島津忠治(しまづ・ただはる 1489 ~ 1515)とは、薩摩国の大名である。島津家12代当主。
島津家11代当主・島津忠昌の嫡男。弟に島津家13代当主・島津忠隆、島津家14代当主・島津勝久がいる。
概要
1508年に父が自殺したため20歳で家督を継いだ。父の死後も内乱は治まらず、鎮圧の日々に明け暮れた。
3ヶ国守護とは言え、一族はもちろんのこと、日向の伊東氏や大隅の肝付氏などから侵攻を受けて八方塞がりの状態が続いていた。
忠治自身は父同様軍事より文学を好み、また琉球との貿易を更に促進させて影響力を強めようとした。国内に目を向けなかったため、内乱は一層酷くなった。吉田松尾城主・吉田位清を攻めている最中に病没した。
島津氏が薩摩国内の反乱因子を完全に排除して平定するのは15代・島津貴久が1552年に確立するまで待たねばならないといけない状況であった。