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ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-12-20(Fri)

 2年前のこの日、ニェネントくんは子宮に出来た大きな腫瘍を摘出するために、電車に乗って行く大きな動物病院に1泊の入院をして、開腹手術をしたのだった。手術後に摘出した腫瘍の写真を見せてもらったが、「腫瘍」といっても癌のようなものではなく、まるで白子のような「大きな脂肪の塊」というもので、そいつが肥大して内臓を圧迫し、ニェネントくんはまったく食事を摂れなくなってしまっていたのだった。もちろん、放置していれば命にかかわっていたのだ。
 手術はお腹の毛を剃って、10センチぐらいも切ったのだった。縫合に9針縫った。そのときの手術あとがわかる写真が下。

     

 さいわいに術後の回復もとっても早かったし、先日の血液検査では「まったく健康です!」との診断だった。ニェネントくんは今も元気いっぱいの生活をおくっている。わたしも20年近く前に「十二指腸潰瘍穿孔」のためにお腹を20センチぐらい切ったことがある。ニェネントくんが手術したときにそのことを思い出し、「これでわたしと同じだね」と思ったものだった。
 この日は珍しくウチでニェネントくんの体重が測れたのだけれども、いま現在、4580グラムではある。「ベストコンディション」だと思う。

 それでわたしのことだけれども、のどの調子は今はけっこう良くなり、咳で苦しむこともなくなった。とはいっても病院へ行くべきだとは認識しているが、先日書いたように市民病院では呼吸科の医師に欠員が出来、通常の診察が行えない可能性が高いのだということ。
 「ではどうするべきか」と考えるのだが、これはさいしょに診てもらった西の駅の向こうにある耳鼻咽喉科のクリニックへまた行き、そこで近くの大学付属病院への紹介状を書いてもらうのがいちばんいいのではないか、とは考える。
 まあこの西の耳鼻咽喉科もどうしようもないというか、半年以上前に「ちょっとのどの調子が悪い。念のため病院へ行ってみるか」とそのクリニックへ行ったのだけれども、逆に通院するうちにのどの状態は悪化してしまい、数回通院してもまったく症状は改善されなかったのだ。ある意味、そのクリニックへ通ったことからすべてが始まっている。このあたりはそんな耳鼻咽喉科ばっかしなのか、とは思ったのだ。
 しかし「大学付属病院」か。治療費がかさむんじゃないだろうか。
 あとわたしは歯科医にも行くべきなのをずっと放置してあるし、これはいいかげんどこかの歯科医に通い始めるべきではある。ニェネントくんではなく、わたしの方は問題山積か(まあ「山積」といっても「2件」だけれども)。

 今日はまた、午前中に北のスーパーへ買い物に出かけた。ウチを出るとすぐ、またウチの前のところにスズメたちが集まっていた。わたしが近づくとやはり飛び立って行ってしまうけれども、警戒の鳴き声は発しないし、以前のように見えないところまで飛んで行って姿を隠すということもなく、わたしの近くの木の枝に飛び移っただけだった。
 ネットでスズメの生態を調べると「スズメは人間に対して警戒心が強く、人に近づくことはほとんどありません。人間が近づくと逃げ出す距離は5メートルといわれ、それ以上近寄ることは難しいです」な~んて書いてあるのだけれども、このときのスズメたちとわたしとの距離は2メートルぐらいしか離れていなかった。前にも思ったように、ひょっとしたらこの群れのスズメたちはわたしの顔を憶えてくれて、「コイツは危険じゃない」と認識してくれてるのか、とも思う。そうだったらうれしいが。

     

     

 この日はスーパーのとなりのドラッグストアで、「あさりコンソメのスパゲッティ・ソース」のレトルトパックが、賞味期限が近いということで半額になっていた。賞味期限はまだ1ヶ月先だし、レトルトだから多少期限を過ぎても無問題と、2パック買った。
 スパゲッティもお手軽で安上がりでいいよね、とは思うのだけれども、この物価上昇の時期、パスタもけっこう値上がりしてしまった。以前はずっと1キロ200円以下で買えたのだったが、去年ぐらいからだんだんに値上げされ、今は1キロ300円に近い値段になってしまった。
 これはもう、生産地イタリアでもパスタの価格は高騰しているそうで、イタリアでは政府がパスタの価格安定に乗り出したというニュースもあったそうで、日本でも値上げされるのは致し方ないのかもしれない。
 

