はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
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石川啄木(いしかわ たくぼく、1886~1912)とは、明治時代に活躍した詩人・小説家である。
間違っても、石川ブタキと読んではいけない。
略歴
本名は石川一。1886年に岩手県で生まれる。小学校時代は神童と呼ばれた。
旧制中学(今で言う高校)で四歳年上の金田一京助と知り合って『明星』を愛読、特に与謝野晶子の「みだれ髪」にのめりこんだ。文学に対する関心が高まる一方で次第に学業を怠るようになっていった。
1902年には中学を自主退学し、文士として身を立てるために上京する。半年せずに帰郷するも、翌年には『明星』の創始者である与謝野鉄幹に厚遇され、「啄木」の号を与えられて詩作や評論を活発に行った。
1905年には第一の詩集である『あこがれ』を出版し天才詩人として賞賛された。またこの年には堀合節子と結婚した。
文士としての名声は上がる一方で生活は苦しくなり、1906年に小学校の代用教員として働き始める。翌年には北海道へ移住し様々な職を転々としながら家族の生活を何とか支えていた。
文学を諦めきれない啄木は1908年に小説家として再び上京するが、小説家としての才能は認められず、朝日新聞の校正係として就職し、後に朝日歌壇の選者となる。
この年に北海道に残してきた家族を東京へ呼び戻すが、妻と姑の仲が悪化し妻が実家へ帰るなどトラブルも多かった。
1910年には第一の短歌集『一握の砂』を出版し、口語的な三行書きや鮮やかな表現技法から啄木は生活派詩人として知られるようになる。
1912年、肺結核によって死去する。享年26歳であった。
同年に友人達の尽力によって啄木の第二歌集『悲しき玩具』、第二詩集『呼子と口笛』が出版。各方面の文学者から絶賛された。
ネット上における石川啄木
上のように、啄木は過酷な人生を送っていた。啄木は「小説で立身する」高いプライドのためにしばしば生活難に陥っており、友人、特に中学時代の先輩であった金田一京助氏にはしばしば金の無心をしたと言われる。
京助は友人である啄木のために自らの蔵書や家財を売り資金援助を行っており、京助の息子であった春彦氏は啄木を「石川五右衛門の子孫ではないのか」と思ったという。
そもそも啄木が生活難に陥ったのは、彼自身の遊び癖や放浪癖によるところもある。金が無いにもかかわらず浅草で娼婦と遊んだり昼間からビールを飲んだりしていた事が啄木自身の日記によって記録されている。
また京助氏に「タイヤのチューブに空気入れて売れば大もうけじゃね?」(彗星が通ると酸素がなくなると言われていた)と言って京助氏の金で投資をしないかと誘ったり、「私がおごるからもう一軒行こう」と居酒屋を飲み歩いた挙句に 会計はワリカンどころか一銭も払わないと絶交されても文句を言えないような行動を多々繰り返していた。
そんなわけで、ネット上ではどうしようもないダメ人間のことを「石川啄木」と呼ぶことがある。
・・・もっとも、啄木が波乱万丈な人生を送ったのは確かであり、幾度となく挫折を味わった啄木が酒や娼婦に逃げてしまうのもある意味仕方ないことなのかもしれない。太宰も薬物中毒だったわけで。
が、下のような詩を作っているあたり、本気でダメ人間じゃないのかとも思えてならない。
関連項目
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと