
(感想:天冠に髪の毛が巻き付いているぞー!)
参考 木造如意輪観音坐像 文化遺産オンライン

観音菩薩勢至菩薩立像(京都・清水寺

12-13世紀 重要文化財
丸顔で腰を捻る点、衣文の畳方などが、1189年開山の浄楽寺(神奈川県横須賀市)の運慶作の菩薩立像と似る。浄楽寺像よりやや細身であることなどから、作者についてはなお検討が必要だが、初期慶派の作例として重要。

十一面観音菩薩立像(京都・宝積寺)

10-11世紀
京都・大山崎町の宝積寺の立像。一木造り。かつて天台の寂照(じゃくしょう)が当寺を中興した際に造像したもの。
(感想:宝積寺本堂本尊は院派の大きな十一面観音立像。それよりも前の十一面観音像がおられたとは...)

十一面観音菩薩立像(京都・常泰寺)

10世紀
伏見区の浄土宗寺院、常泰寺の十一面観音立像。榧の一木造り。内刳りなし。技量と量感のある肉身表現は平安初期に通じるが、表情や衣の襞の表現が比較的穏やかで10世紀中頃か。
(感想:♡♡♡)
参考 木造十一面観音立像

地蔵菩薩立像(京都・新町地蔵保存会)

9世紀 重要文化財
榧の一木造り。
(感想:背中の左右から下に垂れる衣文が立体的。背中にも照明当ててー!)
参考 木造地蔵菩薩坐像 文化遺産オンライン

菩薩坐像(大阪・清泰寺)

9世紀前半から半ば 重要文化財
三尊の脇侍の一対で、文殊菩薩普賢菩薩と伝わる。
(感想:平安初期の感じがたまらない)
参考 清泰寺木造菩薩坐像2体 - 枚方市 - LocalWiki
参考 https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/00011714
参考 木造菩薩坐像 文化遺産オンライン

清凉寺式釈迦如来立像(文化庁

13世紀 重要文化財
仁和寺の一院だった京都・常楽院に伝来。伝承では、明恵上人が京都槙尾西明寺の釈迦如来像像と同じ木で造らせたという。作者は、常楽院創建のために土地を寄進した、仏師院賢。
(感想:前日に槙尾西明寺をお参りしたばかりだったので、鳥肌がたった。衣文表現が細かい。2010年に常楽院住職が借金の担保に入れたことが判明したが、その後文化庁が購入。付属する十大弟子像も院賢の作か)

薬師如来立像(京都府城陽市阿弥陀寺

9世紀 重要文化財
枇杷庄(びわのしょう)天満宮社の神宮寺薬師院の本尊。木津川地域において、河川氾濫の難を逃れるため、薬師如来像が多く造られた。厳しい表情、鋭い彫りなど、霊威による除災を祈願した。
(感想:去年の南山城展での記憶が新しい。今、東京国立博物館で公開中の神護寺本尊に迫力負けてない)

地蔵菩薩立像(奈良・秋篠寺)

9世紀 重要文化財
(感想:このあたりで時間切れ。。。この地蔵菩薩立像は何度かお会いしているが、相変わらず強烈な印象だった)

【千葉】不思議な薬師如来立像との不思議な出会い

千葉県某所 薬師如来立像(鎌倉時代

1) 見知らぬ薬師如来像との出会い!

事前に写真を拝見せず、拝観に伺う…。そんなやんちゃなことを久しぶりに行ってしまった。

ことは某役所へのお電話に始まる。ある古像の拝観についてご相談すべく、お電話したのだった。過疎化などで廃寺となり、地元の方々が管理されているお堂は思いのほか多い。そういう場所の拝観については、まずは、役所に問い合わせるのが鉄則なのである。

結果的に、お目当てのお堂は管理者が高齢のため、個人拝観は不可とのことだった。しかし、それらとは別に、公民館に保管されている鎌倉仏がおられるのだという。

な、なんですと!?

鎌倉仏さまのご尊名を伺うと、薬師如来さまだとおっしゃる。千葉県は不思議と薬師如来が多い。まだおられるんですか、千葉の薬師如来像… 

胸がふるえた!