『ミリオンダラー・ベイビー』(2004) ポール・ハギス:脚本 クリント・イーストウッド:監督・音楽

 いちおう以前に観た記憶で、ボクシング・ジムを経営するクリント・イーストウッドのところに来たヒラリー・スワンクイーストウッドをトレーナーに基礎からボクシングを学び、ボクサーとして順調に勝利を重ねていくけれども、ついにタイトルマッチという試合でダウンしたときにロープかなんかで首を強打して「半身不随」というかほぼ「全身まひ」になってしまい、完治の見込みもないことからイーストウッドに「人工呼吸器」を外してくれるよう依頼する。依頼を受けたイーストウッドは「人工呼吸器」外してやり、その後どこともなく姿を消してしまうのであった、という記憶。
 この日観直してみると、もちろん忘れていたことも多かったし、細かいところでストーリーを間違えて記憶していた。そして何よりもモーガン・フリーマン絡みで、大事なポイントを見逃していたのだった。やはり観直してみてよかったと思うのだった。

 主な登場人物は3人で、ジムの経営者で優れたトレーナーでもあるフランキー・ダンをクリント・イーストウッド、彼の親友でジムの管理者のエディ・“スクラップ・アイアン”・デュプリスをモーガン・フリーマン、そしてフランキーのもとでボクサーとしてのし上がるマギー・フィッツジェラルドヒラリー・スワンクが演じている。この3者の演技、それぞれみんな素晴らしかったと思う(クリント・イーストウッドもとっても良かった)。

 うらぶれた貧困家庭で育ち、31歳の現在までずっとウェイトレスをやっているマギーは、そんな自分の環境に勝ちたいとフランキーのジムに通ってボクシングをやろうとしている。
 フランキーは「女性はいらない」と彼女がジムに通うのを認めようとしないが、管理人のエディは彼女に素質があると見込んでフランキーに進言し、自らマギーにコーチしたりする。
 毎日ジムに通いつづけるマギーをフランキーも承認し、ついに自らトレーナーとして彼女をコーチすることになる。練習をつづけるうちにフランキーとマギーとはお互いを信頼するようになる。このときフランキーは実の娘と連絡を取ろうとしていつも手紙を書くのだが、その手紙はいつも彼のもとに「差出人返送」で戻って来るのだ。見ているとフランキーはマギーのなかに「自分の娘」のような気もちも抱いているのかもしれないし、マギーの方も、愛情のない家庭でただひとり、彼女に優しかった死んだ父の面影をフランキーに見ているのかもしれない。マギーは「この店のレモン・パイは最高なのよ!」とフランキーを誘い、店のカウンターで2人並んでレモン・パイを食べる。
 ついにリング・デビューした彼女は以後連戦連勝し、もはや対戦相手を見つけることも困難になり、階級を上げることにする。その階級でついにイギリス・チャンピオンとの対戦も勝利し(国籍がちがうからマギーがチャンピオンになるわけではない)、イギリス~ヨーロッパ遠征も全勝するのだった。
 ファイト・マネーをたんまり稼いだマギーは、いまだトレーラーハウスで生活する母と妹夫婦のために一軒家を買ってやるのだが母は喜ばず、「生活保護が受給できなくなる」とかの苦情ばかりをマギーに訴える。「イヤなら売ってしまってもいいのよ」と答えるマギー。
 マギーはついにタイトルマッチ戦として、危険な反則技スレスレの勝負を仕掛けてくるチャンピオンの「青い熊」と対戦する。マギーの優位で試合は進むが、ラウンド終了のゴングのあと自分のコーナーに戻ろうとするマギーは後ろから「青い熊」の反則パンチを受けて倒れ、コーナーに出された木の椅子に首を打ち付ける。
 頸椎骨を骨折したマギーは、自力で呼吸も出来ない全身不随になり、完治の見込みもない(しゃべることはできるし、表情は動くが)。フランキーはマギーにボクシングの道を拓いた自分を責めるが、エディは「そもそもはオレのせいだ」とフランキーをなだめようとする。
 母と妹家族は何とか見舞いにあらわれるが、ただマギーの財産を得ようとするばかりの彼女らにはマギーも絶望する。動かない片足も壊死して切断するし、マギーはフランキーに「自分はあなたのおかげでボクシングのプロになるという夢をかなえ、人生に望んだものすべてを手に入れた。もうここまででいい」と語り、「安楽死のほう助」を懇願する。フランキーは断るが、マギーは二度までも自分の舌を噛み切って自殺しようとする。
 そこまでに苦しむマギーにフランキーは同情し、楽にならせるべきだとも思う。毎朝教会のミサに通うことを欠かさない敬虔なカトリック教徒のフランキーは教会の神父にもこのことを話すが、神父は当然反対し、「そんなことをすればあなたは二度ともとの自分に戻れないだろう」と言う。
 それでもけっきょくマギーの望みをかなえることにしたフランキーは、ジムに立ち寄る。そこにエディがいて、彼の考えをすべて了解していたかのごとく、「後悔しない道を」と彼を送り出す。
 病院でフランキーはマギーに最後の言葉を語り、人工呼吸器を彼女の喉から外すのだった。フランキーは知らないが、その様子を物陰からエディが見据えていた。
 病院を去ったフランキーは、その後二度とジムにはあらわれなかった。映画のラストは、かつてフランキーがマギーといっしょにレモンパイを食べた店のエントランスから、中にフランキーらしい人物がいるのを写すのだった。

