スタンリー・キューブリックの「作られなかった幻の映画」をめぐって 後編:『アーリアン・ペーパーズ』と『A.I.』
6.『アーリアン・ペーパーズ』
前編で見てきたように、キューブリックはキャリアの初期から戦争という主題を取り上げてきた。その興味は、まず第二次世界大戦と南北戦争に向けられ、ナチス政権下のドイツへと移り、最終的にホロコーストへ焦点を合わせる。
1993年3月に「ヴァラエティ」が『アーリアン・ペーパーズ』についての第一報を伝えた。この時点で公式のリリースはなく、匿名の情報筋によるソースとして、ナチス時代を舞台に少年と若い女性のロードムービーとなること、『ジュラシック・パーク』のジョセフ・マゼロが主役となること、相手役としてジュリア・ロバーツやユマ・サーマンが候補となっていること、ポーランド、ハンガリー、スロバキアでロケハンを行っていることなどが記されている。その後しばらくして、原作がルイス・ベグリィのデビュー作となる小説『五十年間の嘘』(早川書房)であることが明らかになる。
『五十年間の嘘』は、主人公マチェクが少年時代を回想するという枠組みを持っている。ユダヤ人であるマチェクはポーランドの裕福な家庭で暮らしていたが、ドイツ軍の侵攻により平穏は破られる。マチェクの父はソ連に逃れ、マチェクは叔母のターニャと共にとある一家の元に身を寄せる。ターニャは元ドイツ軍人のラインハルトを誘惑し、安全を確保するために彼を利用する。そしてアーリア人身分証明書(アーリアン・ペーパー)を手に入れたターニャとマチェクはラインハルトとともに偽名を用いて潜伏生活を送る。マチェクはターニャからクリスチャンとして振る舞うよう指導を受けるが罪悪感を覚える。密告により正体が露見したラインハルトは自死し、マチェクたちは新たな身分証明書を手に入れワルシャワのゲットーに潜む。パルチザンの抵抗活動によりワルシャワは廃墟と化すがドイツ軍に鎮圧される。マチェクたちはウクライナ兵に追い立てられアウシュビッツ行きの列車に乗せられそうになるが、ターニャの鉄道係相手の大芝居によって別の軍用列車へと逃れる。追跡をかわして田舎の村に流れ着いたターニャたちは密造酒の製造で生計を立てる。やがて戦争は終わるがユダヤ人の迫害は続き、マチェクとターニャは戦後も偽名で暮らしつづけた。マチェクはソ連の収容所から開放された父と再会するが、ターニャとの逃亡生活は現在でも彼の心に深い傷を残す。
キューブリックがこの小説に惹かれたのは、秘密を共有する女性と少年という設定に、過去の企画『燃える秘密』と似たものを感じ取ったからかもしれない。しかし、アーカイヴに保存されている脚本の草稿を調査した研究者のジョイ・マクエンティによれば、『アーリアン・ペーパーズ』の脚本は作業が進むにつれて『五十年間の嘘』の筋書きから離れていったという。小説はマチェクの視点で統一され、彼らがさまざまな嘘を重ねていく姿が描かれる。一方、キューブリックの脚本ではターニャが物語の中心となり、マチェクがその場にいない場面が多く追加されている。小説では彼らの嘘は羞恥と悔恨とともに回想されるが、脚本では不条理な死を逃れるための手段としてより肯定的に描かれる。マクエンティはタイトルが『五十年間の嘘(原題は「Wartime Lies(戦時下の嘘)」)から『アーリアン・ペーパーズ』に変更されたのは「嘘」が主題でなくなったからだと推測している。キューブリックの描くターニャはより冷徹になり、甥と生き延びるため主体的に行動する。マクエンティは、キューブリックが試みていたのは、フィクションとしてのホロコーストにおいてユダヤ人は受け身の被害者であるという常識を打ち破ろうとしたのではないかと指摘する。いくつかの草稿では、ターニャがドイツへの内通者をナイフや銃で殺害する場面が加わっており、キューブリックはシガニー・ウィーバーをターニャ役に起用することも検討していた。終盤には、ターニャがパルチザンに参加する展開も考えられていた。ある草稿の最後は次のように締められる。「彼らの苦難は、1948年、新たなイスラエルの地にたどり着くことで、ついに終わりをむかえた。そして、彼らは人生をやり直す自由を得たのである。The End」
アーカイヴに保管されたメモには、ターニャ役として、レベッカ・デモーネイ、アンディ・マクダウェル、エレン・バーキン、ウィノナ・ライダー、キム・ベイシンガー、ニコール・キッドマン、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、ミシェル・ファイファー、ケイト・キャプショー、イザベラ・ロッセリーニ、ジュリエット・ビノシュ、イザベル・ユペールらの名前が挙げられている。キューブリックであれば十分現実的な顔ぶれに見えるが、最終的に選ばれたのは、無名のオランダ人女優ヨハンナ・テア・ステーゲだった。キューブリックは彼女が主演した『ザ・バニシング-消失-』を高く評価していた。興行的成功が望めるスターたちを避けたのは作品のリアリティのためだろうか。
デンマークをロケ地に定め、1994年2月の撮影開始をめざして順調に準備が進められていたかに見えた『アーリアン・ペーパーズ』だったが、突然中止となる。ワーナーは1993年12月にキューブリックの次回作は『A.I.』になると発表した。4月に製作を発表してから1年も経っていなかった。
『アーリアン・ペーパーズ』が幻に終わったのは、スピルバーグの『シンドラーのリスト』と時期が被ったためとよく説明されている。前作『フルメタル・ジャケット』は同じヴェトナム戦争物であるオリヴァー・ストーン監督『プラトーン』と同時期の公開となったため、批評家や観客から比較の対象となり、しばしば『プラトーン』の方が新鮮で優れていると絶賛された。キューブリックがこうした事態の再現を避けたのではないかと指摘されてきたのだが、『アーリアン・ペーパーズ』が正式に発表されたのは1993年4月で、『シンドラーのリスト』はすでに3月にクランクインしていた。単に競合を避けるだけであれば、もっと早く決断できたはずである。
真相はもっと本質的なものだったようだ。ワーナーの共同代表だったテリー・セメルは、キューブリックが『アーリアン・ペーパーズ』を断念した様子について、2012年にトム・クルーズとの対談で以下のように語っている。「彼は数年間にわたって、ホロコーストについての映画をどう作ろうかと考えていた。そしてある日、彼のキッチンでちょっと話したときに、私は「スピルバーグの『シンドラーのリスト』を知っているかい?」と言った。すると彼はその映画にあまり関心のない素振りをした。話をしているうちにスタンリーは「僕はやりたくない。彼はずっと先を行っている。スティーヴンの映画がもうすぐ上映される」それで彼は切り替えたんだ。それまで進めていた別の脚本や、興味をもった別の作品に目を向けるようになったんだ」
『シンドラーのリスト』は1993年11月に公開され、『アーリアン・ペーパーズ』の中止が発表されたのは12月だった。キューブリックは実際に映画を観た上で中止を決めたと思われる。妻のクリスティアーヌによれば夫はホロコーストという陰鬱な主題をついに扱いきれなかったという。プレッシャーに悩まされ、脚本の改定作業をつづけていたキューブリックにとって『シンドラーのリスト』の登場は最後の一撃となったのだろうか。ワーナーは『A.I.』の完成後に『アーリアン・ペーパーズ』が再開する可能性を否定しなかったが、キューブリックがこの企画に戻ることはなかった。
こうして『アーリアン・ペーパーズ』は頓挫したが、キューブリックはまだホロコースト自体を描くことをあきらめてはいなかったようだ。ジャーナリストのジョン・ロンソンによると、彼が出演したBBCラジオのドキュメンタリー『Hotel Auschwitz』のテープを送るよう1996年に依頼されたという。それはアウシュビッツを観光産業としているポーランドの現状をシニカルに描く内容だった。
7.『スーパートイズ』から『A.I.』へ
SF映画『A.I. Artificial Intelligence』の発端は、1976年、キューブリックがSF作家のブライン・オールディスと出会った頃にさかのぼる。彼の著書『十億年の宴―SF‐その起源と歴史』(東京創元社)でキューブリック作品を高く評価したのがきっかけだった。新しいSF映画の可能性について語り合い、『スター・ウォーズ』が公開されると「ひどくバカげた話がどうして芸術形態になりうるのか」について議論した。『シャイニング』の製作をはさんで、1982年にキューブリックがオールディスの短編『スーパートイズ/いつまでも続く夏』の権利を取得しプロジェクトがスタートする。
後に『A.I.』と改題される『スーパートイズ』の脚本開発は『2001年宇宙の旅』と類似していた。既成の短編小説を物語の冒頭に置き、小説家と共同でその続きのプロットを作るというものである。「前編」で見てきたように、キューブリックはキャリアの前半において、さまざまな小説家と組んでオリジナルのストーリーを生み出そうとしたが、そのほどんどが実現せずに終わっている。「良いストーリーは一種の奇跡だ」と述べるキューブリックは、『2001年宇宙の旅』以降は既存の小説を脚色するという伝統的な方法に落ち着いてくが、『A.I.』では再びストーリーそのものを生み出そうと試みた。オールディスによると「社会的な良心の持ち主という自分の評判を維持しながら、その一方で『スター・ウォーズ』ほどの収益をあげられる映画をつくるには、どんなものにしたらいいか、と直接わたしにたずねたこともあった」
キューブリックはオールディスのと最初の打ち合わせで、すでに『スーパートイズ』を『ピノキオ』になぞらえた物語にするつもりだった。デヴィッドという少年ロボットが人間の義母モニカの愛を得ようとする姿を『E.T.』のような平明なスタイルで描くことを望んでおり、キューブリックにとっては初めてのファミリー向け映画となるはずだった。1983年に書き上げられた準備稿は、デヴィッドがロシアのスパイ組織に拉致され人工衛星から脱走するといったアクション映画のような展開となり、結末は、ロボット博物館に母親の代理ロボットともに収容され家庭のジオラマの中で暮らすというものだった。キューブリックはさらにプロットを練り上げるために、オールディスのロボットを主題とした別の短編「世界も涙」「Blighted Profile(損なわれたプロフィール)」2作の権利も獲得し『スーパートイズ』の脚本に組み込もうとした。
一方でキューブリックは1984年に『E.T.』の監督であるスティーヴン・スピルバーグに初めて『スーパートイズ』の企画を持ちかけている。キューブリックは自分はプロデュースにまわって、スピルバーグに監督を任せることも視野に入れていた。
『フルメタル・ジャケット』の製作をはさんで1988年に『スーパートイズ』の企画が再開したとき、キューブリックはロボット研究者ハンス・モラベックの科学ノンフィクション『Mind Children: The Future of Robot and Human Intelligence』の影響を受け、より科学的にリアルな方向性を目指していた。一方で童話的なアプローチもあきらめてはおらず、スピルバーグから、子供を描くのが得意な脚本家として『ビッグ』のアン・マーシャルを推薦されたが、マーシャルには断わられている。キューブリックは再びブライアン・オールディスに声をかけたが多忙を理由に拒否される。キューブリックはアーサー・C・クラークに意見を求めFAXのやり取りをしたが、それ以上の進展はなかった。オールディスによるとクラークは「彼には私を雇うほどの金はない」と言ったという。1989年にキューブリックは、クラークから推薦されたSF作家ボブ・ショウを起用する。しかし二人の関係はうまく行かず、最初に結んだ6週間の契約は更新されなかった。ショウによると、キューブリックから「執事ロボット」について書くよう指示されたが草稿を持参すると、これは脇役だ、他にはないのかと突き返されたという。「僕はストーリーが用意されなければ脚本なんて書けないし、彼は僕のことを役立たずの虫けら扱いするようになったと思う」とボブ・ショウは回想している。
1990年にようやく戻ってきたオールディスは新たなアイディアを加える。原作は産児制限された世界が舞台で、モニカに妊娠する権利が与えられデヴィッドが用済みとなることを示唆して終わるが、脚本では、モニカには実の息子がいるという設定となった。息子と喧嘩したデヴィッドは捨てられ、そこでG.I.ジョーと名乗るロボットと出会い、主人のいないロボットたちが暮らす「ブリキの町」へと連れて行かれる。キューブリックはブリキの町をホロコーストに見立てるアイディアを気に入ったが結局没にしてしまう。
脚本作業は膠着状態に陥り、キューブリックはロンドンの書店にアイディアの豊富なSF作家は誰か問い合わせている。そしてイアン・ワトソンが新たな脚本家に指名された。キューブリックはオールディスとの草稿は一切見せずに『スーパートイズ/いつまでも続く夏』と『ピノキオ』『Mind Children』だけを手渡し、ワトソンにこれらを材料にしてできるだけ多くのアイディアを出すよう要求した。ワトソンは3週間後に準備稿を提出し『Foxtrot』という仮題がつけられた。そこには、ヴァーチャル・リアリティ、タイムトラベル、宇宙探査、身体改造、パフォーマンスアート、伝染病、機械によるセックス、原発事故、リアリティ番組など、さまざまな要素が盛り込まれ、聖書、中国やエジプトの伝承、アーサー王伝説、シェイクスピアなどの物語原型が参照され、人間と人造物の共存をめぐる哲学的な問題が提示されていたという。