あーー、と、電話口で思わず、息を吐き出したと思う。

そして、続け様に拝観のお願いをした。

希望日を告げると、なんと、拝観させていただけるという。

「公民館」。「鎌倉時代」。「千葉の薬師如来」。
この三つのワードだけで、伺うことを即決したのだった。

逆に言うと、それ以上のことはまったく知らない。電話口で根掘り葉掘り質問したら、もっと教えていただけたのかもしれない。しかし、それはご迷惑だし失礼なような気がして、あえて詳しくは伺わず電話を切った。

とはいえ、その後、ネット検索はしてみた。が、それらしき薬師如来像の情報は出てこなかった。写真はおろか、文字情報さえ出てこない。立像なのか、坐像なのか、それさえもわからないまま、拝観当日を迎えた。

2) 天台薬師様 or 清凉寺式釈迦様 or 一日造立仏?

当日、一抹の不安とそれ以上の大きな期待を胸に、現地に到着した。そして、建物の奥、木製の箱の前まで案内された。

それは、明らかに手作りの、大きな木箱だった。それでも、扉には鍵らしきものが付いている。それをぱんぱんと外し、扉を開けてくださった。

思わず、わーっと声が出てしまった。

突然、目の前に、思いのほか大きな立像が現れたのだ。

端正なご尊顔は静かに目を伏せる。

右腕を曲げて胸の前に掲げ、中指と親指を捻る。左腕は腰の上辺りで曲がり、手のひらを上にして前に出す。手首から先は明らかに後補で、左手が前に突き出ているのか、横向きなのか、わかりにくい。そして、左手には薬壺を持たない。

この左腕の感じだけを見ると、天台根本薬師の系列なのかなぁと思った。しかし、びっくりなのが、頭部である。螺髪ではなく、網目のような形になっている。清凉寺式釈迦如来に見られるもので、薬師如来像では一日造立仏で見かけたことがある。かといって、一日造立仏ほど簡素な造りでもない。うーん、とても不思議な像容だ。

衣文も不思議だ。おへそ辺りから足元に落ちる衣文はシャープに直線状に刻む。その一方で、右脇から左に流れ、下に落ちる衣文は、うねうねして、重い。箱の中に入っているので、腰から下の辺りは見えにくかったが、そんな感じは見て取れた。

うーん、ご尊顔は端正で鎌倉中期? 衣には上記のように重たい部分があることを考えると、もう少し時代がくだるのかなぁ? それが素人の感想だった。

実は、現地に到着してすぐ、専門家によるメモ書きを頂戴していた。改めて読み返すと、こう書かれていた。

〈引用初め〉
構造・彩色: 一木割矧造、頭髪に同心円状の刻線、漆下地金泥塗り

様式: 豊満かつバランスのとれた類例の少ない清凉寺式釈迦如来像の一様式

年代: 鎌倉後期
〈引用終わり〉

むむむ、清凉寺式釈迦如来の一様式? そんなのあるのか? 左手が前に出るので、比叡山根本中堂を模した薬師と言えないのか?? 

こんなふうに様々に考え、悩みながら、拝観させていただいた。

でも、それ以上に、これだけ立派な古像が、小さな木箱に収められていることに心が震えっぱなしだった。

何か事情があるに違いない。

しかし、愛と信仰があるからこそ、ここに安置されているのだろう…

3) もともと安置されていたお堂に泣く!

古びたお堂には薬師如来様の写真が掲げられていた

上記のメモには、この薬師如来像がもともとまつられていたお堂の名前が書かれていた。

Google地図で検索するも、そのお堂の名前は載っていなかった。地名で検索しても出てこない。

うーん、と頭を捻り、あるワードで検索すると、それらしき場所が出てきた! 急きょそちらに向かった。

そこは秘境のような場所だった。

お堂は内陣と外陣とを格子で区切る、立派なもの。しかし、いかんせん、現状はぼろぼろだった。雨風が容易に入り込むよう有様。鎌倉仏を安置するには心もとない。防犯上の心配もある。

そうか。つまりは、この薬師如来立像は公民館へ避難されたのだろう。あの木箱を拝見した瞬間よぎった疑念は確信へ変わった。大切なお像だからこそ、今、別の場所に移られたのだ。大切なお像だからこそ、誰かが木箱を奉納したのだろう。

堂内の格子に、薬師如来像の写真が掲げられていた。その写真を堂外から撮らせていただいた。公民館では撮影禁止だったので、ありがたかった。

在地の皆様は今もこのお写真に手を合わせられるのだろう。そう思うと胸の奥が熱くなった。

4) やはりこれは運命の出会い?