 前半はスポーツ界でのサクセス・ストーリーなわけで、特にこういう対戦相手のある競技で成功して行く展開は、観ていてもドーパミンが噴出するというか、そこには観ることの快楽があると思う。
 ただ、そのあとの後半はあまりにもつらい。
 海外でも問題にされたようだけれども、このフランキーの行為は「自殺ほう助」となるだろうし、日本だったらまずは「殺人罪」に問われてしまうだろう。しかし「自分が望む人生を一度は体験した」マギーに、それ以降の「全身不随」の身体に生きる希望を見いだせないのも当然だと思うし、これは「尊厳死」の機会を与えるということだろう。

 わたしがこの映画で思ったのは、モーガン・フリーマンの演じる「エディ」の存在のことで、どうもこのエディ、フランキーの精神的「分身」のように思えてしまう。その「分身」同士が2人してマギーを育て上げ、さいごのフランキーの「あまりにつらい決断」もまた、「分身」として「望むことをやれ」と背中を押していたと思う。だからこそ病院でのフランキーの行動を影から見ていただろうし、書かなかったがフランキーがいなくなったあと、エディはフランキーの娘に手紙を書いているのだ。
 そう思ってモーガン・フリーマンの演技を振り返ってみると、その抑制された演技はフランキーとおもてうらで印象に残るし、この映画の全体のナレーションを彼が行っていた意味もわかるというものだ。
 

2024-12-19(Thu)

 この日は「燃えるゴミ」の収集日。朝早くにゴミ出しに外に出たら、珍しく空はどんよりと曇っていた。それで、歩いている人が傘をさしていたもので、空を見上げてみると細かい雨が降っていた。「雪だろうか」というような感じでもあったが。
 そのあとテレビを見ていると、ニュースショーで「東京で初雪」と報道していた。中継カメラに写される都心の景色では、けっこうな雪が横殴りに降っていた。例年よりも15日も早い初雪だという。やっぱりウチのあたりもあれは雪だったのだろうかと思う。それでもういちど外を見てみると、そのときは完全に雨になっていて、けっこう雨量も多かった。雪であっても雨であっても久しぶりの「お湿り」(12月になって初めてだろう)。たまの湿気もありがたいが、もう午前中には雨もやんでしまい、窓の外には陽の光がまぶしく見えるようになっていた。
 午前中のニュース番組で、けっこうウチの近郊で事件が起きていたもので、カメラが現地の様子を捉えていたのだけれども、そのときはかなりの雪が降っていた。それは8時頃の映像だということだったが、わたしが今朝ゴミ出しで外に出て雪らしいのを見たのは7時半ぐらい。そのあと8時半に外を見たときには雨になっていたわけだから、7時半を過ぎて8時過ぎぐらいまで、ウチのあたりでもけっこうはっきりと雪になっていたのかもしれない。

 それでニュースをつづけて見ていたら、茨城県でキャベツ畑から収穫前のキャベツが2千個ほども盗まれたとのニュースがあった。ちょうど昨日観た『白い花びら』がキャベツ農家の話だったし、映画のなかにキャベツの収穫のさまも写されていたのだった。ニュースでも「キャベツ2千個を盗むのはとてつもない仕事量だ」と言っていたけれども、こう言っちゃ何だけれども「勤勉な泥棒だなあ」などと思ってしまった。
 しかし、たしかに今はキャベツも高値がつづいていて、なかなか値が下がらない。それで農家さんが儲かっているわけでもなく、農家さんもたいへんなのだろうと思う。そんなときにこういう「泥棒行為」。農家さんは泣くに泣けないことだろう。

 この日は大きなできごとの報道がつづいた。まず5日前、北九州市の小倉のマクドナルド店内で中学生の男女2人が男に刺され、女子中学生は亡くなり男子中学生も重傷を負うという恐ろしい事件があったのだけれども、午前中にその犯人が捕まったとの報道があった。
 わたしはNHKの正午のニュースを見ていたのだけれども、この日のアナウンサーは中山果歩さん。わたしは彼女のファンなのだが、この日もそれまでにわかっていることの報道に重なって、やはり正午から始まっている小倉警察の記者会見があり、中山さんはそれまでの経緯の原稿を伝えながらも、逐一入ってくる記者会見でわかった事実を速報で伝えるという、ルーチンを外れたイレギュラーなアナウンスだっただろう。それでも、新しく差し出された速報の原稿を空白をあけずに読み上げられるのだった。原稿の下読みの間もおかず、初見で、しかも目線をそこまでに原稿に落としたままでもなく読み上げられ、「さすがだなあ」と思わせられるのだった。
 彼女は「能登地震」を伝えるとき、声を上げて「すぐに逃げて下さい!」と視聴者に伝えて評判になったアナウンサーでもあられた。
 この「通り魔」的な事件には「日本もいろいろ物騒になったものだ」と思ったし、わたし自身も「わたしのような人間でも、外を歩くときには気をつけなくてはならないな」とも思ったものだった。事件現場周辺では事件の翌日とか、何千ものお子さんらが登校をやめて休んだのだということだったし、わたしにしてもわたしなりの対策として、「ちょっと外に出るときは必要なくってもバッグを下げて出かけるようにして、もし仮に襲われたようなときには、そのバックを使っていくらかなりでも自分を防護しよう」などと考えたりしたのだった。

 それともう一件、ウチのすぐとなりの市のウチから南に3~4キロ行ったあたりで、59歳の夫婦が刺し殺されて路上に倒れていたというニュースが昨夜あって、これも北九州の事件と結びついて「やはりこのあたりもヤバいなあ」と思わせられたのだった。あとのニュースでは路上に倒れていたのではなく、家の敷地の中で倒れていたらしいのだが、この「殺人事件」だけではなく、その現場から1キロぐらい離れたところで民家8軒が全焼する火災があり、どうも「殺人事件」の犯人が火をつけた疑いもあるのだ(今朝、この報道で現地中継しているときに雪が降っていたのだが)。
 この殺人事件は「通り魔」的犯行ではないだろうが、放火された家の人にとってはそれは「通り魔」的放火ということだろう(その8軒の中に犯人と目される男の家もあったらしいのだが)。「通り魔殺人」を何とか逃れる方策を考えても、「通り魔放火」となるともうどうしようもない。恐ろしい世の中になったものだ。

 夕方に西のコンビニへとちょっと買い物に出かけたのだけれども、先日道沿いの側壁にシダ類のイノモトソウというのが生えていた場所は、この日はそのあたりの草といっしょにみ~んな刈り取られてしまっていた。正直、ちょっと残念に思うのだった。
 それでも側壁の上の金網の塀に、ツタが一本だけ刈られずに残っていた。「なぜこのツタだけ残したのだろう」と思ったが、よくみると根の部分は刈り取られてしまっていて、このツタもすぐに枯れてしまうのだろうと思った。

       

 この日は午後から「Amazon Prime Video」で、クリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー』を観た。もう内容もほとんど忘れてしまっていたし、この映画の無料配信はこの日でおしまいなのだった。
 

『白い花びら』(1999) アキ・カウリスマキ:製作・脚本・監督・編集

白い花びら (字幕版)

白い花びら (字幕版)