キューブリックはワトソンの準備稿を採用しなかった。最終的な脚本に残されたのは男娼ロボットや、エピローグが2000年後の未来になるなど、わずかな点に限られている。アーカイヴで『Foxtrot』を調べた研究者のフィリッポ・アルヴィエリは、キューブリックは『A.I.』をファミリー映画にするために難解なアイディアを避けたのではないかと推測している。ただし、ワトソンによれば、キューブリックは男娼ロボットについて「子供向けの市場を失うかもしれないが、やってしまおう」と気に入っていたという。(スピルバーグ監督版ではジュード・ロウが演じている)
キューブリックは1992年にクラークにワトソンの準備稿について意見を求めた。クラークは科学的整合性を検証しプロットの修正案を送ったが、キューブリックからの返答はなかったという。ワトソンはさらに約8ヶ月間にわたり脚本作業を進め、遠未来に地球を訪れた異星人が海の底からデヴィッドを回収し、母親に会いたいという彼の願いに応えて、絶滅した人類を再生するという結末を用意した。キューブリックはこのアイディアを「世界で最も偉大なストーリーの一つだ」と絶賛したが、ワトソンとの共同作業はここで打ち切られ、改めてクラークに脚本が依頼された。しかし 『Child of the Sun (太陽の子) 』 と題された数ページの概要は、オールディスの『スーパートイズ』の要素だけを残してワトソンの仕事は無視しており、結末はロボットが人類を捨てて外宇宙に旅立つという内容だった。キューブリックはこの概要を即却下し、クラークに「君は赤ん坊を風呂の水と一緒に捨てただけでなく、浴槽、浴室、そして家そのものまで捨ててしまったらしい」と感想を述べたという。結局、キューブリックは約2年をかけて膨大な草稿をつなぎ合わせて、一人で脚本を書き上げる。
1993年に『Mind Children』の著者ハンス・モラベックは、キューブリックの助手アンソニー・フリューインから、執筆中だった続編『シェーキーの子どもたち―人間の知性を超えるロボット誕生はあるのか』(翔泳社)についての問い合わせを受け、完成していた章を送った。映画の内容については何も聞かされなかった。
1993年12月にワーナーは『A.I. Artificial Intelligence』のタイトルで正式にプロジェクトを公表した。キューブリックはジョージ・ルーカスのILMやジェームズ・キャメロンのデジタル・ドメインとCG技術の可能性について話し合い、ILMのデニス・ミューレンは温暖化で水没したニューヨークのテスト映像を制作した。また、新人のクリス・ベイカーをデザイナーとして起用し大量のイメージボードを描かせている。さらにビデオアーティストのクリス・カニンガム(ロボットを描いたビョークのMV『オール・イズ・フル・オブ・ラブ』で知られる)に、主人公ロボットの製作を託した。スピルバーグ版では子役が演じたデヴィッドを、キューブリックは以前から本物の機械で表現しようと考えていた。一方でジョセフ・マゼロを起用してテスト撮影もおこなっている。
製作が本格的に始まってからも脚本の手直しは続けられた。1994年には、新たに幻想小説作家のサラ・メイトランドが起用された。スピルバーグが彼女の本を読んでいたのがきっかけだった。メイトランドにはそれまでのSF作家たちとは異なり、女性の立場から義母モニカのキャラクターを作り直し、「巨大で、扱いづらく、まとまりに欠けていた」脚本に神話のような一貫性をもたせる事が求められた。メイトランドはモニカをアルコール依存症にするなどの手直しをおこなったが、キューブリックは批判的だったという。特に論争となったのはラストシーンである。人類の滅んだ遠未来、地球を訪れた宇宙人がデヴィッドを回収する。彼の記憶を元に昔の家庭がヴァーチャルに再現される。デヴィッドは復活したモニカと再会を果たすが、技術的限界から義母はデヴィッドの前で消えていく。キューブリックはこの視覚的な演出にこだわり、メイトランドは「失敗するクエストがあっても良いが、達成したのに報酬が得られないクエストはあり得ない」とハッピーエンドを主張した。その後キューブリックはメイトランドに『夢奇譚』を渡した。彼女が感心できないと感想を述べると、そこで契約は打ち切られた。後日、小切手が送られ、パソコンから『A.I.』に関する全てのデータを消去するよう命じられたという。実はこの時点でキューブリックは『アイズ・ワイド・シャット』と名付けられる『夢奇譚』の脚本作業をフレデリック・ラファエルと進めていたのだが、メイトランドは全く知らされていなかった。