拝観の翌日、偶然読み返した資料に掲載されていた

感動の出会いの翌日、とある仏像資料を読み返していた。天台根本薬師に関する記述を読み進めていると、見覚えのあるお像が...。

なんと、あの薬師如来立像だった。

白黒写真なので金泥の感じはわからない。しかし、私が前述した、端正なご尊顔や衣の感じがよくわかるものだった。しかも、拝観時には手ぶらだったのに、この写真では左手に薬壺を持っているではないか。

この仏像資料、だいぶ前から持っていて、何度か読み返していたのにまったく気づかなかった。

もうこれは運命の出会いと呼びたい!

清凉寺式釈迦如来に似た髪型をした薬師如来像。これは清凉寺式と同じく、生身仏を求めたものなのか。そして、天台根本薬師も求めたものなのか。一日造立仏との関りは? 

感動のあと、こうした「はて?」「はて?」「はて?」が楽しくてならない。

この不思議な出会いに感謝申し上げたい。本当に本当にありがとうございました。

【千葉県】いすみ市山田大門区の「鉄造仏頭」は仏頭ではなくご尊顔と呼びたいほどに美しい

鉄造仏頭(千葉県いすみ市
高さ113cm 鎌倉時代 県指定
山田大門区の大日堂にまつられる鉄仏さまである。市の文化財課から管理者の方にご連絡いただき、間近で拝観させていただいた。
これほど美しく、大きなご尊顔にここまで近づけるとは。大きさに圧倒されつつも、その穏やかな微笑みに私の頬が緩んだ。
日本橋人形町・大観音寺にも鎌倉の鉄造仏頭があることを思い出した。どちらも美しいが、いすみの方が親しみ深く感じるのはなぜだろう。
鍵を開けて迎えてくださった管理者の方に心からのお礼を申し上げた。


【拝観案内】
大日堂
千葉県いすみ市山田4047
いすみ市の文化財サイトには毎月第一日曜日にご開帳と書いてあるが、最近は行われていない。いすみ市文化財課から管理者の方にご連絡いただき、ご都合がよろしければ拝観させていただける。

【千葉】長福寺(いすみ市)薬師如来坐像~近くの釈迦谷の遺宝~

硯山長福寺(千葉県いすみ市

 天台宗の南総地区の仏像調査がとんでもなく本格的である。調査結果が『南総天台の仏像・仏画』という冊子にまとめられており、私の知る限り、それは第7部まで刊行されている。その第1部に登場するのがいすみ市の長福寺である。念願かなって、拝観のお許しをいただき、寺庭様にご案内いただくことができた。

長福寺本堂の脇の壇上にまつられる薬師如来坐像不動明王像、毘沙門天

硯山長福寺の来歴

大同2 年(807)、伝教大師最澄が自ら建立されたと伝わる。末寺に伝来した平安時代薬師如来像などが残るが、度重なる罹災により古代・中世の詳しい寺歴は不明。硯山の山号は、石橋山の戦いの後房総に逃れた源頼朝に差し出した硯が優れていたため、頼朝から賜った伝わる。

ご本尊阿弥陀三尊

 まずはご本尊様を拝んでいただきたい。室町頃の作だというが、なんという優美さだろう。台座の下に組み込まれた、波の伊八の彫刻も見事である。下の波が師匠のもので、上のうねうねした波が伊八のものだという。近くの行元寺にある「波に宝珠」が葛飾北斎の神奈川沖浪裏のモデルとされて有名だが、長福寺のこの波は師弟共作であることから、もっと若い頃の作品だという。本堂の内陣と外陣を区切る欄間にも伊八の作品が残る。

