田中角栄(当時第三次佐藤栄作内閣の通産相)が自民党総裁選を翌月に控えた1972年6月11日に発表したマニフェスト。その4年前に田中が自民党の都市政策調査会長としてまとめた「都市政策大綱」を土台に作成されたもので、同月20日には日刊工業新聞社より刊行され、翌月の田中の総理総裁就任にともない88万部の売り上げを記録するベストセラーとなった。
その主旨は、高度成長期に発生した都市部の人口過密・公害・物価上昇や農村の過疎化といった問題を解消するため、工業地帯の再配置や交通・情報通信網の整備をテコに、人やモノの流れを大都市から地方に逆流させ「地方分散」を推進するというもの。田中は首相に就任するとすぐ首相の私的諮問機関として「日本列島改造問題調査委員会」を発足させ、具体的な計画の実現に乗り出す。この計画に触発されて、開発をあてこんだ土建業者や不動産業者などが土地投機に走り全国的に地価が高騰、それに対する批判や公害の拡大などを懸念する声も上がった。しかし急激なインフレの進行に加えて、1973年10月に起きた第1次オイルショックにとどめを刺され、計画自体は失速していく。
とはいえ、政治家による選挙区への利益誘導型の公共事業(道路や公共施設の建設など)はこれ以後定着し、過剰な投機による地価の暴騰も80年代後半のバブル期に再現される。これらの出来事は日本列島の風景を大きく変え、『日本列島改造論』はその計画の失速以後も様々な形で影響を残したといっていいだろう。
なお、実際にこのマニフェストの執筆にあたったのは田中ではなく彼の秘書や官僚たちであり、田中と同じく新潟県出身の北一輝の著書『国家改造案原理大綱』を連想させるそのタイトルも、田中自身というより秘書の早坂茂三のアイデアによるものだといわれる。