本作はメタ映画的な構造を取っている。冒頭でフクロウたちが語り部となり、映画内のスクリーンの中に誘われる。そこでランゴを通して描かれているのは、「役者」の存在意義についてである。
ランゴというキャラクターは、カメレオンである。「カメレオン俳優」という言葉があるように、この動物を主人公に選んだのは、明らかに俳優・役者・演者のベタな「メタファー」としてであろう。
しかし、ランゴはカメレオンが持つ特殊能力である、周囲の環境への同化が上手くできない。
砂漠では余所者扱いされる彼を、そのまま俳優に置き換えることが可能だ。本当は気弱で孤独を抱えるが、それでも自分とは違う「他者」になりきって、気丈に振舞うことも可能である俳優という存在。ただそれ故、自分という存在をランゴも見失ってしまう。
けれど、映画内の街の住人も、映画外の観客も、映画の中心で物語の推進力となる「主役」の存在を待ち望んでいる。だからこそ、一度主役の舞台から降りようとしたランゴが、“西部魂の権化”に出会うことで「英雄魂」のようなものを注入され、再び西部の街に舞い戻ってくる姿に胸が高鳴らずにはいられない。
たとえそれが周囲によって作られた「英雄像」であろうとも、再び保安官バッジを胸に付け、映画の中心に佇むだけでいい。主役の復権によって、西部劇の体をなした本作は、そのジャンルお決まりの展開を確実に抑えつつ、幕を閉じていく。
アニメーション特有の画のダイナミズムと西部劇の様式美の中で、ジョニー・デップを初めとする「俳優」たちが、モーション・キャプチャーによって、ほぼ実際に近い形で「演じて」いる点も、題材と技術が的確に呼応している。
娯楽作としても一級品である本作は、改めて映画や役者の本質をも描こうとしている優れた一本だ。