長福寺ご本尊阿弥陀三尊

薬師如来坐像

薬師如来坐像 平安後期 103.1cm 県指定

薬師如来坐像

とにかく感動した! 『南総天台の仏像・仏画 I』を拝読し、長福寺様に拝観をお願いしたのがこちらの薬師如来像である。
 みほとけとしての気品にあふれつつ、大らかな温かみに満ちたお姿が印象的である。檜の一木造りで、粗い内刳りがある。平安後期にしては古様な造りであるのは、この地方の作の特徴でもあるという。同時期の中央作と比べると素朴で、温かみのあるお姿が愛おしくてならない。坐像で100cm。その数字以上に大きな存在感があった。
 脚部の同心円状の衣文に少し違和感を覚えたのだが、建長2年(1250)に修理された旨の墨書が脚部に残ることから、その際に補修された可能性が高いとの説明(※)を読み、なるほどと納得した。脚部は本体より少し後の時代のものなのだ。
 この薬師如来像は、長福寺の裏の山中にある釈迦谷寺から遷座されたことがわかっている。釈迦谷寺は長福寺の隠居寺だったが、明治に入って廃寺に。釈迦谷寺の跡には、等身大の磨崖仏が今も残る。

不動明王立像と毘沙門天立像

不動明王立像 102.3cm 市指定
毘沙門天立像 101.4cm 市指定
いずれも平安後期

不動明王立像と毘沙門天立像については、由来が不明。しかし、推定制作時期や像高のバランスから、薬師如来と一具だった可能性も否定できないとのこと(※)。

毘沙門天
不動明王

金剛力士

 薬師如来像と同じく、釈迦谷寺から移されたお像だという。平安中期から後期に遡る可能性もあるとのこと。体部が薄いのが特徴。仁王さんの身体をさすると、自分の身体の痛みが消えると言われているそう。柵が一本はずされていて、そこから手を入れて、仁王さんの御足をすりすりさせていただいた。

磨崖仏

ここまで学んでしまうと、どうしても釈迦谷の磨崖仏を拝みたくなる。雨上がりで途中の道はぬかるんでいたが、なんとかたどり着くことができた。新しいお花がお供えされたばかりで、信仰が今も続いてることを実感した。文化財指定は釈迦如来だが、南総天台宗の調査報告書には薬師如来ではないかとあった。磨崖仏のそばに十二神将と思われる像もまつられている。

釈迦谷の磨崖仏
この美しさ!

長福寺には上記以外にも仏像があり、ここに書ききれていない。あえて写真を載せていないお像もある。仏像愛好家の皆様には、近くの釈迦谷の摩崖仏も含め、実際に拝観をお勧めしたい。なぜ私がすべてを書ききれずにいるのか、お分かりいただけるのではないかと思う。

最後に、予約のお電話から当日の拝観まで、住職様や奥様に大変お世話になった。心から感謝を申し上げたい。ありがとうございました。

※参考文献 『南総天台の仏像・仏画 I』

【拝観案内】

天台宗 硯山長福寺
〒298-0017 千葉県いすみ市下布施757
拝観は要予約

【神奈川】寅年ご開帳で半信半疑で出かけたら、本当に平安仏で驚きました(秦野市・天徳寺 薬師如来立像)

【相模二十一薬師2022年寅年ご開帳】
第16番 天徳寺(神奈川県秦野市文京町)

事前に写真が見つからないまま出かけたら、見事な平安仏がおられて仰天!

※2022年4月10日の参拝記録です

 天徳寺秘仏薬師如来様の寅年開帳を参拝。
 事前情報が不充分だった(写真が見つけられず、文化財未指定のようだった)ので、本当に平安仏なのか半信半疑で出かけたのだが、お寺に到着するなり驚いた! 見事な平安後期の御像だった!!
 身体に厚みはなく、衣文は薄く穏やか。お腹はぽっくり。肩の力を抜いてゆったりと立つ。螺髪は粗雑だが、お椀をひっくり返したような高い肉髻には気品がある。後の時代の手直しはあるようだが、これは紛れもなく定朝様では?? 
 住職のお話によると、もともと近くの薬師堂にまつられていたが、関東大震災でお堂が被災。それ以降は天徳寺に秘仏として安置されているのだという。
 定朝様の立像にとても惹かれる。心の奥からたくさんの♡♡♡を飛ばしてしまった私をどうかお許しください

※相模二十一薬師は寅年にご開帳。前回2022年のご開帳は4/8~4/12に実施

穏やかな全身を間近で拝めたことがありがたくて、ありがたくて...
この台座も当初のものか?

【参拝案内】
天徳寺
開創は薬師如来立像の造立よりだいぶ時代が下り、文禄2年(1593)。薬師如来立像の像高は98cm
神奈川県秦野市文京町6-22(地図

※参拝当時のTwitterはこんな感じ(↓)

【茨城】平安末の阿弥陀如来像は"義侠"により修復され、令和の今も神々しく優しくひっそりと立たれる(水戸市吉沼町)

吉沼観音堂茨城県水戸市
阿弥陀如来立像
像高97.5cm 12世紀 市指定


阿弥陀如来立像は水戸市吉沼の小さなお堂の客仏

うれしい出会い

平安末期の如来立像が好きだ。丸顔で、全身の力を抜き、穏やかに立つ御姿に惹かれる。しかし、作例はさほど多くないように感じる。関東であれば、行元寺の阿弥陀如来立像(千葉県いすみ市)、天徳寺の薬師如来立像(神奈川県秦野市)、医王寺の薬師如来立像(神奈川県横浜市)ぐらいしか思いつかない。鎌倉時代に入ると三尺の阿弥陀立像が増えてくるが、その直前の時代の雰囲気をもった立像にはなかなかお目にかかれない。

 そんななか(どんななか?)、オフ会で出かけた茨城県で、同時代の雰囲気をもつ稀有な如来立像に出会ってしまった!

 場所は水戸市吉沼町にある小さな観音堂。お堂の中央には、平成に入って再興された本尊千手観音立像を安置。

 阿弥陀如来立像は、その観音像の斜め後ろ、シンプルなケースの中に、ひっそりとまつられていた。ひっそりとと言うか、隠れるようにと言っがほうがよいかもしれない。まったく目立っていない。"シンプルなケース"と書いたものは、本当は厨子と呼ぶべきなのかもしれないが、あまりに素朴な造りだったので、そのような表現となってしまった。しかも、そのケースは正面がガラス張りになっているため、堂内の照明の反射がきつく、ぱっと見る限りでは尊像の全容が見えにくい。しかし、目を凝らしてみると、まさに私が魅了される穏やかな如来立像の御姿が浮かび上がってきた!!

肩の力を抜いた穏やかな立ち姿

神々しくて、でも、親しみやすい、そんな優しさに満ちて

 水戸市文化財サイトによると、像高97.5㎝で、彫眼、漆箔。丸顔で穏やかな面相、粒の細かい螺髪、浅くおとなしい衣文などから、平安時代末期、12世紀末の制作と考えられる。檜材の頭部と体部を前後二材矧ぎつけ、割首とする。水戸市指定文化財

 お身体前面のひび割れなど痛々しい点もあるが、適切な保存修理を施せば、見違えるようになるだろう。造立当時の御姿を想像し、胸を熱くした。神々しさに親しみやすさを掛け合わせたような、そんな優しさに満ちていたのではないだろうか!

明治の暴風被害から”義侠”により修復

 優しい微笑みをたたえるこの阿弥陀如来像は、実は大変なご苦労をされている。もともと近くの吉沼阿弥陀院にまつられていたのだが、明治35年(1902)8月、暴風によりお堂が倒壊。阿弥陀像も大破してしまったのだ。

 なすすべもなく月日は過ぎ、人々に焦りが募るなか、水戸出身の彫刻家の後藤清一(1893-1984年)が「義侠的に」修復を申し出る。「阿弥陀尊の霊を慰めよう」と。一年かけて修復は完了。「破損個所は悉く補修」された。

 しかし、阿弥陀院の堂宇の復興は叶わず、大正15年(1926)8月15日(旧暦7月10日縁日)、一時的に観音堂に奉安することになったのだという。後藤清一、この時33歳。

 堂内に大正15年の文書『弥陀像修理奉安記』(以下に写真あり)が額装で掲げられており、上記の事情が記されていた。原文を改めて読み直すと、特に胸を打つのが次の一節である。「特志彫刻家後藤清一君之ヲ慨シ霊像ノ為メニ義侠的ニ之ヲ修理シ阿弥陀尊ノ霊ヲ慰セント請ハル」。破損した阿弥陀如来像を目にした若き彫刻家のいてもたってもいられない気持ちが伝わってくる。そして、後藤の申し出を「義侠的」と称するところに時代が垣間見え、興味深い。今時使わない言葉なので、辞書を引いてみる」と、「義侠=正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助けること。おとこだて。 [類語]男気・侠気・任侠・一本気・きっぷ」(デジタル大辞泉)とあった。「おとこだて」とか「男気」とか、ジェンダーフリーの現代では使わない言葉がオンパレードで出てきて、頭がふらふらする(笑)。が、ともあれ、後藤に対する尊敬と感謝は大きく伝わる。この場合の”義侠”を今の言葉に翻訳をすると、「修理できずに困っている尊像を心ある彫刻家が慈しみの心で修理してくださるなんて! かっこいいです、後藤くん! 心から感謝です!!」という感じになるのだろうか。修理費用について言及はないが、文面から拝察する限り、ほぼほぼボランティアだったのではないだろうか。この文書自体が、ことの経緯を記しつつ、後藤への感謝状となっている点に注目したい。

 また、文中の「阿弥彌院ノ堂宇ハ之ヲ復スルヲ得ズ・・・一時観音堂ニ奉安」という言葉が私の胸を締め付ける。阿弥陀院のお堂は令和の今も復興されておらず、阿弥陀如来像は今も、こんな風に観音堂に安置されたままだからだ。

 しかし、そんな逆境のなかであっても、この阿弥陀如来像は令和の今まで伝えられてきた。その事実が私の胸を熱くする。ひっそりと立ち続ける阿弥陀様に静かに手を合わせたい。阿弥陀様のお像をこれまで伝えてこられた人々の行動と祈りに、心からの敬意を捧げたい。

堂内に掲げられた阿弥陀像修復の経緯が泣ける

【拝観案内】
吉沼観音堂
中世、この地には、水戸十寺の一つ、光明院観音院があったが、水戸光圀公の時代に廃寺に。その跡地に川崎(※水戸市内の古い地名だろうか)から観音寺が移されるも、幕末に火災で焼失し、仮堂のまま現在に至る。現在は無住で、地域の方々が管理されている。現本尊は千手観音菩薩立像で、平成に入って開眼。本稿記載の阿弥陀如来立像は客仏で、近くの阿弥陀院から大正15年に遷座した。(無住のお堂なので、住所等の連絡先はあえて省略)

【参考文献】
水戸市文化財サイト 木造阿弥陀如来立像(吉沼観音堂)
水戸商工会議所「吉沼観音寺跡
・『開館三十周年記念特別展I 茨城の仏教遺宝ーみほとけの情景とまなざしー』編集・発行 茨城県立歴史館 2004年10月
(※ちなみに、この本の序文「茨城仏像彫刻の流れ」を書かれた後藤道雄氏は、"義侠"をもって阿弥陀像を修復された後藤清一氏のご子息)
【参照】
本稿冒頭で言及した平安後期の如来立像については、(もしとんでもなくお暇でしたら)以下の拙文をご参照ください。
・行元寺阿弥陀如来立像(千葉県いすみ市
butsuzodiary.hateblo.jp

・天徳寺薬師如来立像(神奈川県秦野市
butsuzodiary.hateblo.jp

・旧医王寺薬師如来立像(神奈川県横浜市青葉区
※写真は『特別展 横浜の仏像ーしられざるみほとけたちー』横浜市立歴史博物館2021年より。
※医王寺薬師堂は12年に一度、寅年にご開帳される武相寅歳薬師如来霊場の第15番。前回のご開帳は2022/4/9/5/8で、お像のすぐそばで拝観できた

横浜市青葉区恩田にまつられる薬師如来立像。写真ではわかりにくいが、側面から見ると体躯が薄かったように思う