メイトランドの改稿作業と並行して、キューブリックはスティーヴン・スピルバーグとも連絡を取り合っていた。キューブリックはメイトランドによる改訂稿は渡さず、自分が数年前に書いた脚本をもとにやり取りをしていた。スピルバーグは『A.I.』を監督してほしいというキューブリックからの申し出を一旦は受け入れたが、連日キューブリックからFAXで詳細な指示が送られてくるのに音を上げ、これはあなたがやるべき映画だと断っている。
1995年12月にワーナーは、キューブリックの次回作は『アイズ・ワイド・シャット』になると発表した。
研究者のサイモン・オディノは、『2001年宇宙の旅』においてキューブリックとクラークの共同作業が上手くいったのは、二人が「地球外生命体との遭遇は人類をどう変容させるか」という作品の核心を共有していたことが大きいと指摘しているが、その点で言えば、『A.I.』において脚本作業に駆り出された作家たちは「ロボットを主人公にしたピノキオの物語」というキューブリックの主題に共鳴していなかった。キューブリックの方もイアン・ワトソンへの対応が典型的なように作家たちを単なるアイディア製造機として扱っていたきらいがある。作家たちは守秘義務を課せられ、互いの存在を教えられず、他人の書いたテキストを読むこともできなかった。「私は、彼と一緒にこの物語を書こうと努めていた他の人たちに会って、私たちがどんな映画を目指していたのか話し合ってみたいと思う。私たちが集まるというアイディアは彼をぞっとさせる事だろうが」とサラ・メイトランドはキューブリックの追悼文で書いている。
『A.I.』の終わりのない作業に消耗したのか、キューブリックは続く『アーリアン・ペーパーズ』の脚本を一人で執筆しているが、これも企画が中断した時点で脚本は完成していなかった。遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』においても、アントニー・バージェス、テリー・サザーン、ダイアン・ジョンソン、ジョン・ル・カレ、マイケル・ハー、サラ・メイトランドなど多くの小説家に協力を求めたが、彼らの多くはシュニッツラーの原作を古臭くて退屈だと見なしており、キューブリックがなぜ固執するのか理解できなかったと回想している。結局『アイズ・ワイド・シャット』の脚本は、脚本家として長いキャリアを持つフレデリック・ラファエルの力を借りることでようやく完成した。
キューブリックの死後、ブライアン・オールディスは独自に『スーパートイズ/いつまでもつづく夏』の続編として『冬きたりなば』『季節がめぐりて』と2本の短編を描き下ろした。義母のモニカは死に、夫のヘンリーはデヴィッドを工場に連れていき、自分が大量生産される工業品だと自覚させるという内容で、後のスピルバーグ版にも一部アイディアが生かされている。オールディスはキューブリックとの共同作業では完成できなかったデヴィッドの物語をひとりで閉じたのである。スピルバーグによって完成した『A.I.』には、キューブリック、オールディス、ワトソンの名前がクレジットされている。
8.死後
キューブリックの死後、幻の企画を実現させようという動きがいくつも見られた。現時点で、実際に完成したのはスティーヴン・スピルバーグ監督による『A.I.』のみである。以下、簡潔に列挙する。
・2010年、『The Lunatic at Large』がスカーレット・ヨハンソン&サム・ロックウェル主演で映画化されると報じられた。
・2014年に、『God Fearing Man』がマイケル・C・ホールの製作・主演でミニドラマシリーズ化されると報じられる。
・2015年、『The Downslope』がマーク・フォスター監督により三部作で映画化すると報じられる。
・2020年にテリー・ギリアムはキューブリックの原案にもとづく映画を準備していたが、新型コロナウイルスによるロックダウンによって中断したとインタビューで発言。具体的な内容は不明で、その後も再開されなかった。
・2023年、スティーヴン・スピルバーグは、『ナポレオン』ドラマシリーズ化について、ベルリン国際映画祭の記者会見で言及した。2013年から取り組んでいる企画で、2016年にはキャリー・フクナガ監督の起用が発表されていた。全7話の予定でHBOとアンブリンが製作する。
9.追補