  • サカリ・クオスマネン
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 「サイレント映画」。カウリスマキ監督の発言に「映画はしゃべり始めてからずっと退化しつづけているという指摘をした人がいたが、確かにその通りで、映画そのものであるストーリーの純粋さを言葉の厚かましさで消してしまっている」というのがあり、監督はまさにこの『白い花びら』で「映画のストーリーの純粋さ」を追求したのだろう。
 この作品はフィンランド文学の国民的作家ユハニ・アホが1911年に発表した小説が原作で、過去3度も映画化されているし、フィンランドの人にはよく知られた物語らしい。

 出演は妻のマルヤにカウリスマキ作品の常連のカティ・オウティネン、その夫のユハに『浮き雲』にも出ていたサカリ・クオスマネン、マルヤを誘惑する男シュメイッカには『ラヴィ・ド・ボエーム』に出演していたアンドレ・ウィレム。アンドレ・ウィレムは『ル・アーヴルの靴みがき』で主役を演じていたらしいが。
 その他にも「この俳優の顔は見覚えがあるな」という、カウリスマキ作品の常連らも出演している。

 ストーリーはある意味では単純で、フィンランドの片田舎で夫婦でキャベツをつくってサイドカーに2人乗って町に売りに行くくという、ささやかな幸福のなかで暮らしていたユハとマルヤの夫婦のところに、「車が故障した」と都会風のスカした男シュメイッカが現れ、ユハが車を修理しているあいだにマルヤに「いっしょに都会で暮らそう」と誘惑する。
 都会の誘惑にかられたマルヤはファッション雑誌を読みタバコを喫うようになり、化粧も濃くなる。ある日シュメイッカがふたたび現れ、夫婦と共に町に飲みに出かける。シュメイッカはマルヤと踊り、「今夜いっしょに出発しよう」と語る。泥酔して家に帰ったユハが寝ているあいだにシュメイッカがマルヤを迎えに来、マルヤはユハに置手紙を書いて出立する。
 ヘルシンキへの道の途中、美しい渓谷のほとりでシュメイッカと横になったマルヤは幸せだった。しかしヘルシンキに着いたシュメイッカはホテルの部屋にマルヤを置き去りにし、見知らぬ男がマルヤをクラブ・バーのようなところへ連れて行く。そこでは女たちがホステスをやっていて、そんな中にシュメイッカもいた。シュメイッカはマルヤに「オレに養ってもらえるとでも思っているのか。働くんだ」と言い、彼女を殴るのであった。
 部屋に戻ったマルヤは茫然とし、ユハとの結婚式のときを思い出したりするのだったが。
 マルヤのいなくなったユハはなんとか彼女を探そうと警察に行くのだが、「彼女の意志で出て行ったのなら探しようがない」と言われる。それからのユハは飲んだくれの日々がつづくことになる。
 どうやらマルヤはホステスではなく皆の部屋の掃除とかをやらされていたようだが、あるとき意を決して逃げ出して駅に行くのだが、列車に乗ろうとしたときに倒れてしまう。病院に運ばれるマルヤ。実は彼女は妊娠していたのだ(それはユハの子なのだろうか、それともシュメイッカの子なのだろうか、映画を観る限りではわからないのだが)。
 秋が過ぎ冬が過ぎ、マルヤの赤ちゃんはすくすくと育っていた。そしてユハはついにシュメイッカのアジトのありかを知り、手斧を研ぎ機で研いでバッグにしまい、サイドカーに飼っていた犬を乗せて出発する。知人に犬を預け、あとはバスでヘルシンキのシュメイッカの店へと行く。
 マルヤの部屋へ着き、マルヤと寝ていた赤ちゃんを窓から捨てようとするが、マルヤがそれを止める。ユハはシュメイッカの店へ行き、シュメイッカに銃で胸を撃たれるもののシュメイッカを倒し、マルヤと共にそこを出てマルヤをタクシーに乗せて送り出す。そのあとひとりでゴミ集積場へたどり着いたユハはそこで倒れ、息果てるのだった。

 いつも自分で編集作業も行うカウリスマキ、今回ももちろん自ら編集しているのだけれども、いつにも増してカット割り、繋ぎの妙技が光り、この作品の大きな力になっていたと思う。

 サイレント映画といっても音楽はつけられているし、生演奏、歌のシーンでは音付きである。
 一見画面とは無関係とも思える音楽なのだけれども、これがどこか独特の味わいにもなっている。今回はアコーディオンをフィーチャーした音楽が多かったけれども、カウリスマキ作品でたいてい聴かれる、スウェーデンのバンド「スプートニクス」を思わせる哀愁のエレキ音楽が聴けるのがうれしかった。

