4月12日に行われた東京大学学部入学式で、社会学者で東京大学名誉教授の上野千鶴子氏が登壇し、祝辞を述べた。東京大学公式ウェブサイトでは全文も掲載されている。このスピーチが、インターネット上では多くの賞賛の声を呼んでいる。
上野氏のスピーチはあくまで東大の新入生に向けられたものだが、しかしその反響はもはや単なる祝辞の枠を超えている。NHKをはじめ全国のマスコミでもその内容を含めて報じられ、内外で大きな議論を呼んだ。
上野氏が現代社会をどのように捉えているのかが端的に垣間見える部分も多くあり、検討する価値は大いにあるものと考える。よって今回、もはや何番煎じともわからない状況とはなってしまったが、私も取り上げたいと考えた。
「階級社会」への移行を映し出す言葉
とくに評価が集中しているのが、新入生に対して「ノブレスオブリージュ」を説くこの箇所である。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください〉(東京大学「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」より引用。以下、引用の際は「祝辞」と表記)
私にも東京大学出身の友人や知人は多くいる。けっして嫌味を言うつもりはないが、彼らの多くは自分のことを「庶民の家の出」だと認識している――たとえ親が官僚・医師・弁護士・大学教員・会社役員などであってもだ。
単純に世間知らずだからというわけではない。往々にして彼らの「育ち」が良いことがそう自認させてしまうのだろう。世間一般でイメージされるような「金持ち」のぜいたくな生活とは違って、むしろ倹約的で落ち着いた暮らしを送ってきた、そして良識を備えた彼らだからこそ、自らのことをそう考えてしまうのも無理はないのかもしれない。
だが上野氏は、そうした「エリートが庶民感覚を持ってしまうこと」そのものにくぎを刺している。
社会的に成功した人は「自分の成功はともあれ自分の努力によるもの」と考えてしまいがちだ。たとえ悪気はなくても「自分は庶民の出である(とりわけ環境が恵まれているわけではなかった)」という認識が前提にあると、「自分の成功は自分の努力のたまものだ」と考えてしまうのはなおさらのことだ。
階層間の断絶が西欧にくらべて緩い日本では、ノブレスオブリージュが根付きにくい。出身階級によって人生がほとんど決定してしまうような西欧各国とは異なり、この国ではせいぜい各県の名門進学校にでも入ってしまえば「階層ジャンプアップ」の大きなチャンスを得られる。
たとえば東京大学合格者の親の平均年収は他大学の多くよりも高いが、しかしそれでも「貧乏人に生まれたらその時点でゲームオ―バー」とまではいかない。階層間の断絶がゆるいことは、貧乏人でもチャンスをつかみやすい反面、異なる階層に対する想像力の涵養を困難にする側面も否定できない。
だが昨今の日本は「階層社会」から次第に西欧型の「階級社会」への移行が進んでいる。いまはその過渡期にあたるのだろう。いわゆる氷河期世代では、なんとか正社員の仕事に滑り込んだ「勝ち組」と新卒時の就職に失敗した「負け組」ではその後の人生がまったく違うものとなっている。その格差はさらに彼らの子どもの世代に受け継がれ、固定化されつつある。
長らく「(階層はあれども)階級が存在しない」といわれてきた日本社会が、階級社会へと移行しつつあるいまだからこそ、恵まれた階層の出身者たちが多く集まる東京大学という場で、ノブレスオブリージュの実践が薦められることには意義がある。この点については、上野氏の社会学者としての矜持を感じさせるし、敬意に値するだろう。
しかし――だからこそ、上野氏のスピーチと氏のスタンスの「整合性のなさ」も気になってしまう。というのも上野氏は「ノブレスオブリージュを実践して、弱者を貶めず助けるべきだ」と説く一方で、「強者が必ずしも弱者を包摂する必要はない」とする趣旨のことも言っているからだ。