楊堅が北周から皇位を譲り受けた581年から、李淵の即位による唐の成立617年まで中国で成立した王朝。
日本史では先進国であったこの国に遣隋使を送り、大陸で学んだ学者たちは日本の政治に大きな影響を与えた。聖徳太子が小野妹子を派遣して「日出ずるところの〜」の書簡で煬帝を怒らせたエピソードは余りに有名だろう。
時は南北朝時代。581年、北朝で元近衛軍の司令官かつ外戚であった楊堅が、9歳の幼い静帝から皇帝の位を譲りうけ文帝として即位した。文帝の建てたこの新しい王朝が隋である。
隋王朝をひらいた楊堅は古い長安(西安)の東南の地に新しい都を建設して大興と名付けた。楊堅は大興に自らが政治を執る大極殿と、そこからまっすぐ南に伸びる朱雀大路。さらに仏教や道教のお寺などを作った。また以後、清代まで続く中国の伝統的官吏登用テスト、科挙もこの時代に始まった。それまでは特別な家柄や高い身分の家に産まれた人しか高級官吏にはなれなかったが、これにより少なくとも建前上は広い人々が出世の機会が得られるようになった。しかし、実際は門閥貴族の力が依然大きく、科挙による新興官吏は勢力を抑えられていた。文帝は農民に土地を貸し、その見返りとして租庸調などの税を課す均田制や、均田を借り受けるかわりに兵役を義務づけた府兵制を取り入れ政治改革も進めた。
建国から7年後、国内の安定を確認した楊堅はいよいよ南北統一に乗り出す。楊堅の子で当時20歳になっていた楊広(後の煬帝)は南の王朝、陳を討伐する総司令官に任命され588年、50万余の大軍をひきいて江南に出発した。翌年には長江の北岸から軍船に乗り込み、陳の都、建康に進軍。愛人の張麗華を囲うなど贅沢をしていた陳の叔宝を降伏させて陳を滅ぼした。これにより中国は実に宋(南朝最初の王朝)以来170年ぶり、西晋滅亡以来約250年ぶりに統一された。
戦いに勝利した楊広は意気揚々と凱旋し熱狂的歓迎を受けるも、兄である皇太子、楊勇から疎まれてしまった。そこで楊広は、質素な生活を好む父の文帝や母の独孤皇后に、楊勇のぜいたくで淫らな生活ぶりを伝え、更には謀反のうわさを流して皇太子の座を奪取した。楊広は604年には父の文帝を謀殺し、隋の二代目皇帝煬帝となった。
皇帝となった煬帝はまず洛陽に新しく都を建設し、更に永済渠、通済渠、江南河などの大運河の建設を開始した。運河の工事には中国全土から100万人の人々を動員したと言われる。当時の隋の人口が4600万人と言われるので、100万人がどれだけ凄まじい数かが分かるだろう。運河は万里の長城とならぶ中国の二代土木事業と呼ばれ、経済や文化交流などの面で大きな役割を果たしたが、他に煬帝が指示した万里の長城の修復工事や、ぜいたくな離宮、まだ動く宮殿と呼ばれた巨大船などの工事と合わさって、負担は人民に重くのしかかった。
607年煬帝は新しい法律、大業律令を発布し、律令国家としての基礎を固めた。律とは刑法典、令とは民法典で、政治経済、司法などの国家の法体系のことである。
同年には倭国から小野妹子が渡海してきて、有名は日出ずる国の親書に激怒するも結局煬帝は裴世清(はいせいせい)に小野妹子を日本まで送らせた。余り有名ではないが、この時に小野妹子は隋の国書をなくしてしまっている。一時は刑を受けるも百済で奪われたものとして小野妹子の罪は許されたが、実際のなくした(奪われた?)理由については未だ分かっていない。これ以降も倭は遣隋使を続け、608年には高向玄理(さかむこのくろまろ)ら4人の留学生と、僧の旻(みん)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)ら4人の学問僧が渡海してきた。これらの遣隋使や、後の遣唐使により大陸の文化や政治の仕組みが日本に伝わり、やがておこる大化の改新などに影響を与えていった。
610年には洛陽で国際見本市のようなお祭りがひらかれて、中央アジアや南アジアから珍しい産物がたくさん運ばれてきた。しかしその一方で朝鮮半島の高句麗だけはいまだ隋に従わず煬帝をいらつかせた。煬帝はとうとう高句麗遠征を決意するが、これが隋王朝の命運を決めることになった。
612年、煬帝は大軍を率いて高句麗征伐に出立する。高句麗軍は乙支文徳(いつしぶんとく)将軍が守る堅城、遼東城で隋の大軍を迎え撃ち、これを撃破した、煬帝は別働隊で高句麗の首都、平壌を攻めさせるもこちらも敗北。高句麗では薩水の大捷(大勝の意)と呼ばれるこの戦いで隋軍は何十万もの将兵を失うこととなった。
翌年煬帝は再び高句麗遠征を敢行。遼東軍を包囲するも本国で楊玄感が反乱を起こし、洛陽が占拠されてしまうという事態が発生した。煬帝はただちに引き返してこれを鎮圧するも、軍は疲弊し、続く614年の第4回高句麗遠征では全く戦果をあげることができず、華北や江南で農民の反乱が発生したこともあって失敗におわった。この農民反乱には政府軍や幹部も加わっていたとされる。
煬帝は気分転換に皇太子の楊侑を残して江都に向かったが、長安で煬帝が信頼していた従兄弟の李淵が反乱を起こしてしまう。617年、長安に無血入場した李淵は煬帝の孫でわずか13歳の楊侑を即位させ、三代目皇帝、恭帝とした。煬帝の命運はここに尽き、近衛隊長の宇文化及に殺されてしまった。煬帝が死んだことをしった李淵は恭帝から皇位を譲り受け、ここに隋は滅び、唐王朝が誕生した。
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1 ななしのよっしん
2018/11/01(木) 15:04:49 ID: dyCvPAIB+g
陰謀で二代目が決まった・その二代目の時代に国が大きく傾いた
・跡を継いだ王朝は長生きした、などいろいろな意味で秦と共通点が多い。
2 ななしのよっしん
2021/09/26(日) 19:57:15 ID: 1fKoGb/tDZ
中国中心部と朝鮮半島の間って、それほどひどい不毛・軍隊にとってきつい地形なんだろうか
3 ななしのよっしん
2024/01/22(月) 20:39:47 ID: FLzCECoI5Y
トラックもなければヘリも輸送機もない時代に、百万を号して恥ずかしがない兵力を動かして食わせようとしたら、そりゃどんな地形でも兵站破綻するよ。
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最終更新:2024/11/30(土) 10:00
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