 サイレントのせいか、けっこう演出は誇張されていて、泥酔するユハ、濃い化粧をするマルヤとかわかりやすいし、ラストに胸を撃たれてもよろよろとシュメイッカを追い詰めて行くユハは、まるでターミネーターみたいだ。
 そしてカウリスマキ映画といえば犬。「今回はあまり見せ場がないな」と思っていたら、飼い主のユハから知人に託されてしまったとき、その犬はユハの乗ったバスを全力で追っていくのだった。ちょびっとウルッとする、感情の昂る場面ではあった。
 

2024-12-18(Wed)

 昨日の「ふるさと公園」からの帰り、ウチのすぐそばでスズメたちの群れに出会った。家を出るときにもスズメの群れがいたけれども、同じ群れだったかもしれない。出かけるときにもスズメたちはわたしのことを見ていて憶えていたのだろうか、そのときは警戒の鳴き声も上げず、あんまり逃げて行かなかった。「コイツは危険じゃないぞ」と認識してくれたのだろうかね。
 ホントはもっとたくさん(10羽以上)群れていたんだけれども、カメラに収まったのは5羽ずつだ。

     

     

 昨夜寝るとき、また咳に悩まされた。咳がとまらないので、わたしの上に乗っていたニェネントくんも逃げて行ってしまった。
 朝起きたらもう咳も出ないのだが、やはりまた病院へ行かなくてはいけないかなと思う。今日は水曜日でたいていの病院は休診だけれども、どっちにせよもう東の駅前の耳鼻科医には行きたくない。あの医師が「放置しておいて大丈夫ですよ」と診断したあげく、こんな状態なのだから。
 それでずっと北の方にある、ちゃんとした医療設備も整った市民病院へ行きたいのだが、市民病院は他の病院の紹介状がないとめっちゃ待たされてしまうわけで、前回そうやって紹介状なしで行ったとき、朝8時半の診察開始時間に行ったのに、けっきょく順番が回ってきたのは午後になってからだったのだ。もうああいうのはゴメンだから、やはり紹介状が必要か。
 何とか紹介状なしでも早く診てもらえる方策はないものかと、その市民病院へ電話して聞いてみた。そうするとなんと、現在呼吸器科の医師に欠員が出ていて、紹介状のあるなしに関わらず診察できないケースがあるというのだ。「診察できるかできないか」は、行ってみないとわからないという。
 むむ。いきなり病院に行かないで電話してみてよかったが、つまり「市民病院で診察してもらう」という考えはもう成り立たない、という感じだ。ちょっと方策を考えてみよう。

 さて、この日も昼には『カムカムエヴリバディ』を見たのだけれども、この「カムカムエヴリバディ」というタイトルは、ラジオの英語会話教室で放送された「証城寺の狸囃子」の英語の歌詞から来ているということが、この日の回でわかったのだった。「Come Come Everybody」はつまり、「み~んな出てこいこいこい」のことなのだった。
 それはそれでとっても面白いのだけれども、実はそれでもってわたしは、もうひとつ別の英語版を思い出したのだった。それはアメリカの歌手(エンタテイナー)のアーサー・キット(Eartha Kitt)が1950年にレコーディングした「Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) 」というヤツで、これはたしか40年ぐらい前に日本の何かのコマーシャルで使われたのだ。そのため当時はFМとかでも全曲かけられたことがあったのだったと思う。おかげでわたしもコイツを知っていたのだけれども、これはもう、一度聴いたら忘れられない珍妙な歌なのだ。皆さんにも是非聴いていただきたいので、ここにYouTubeを貼っておきます。英語歌詞とその和訳も出てるので、お楽しみください。

 とにかく、このアーサー・キットの「日本語訛り」風のシンギングもおかしいのだけれども(「ズラコン」って何なんや?って感じ)、日本語の「こいこいこい」は「Come Come Come」じゃなくって、ここでは腹ペコのタヌキがなぜか鯉を食べたくって、「鯉、鯉、鯉」と(日本語で)歌ってることになっている。さらに、日本語の「負けるな負けるな」という途中のコーラス部ではいろんな食べ物の名前が連なり、微妙に「負けるな負けるな」と聴こえそうな「Macaroons and Macaroni」にされていて、また笑ってしまう。
 バックの演奏も大げさな編曲(ちょっとチャイニーズ風)で、この曲にはいつ聴いても楽しい気分にさせてもらえる。
 歌ったアーサー・キットはさまざまなキャリアを持っていた人みたいだけれども、ジョンソン大統領の時代にホワイトハウスの昼食会に招かれ、そこで「反戦」発言をしてそのあとしばらく仕事を干されてしまったりしたらしい。Wikipediaで読むと、実に多才でしっかりした主張を持つ、ユニークな人物だったようだ。

 午後から「Amazon Prime Video」の無料配信作品をチェックしていたら、以前は配信されていなかったはずのカウリスマキ監督の『白い花びら』が今は配信されていて、それも年内限りなのだった。それでこの日はその『白い花びら』を観るのだった。けっこう悲しい物語ではあった。
 

『シヴィル・ウォー アメリカ最後の日』(2024) アレックス・ガーランド:脚本・監督

 <憲法で禁じられているはずの3期目に突入し、FBIを解散させるなどの暴挙に及んだ大統領に反発し、19の州が分離独立を表明、内戦が勃発した近未来のアメリカ合衆国。テキサス・カリフォルニアが連合する「西部勢力(WF〈Western Forces〉)」と、フロリダ~オクラホマにかけて広がる「フロリダ同盟」は2つ星の星条旗を掲げ政府軍を次々と撃退してワシントンD.C.に迫り、首都陥落は時間の問題となっていた>(以上Wikipediaより)。

 主な登場人物は著名な戦場カメラマンのリー(キルスティン・ダンスト)と報道記者のジョエル、彼らの先輩格の年配の記者サミー、そして彼らの出発地ニューヨークで知り合った駆け出しの写真家ジェシーケイリー・スピーニー)との4人で、ジョエルらは大統領への取材を目指してワシントンD.C.へと出発。その過程で「戦場」と化したアメリカの凄惨な光景を目撃する。

 わたしはもっと、「なぜアメリカ合衆国がこのような内戦状態に陥ったのか」ということを描写する、政治的側面を描いた作品を期待していたのだが、その期待はみごとに裏切られてしまった。
 まさに舞台となるのは「アメリカ合衆国」で、この映画を観るアメリカ国民は「自分の見知ったあれこれのスポット」が戦場になってしまっていることにショックを受けるのかもしれないけれども、わたしなどはそ~んな思い入れはない。ただ、先日の韓国はこ~んな情況に陥る危険性はあったのだろうか、とは思ったが。
 そしてそんな「アメリカが戦場に」という思い入れがない目で見れば、この映画は特に舞台がアメリカである必然はなく、ただ「中東かアフリカの内戦の現場に潜入して取材する報道陣4人衆」の話と同じである。そして冒頭の「戦闘シーン」は使い古されたスローモーション映像だし、それ以降もカメラマンの撮る映像の「ストップモーション」の連続であり、映像としての見どころはどこにもない。こういう戦闘シーンの凡庸さを目にすると、先日観た『雨の中の慾情』の中の(悪夢の)戦闘シーンの方がよほど良かったし、あらためてキューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』の素晴らしさを思うことになる。

 だいたい登場するジャーナリストの仕事もいい加減で、記者のジョエルなんか「大統領に取材したい」という目的があったはずなのに、いざ大統領に出会ってみると、その大統領のさいしょの言葉に失望してそこにいた兵士らに大統領を撃たせてしまう。いくら大統領のさいしょの言葉に失望しても、「さらなる言葉」を引き出させるべく取材をつづけるのがジャーナリストの使命、仕事ではないか。この男、「ジャーナリスト失格」であろう。

 全体に音楽もつまらないのだが、終盤にようやく一行がワシントンD.C.に到着したときに聴こえてくるギターの音は、ドアーズのロビー・クリーガーのギターにクリソツではあって、おそらく演出家はここで『地獄の黙示録』でのドアーズの音をこそ想起していたのではないだろうか。そしてラスト近くに聴こえてくるヴォーカルもジム・モリソンっぽくって、まあじっさいに意図されたモノかどうかわわからないが、「やれやれ」という感じだった。

 ただ、駆け出し写真家のジェシーを演じたケイリー・スピーニーのことはけっこう印象に残って、調べてみたら『パシフィック・リム/アップライジング』や「エイリアン」の最新作『エイリアン:ロムルス』などに主演している俳優さんなのだった。これからもっとハリウッド映画には登場してくることの多くなる俳優さんなのかと思う。
 