キューブリックに監督の依頼があったが関心を持たなかった作品も多い。ジェームズ・B・ハリスによれば、ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバコ』(時事通信社)やウラジミール・ナボコフの『青白い炎』(岩波文庫)は噂にのぼっただけだという。ほかにも、ジム・トンプソンの『ゲッタウェイ』(角川文庫) 、アースキン・コールドウェルの『The Sure Hand of God』、ゴア・ヴィダルの『マイラ』(早川書房)、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』(創元推理文庫) といった小説や、テリー・サザーンの脚本『A Piece of Bloody Cake』、舞台『スウィーニー・トッド』 が取り沙汰されているが、キューブリックが前向きだったわけではない。
ビートルズが『ヘルプ!4人はアイドル』の次回作として、J・R・R・トールキン『指輪物語』(評論社)の映画化を構想した際、キューブリックを監督に望んでいた。しかしキューブリックは彼らが映画化権を取得しておらず、トールキンがこの企画に反対していたことから断っている。
プロデューサーのジュリア・フィリップスは、1989年にゲフィン・ピクチャーズにアン・ライスの 『夜明けのヴァンパイア』(早川書房)の映画化企画を持ち込み「吸血鬼映画における『2001年宇宙の旅』になる」と売り込んだ。社長のデヴィッド・ゲフィンはキューブリックに原稿を送ったが断られ、ニール・ジョーダン監督により『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』として実現させる。
パトリック・ジュースキントの『香水 ある人殺しの物語』(文藝春秋)の映画化をキューブリックが企画していたという話は翻訳書の訳者あとがきでも紹介されているが、関係者によれば、作者のキューブリックとミロシュ・フォアマン以外に権利は売りたくないという発言が誤って伝わったものだという。 ヒューバート・セルビー・ジュニアの『ブルックリン最終出口』(河出文庫)も同様だった。
キューブリックはウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』(文春文庫)の映画化を申し出たが、デビュー作『薔薇の名前』の映画化の出来に失望していたエーコは自作の映画はすべて断っていた。キューブリックの死後、エーコはこの判断を後悔していると語った。
テリー・サザーンは、キューブリックをモデルにした監督が大作芸術映画としてハードコアポルノ映画を作るという風刺コメディ『ブルー・ムーヴィー』(早川書房)を発表した。サザーンによればキューブリックはこの小説を気に入っていたが、映画化に関心は示さなかった。(妻クリスティアーヌに反対されたという説もある)
イアン・ワトソンは『A.I.』の脚本作業中に、ミニチュアゲーム『ウォーハンマー40000』のノベライゼーション『Inquisitor』を執筆したが、その原稿を読んだキューブリックは「ひょっとしたら、これが私の次回作になるかもしれない」と話し、ゲーム会社から資料を取り寄せていた。
参考資料
「Waiting for a miracle: a survey of Stanley Kubrick’s unrealized projects」
https://www.academia.edu/35470651/Waiting_for_a_miracle_a_survey_of_Stanley_Kubrick_s_unrealized_projects
「Plumbing Stanley Kubrick」
http://www.ianwatson.info/plumbing-stanley-kubrick/
「Super-Toys Last All Summer Long」
http://www.visual-memory.co.uk/amk/doc/0068.html
「Unfolding the Aryan Papers」
https://artscouncilcollection.org.uk/artwork/unfolding-aryan-papers
「Archive Fever: Stanley Kubrick and “The Aryan Papers”」
https://www.newyorker.com/culture/richard-brody/archive-fever-stanley-kubrick-and-the-aryan-papers
「Stanley Kubrick: Producers and Production Companies」
https://core.ac.uk/download/pdf/228192714.pdf
「Stanley Kubrick's 'Napoleon': A Lot of Work, Very Little Actual Movie」
https://www.vice.com/en/article/nndadq/stanley-kubricks-napoleon-a-lot-of-work-very-little-actual-movie
「The Unfinished Films of Stanley Kubrick」
https://headstuff.org/entertainment/film/kubrick-unfinished-films/
「Unrealisable woman: Tania in Stanley Kubrick’s Aryan Papers」
http://www.sensesofcinema.com/2022/feature-articles/unrealisable-woman-tania-in-stanley-kubricks-aryan-papers/#fnref-45117-50
「Stanley Kubrick By Terry Semel and Tom Cruise」
https://www.interviewmagazine.com/film/stanley-kubrick
「My Year with Stanley」
http://www.visual-memory.co.uk/amk/doc/0119.html
「Kubrick」
https://www.vanityfair.com/hollywood/2010/04/kubrick-199908
「Ridley Scott Won’t Let Age Or Pandemic Slow A Storytelling Appetite That Brought ‘House of Gucci’ & ‘The Last Duel;’ Napoleon & More ‘Gladiator’ Up Next」
https://deadline.com/2021/11/ridley-scott-house-of-gucci-lady-gaga-adam-driver-the-last-duel-oscar-season-1234872529/
「The Armani of literature」
https://www.theage.com.au/technology/the-armani-of-literature-20071215-ge6i9w.html
キューブリックの脚本を映画化する企画についての報道
https://www.theguardian.com/film/2010/apr/14/scarlett-johansson-lost-stanley-kubrick
https://www.hollywoodreporter.com/tv/tv-news/dexters-michael-c-hall-star-724771/
https://variety.com/2015/film/news/stanley-kubrick-downslope-marc-forster-1201525252/
https://www.indiewire.com/features/general/terry-gilliam-stanley-kubrick-movie-lockdown-1234576319/
https://deadline.com/2023/02/steven-spielberg-stanley-kubricks-napoleon-7-part-series-hbo-1235266372/
『スタンリー・キューブリック ムービーマスターズ』(キネマ旬報社)
『月刊イメージフォーラム 4月増刊号 キューブリック』(ダゲレオ出版)
『イメージフォーラム 新装刊第2号 キューブリックの大いなる遺産』(ダゲレオ出版)
『キューブリック全書』(フィルムアート社)
『決定版 2001年宇宙の旅』(早川書房)
『2001:キューブリック、クラーク』(早川書房)
『スーパートイズ』(竹書房)
『ナポレオン交響曲』(早川書房)
『ブルー・ムーヴィー』(早川書房)
『地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録』(早川書房)
『EYES WIDE OPEN―スタンリー・キューブリックと「アイズワイドシャット」』(徳間書店)
スタンリー・キューブリックの「作られなかった幻の映画」をめぐって 前編:犯罪と嫉妬と戦争、『ナポレオン』 - cinemania 映画の記録