2024-12-17(Tue)

 この日は、「ふるさと公園」方面へとお散歩兼お買い物に出かける。
 外に出ると、スズメたちのチュンチュンと鳴く声がいっぱい聞こえてきた。この朝はこのあたりにスズメの群れが来ているみたいだった。スズメたちは近所の家の塀の中の植木に群がっているようで、そのあたりからスズメのコーラスが聞こえてくる。例によって、わたしがそばを歩くとみんなが警戒の鳴き声をあげて、いっせいに飛び立って行ってしまう。そんなに人間のことを警戒するなら、何でこんな住宅地に群れるのかね。ちょっと離れたところには人家の少ない林もあるというのに。やはり「付かず離れず」で人間の住まいの近くがいいのだろう。
 しかしこの日は珍しく、空高くにハヤブサらしい鳥が舞っているのが見えた(写真は撮れなかった)。おそらくスズメとかを狙っていたのだろう。こういうとき、スズメたちはこうやって人の住む入り組んだ住宅地の方が身を隠しやすいのだろう。

 さて、この日の「ふるさと公園」は、コブハクチョウの家族5羽がみんなそろって池のそばに上がり、そろって羽根づくろいをしているところを見た。それでコブハクチョウの足元にはオオバンたちもいたし、ちょっと離れた草陰にはコサギもいるようだった。こうやって、ごく近い距離に種類のちがう鳥が集まっているのを見るのは珍しいことだ。

     

 さらにもうちょっと先の池ぎわの木の枝には、アオサギがとまっていた。なかなかに貫禄のある姿で、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』に出てくる、オヤジのアオサギみたいだ。ちょっときれいな写真が撮れた。

     

 歩いていると、池の水ぎわに氷が張っていて、まだ溶けないで残っているのが見えた。この季節初めて見る自然界の氷だ。時間は朝の9時半ぐらい。もうちょっと時間が経てばみんな溶けてしまうんだろう。

     

 「ふるさと公園」を出て、近くの改装が終わって新規開店しているドラッグストアに立ち寄ってみた。どこに何が置いてあるのかよくわからなくなっていたが、肉や野菜などの生鮮食料品のコーナー、それと酒類のコーナーが以前よりも整理されて広くなっていた。もう「スーパーマーケット」という感じになっていて、たしかにこのあたりにはちゃんとしたスーパーもないので、「このあたりの住民のためのスーパー」という店づくりを目指している感じ(まだ「生鮮食料品」はちょっと高いが)。

 そのあとはネコたちをよく見かける祠に寄り道をして、駅前の小さなスーパーへ行った。祠にはこの日もネコの姿は見かけなかったが。
 スーパーではカットしたキャベツや白菜が安かったのでついつい買ってしまったが、ウチにはまだ先日買ったキャベツがまだまだ残っているのだった。ムダにしないように、これからキャベツや白菜をがんばって食べないといけないな。

 帰り道、この日も跨線橋の上から富士山がうっすらと見えた。このところいい天気がつづいているわけだけれども、12月になってまったく雨が降っていないので、東京ではずっと「乾燥注意報」が出ている。火事の報道も毎日のようにつづいている(ウチも近所で火事があったしね)。

 帰宅して、ざざ~っとまとめて洗濯を実行し、さっそく食事にキャベツをいっぱい使って野菜炒めをつくったのだった。
 午後からは時間があったので、先日映画館で公開されていたばかりなのに、もう「Amazon Prime Video」で無料配信されている『シヴィル・ウォー アメリカ最後の日』を観たのだった。アメリカの大統領が暴走して権力乱用の結果、内戦になるという、「韓国もこ~んなになってしまう危険があったのかねえ?」というようなストーリーなのだけど、主人公が「報道写真家」で、ストーリー展開よりも報道写真家とその写真家の撮る写真を描くことに力を注いだ演出。正直、つまらなかったかな?

 先日「注文しようかどうしようか」と迷っていた尾崎翠の本、けっきょく注文してしまった。それで、今読んでいる『国家はなぜ衰退するのか』は、とても面白いのだけれども、読書ペースが落ちてしまっている。上巻はあと130ページぐらいだ。年内に下巻まで読み終えたいと考えているけれども、ヤバいところだ。