Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
2024.12.16
# エッセイ

【田中純著『磯崎新論』刊行記念エッセイ】二重スパイをめぐる冒険活劇として

田中純著『磯崎新論(シン・イソザキろん)』の刊行を記念して、田中純さんにエッセイを書いていただきました。
群像1月号掲載の「本の名刺」を特別公開します。
田中純著『磯崎新論』田中純著『磯崎新論』

二重スパイに対する偏愛

先日刊行された『磯崎新論』に「シン・イソザキろん」とルビを振ることを思いついたきっかけは覚えていない。『群像』連載の開始前に磯崎さんに手紙を送ったのだが、そこではこのことに触れていなかった筈だ。ただ、「正伝ではないもの」という意識はあったように思う。わたしが熱烈なファンである映画『シン・ゴジラ』がそれまでのゴジラ映画の系譜をいったんリセットしたように、磯崎さん自身の膨大な自作解説を含め、従来の磯崎新論をリセットしたいという願望がそこに働いていたのだろうか。とまれ、この異名は磯崎新を「巨大不明生物」に見立てたことになるが、若き日に「都市破壊業」を宣言した人物の評伝であってみれば、この見立ても案外的外れではあるまい。それに磯崎さんには、この種のいささか傾(かぶ)いた外連味(けれんみ)も面白がってもらえそうに思えた。

ただし本書の方法は、磯崎新の言説と作品を徹底して時系列に沿って検証するという、まったくの正攻法である。それは或る時期以降、過去の自作に批評的に介入する自称「反回想」を繰り広げた、磯崎さんの強力な言説との距離を確保するためだった。それには磯崎家の歴史を遡ることが必要となり、その過程では俳人でもあった父・操次(俳名・藻二)の句のなかに、息子の建築との思わぬ暗合を見出すことになった。あるいは、瀧口修造が「長い詩」と呼んだ最初の著作『空間へ』に収められたテクスト群を初出に遡って読み直すことにより、この建築家における「建築」という観念のなまなましい原形に触れ得たように思った。十九歳の磯崎さんが同人誌に描いたと推測されるイラストの発見も思い出深い。二〇二二年末の磯崎さんの死去以前にその調査ができていれば、ご本人に事実を確認することができたかもしれぬ。その点ばかりではなく、何よりも生前に拙著をお届けできなかったことが返す返すも無念でならない。

本書の後半は磯崎さんの没後に書かれている。連載開始時には濃厚だった、磯崎さんの言説に操られる「腹話術人形」にはなるまいという警戒感めいた意識は徐々に薄れ、死去直後に発表された第14章の「つくばセンタービル」論あたりを境に、磯崎新が紡ぎ出すイメージと言葉の海に深く沈み込んでゆく技を、わたしもいささかは身に付けたように思える。磯崎さん流に言えば、本書においてはもはや、「誰が語っていてもよい」のである。読者はそんな語り手自身の変容も本書のうちに読み取ることだろう。

だが、何よりもまず身体的に感じ取ってほしいのは、磯崎新という建築家の想像力のなかでプラトン立体の数々から生成される空間や、それを内観的に追う建築家自身の言語のダイナミックな運動である。たとえば、『手法が』という著書名の「が」は、磯崎さんにとっての「手法」が、気づけばすでに現前して作動していることを表わしている。松浦寿輝さんが吉田健一の文体における「が」について指摘しているように(『黄昏の光 吉田健一論』)、この「が」は──「は」と比べて──活劇的ですばやいのだ。その所説を借りて言えば、本書もまた、「磯崎新は……である」と、話者が肯定的な確信のもとに何かを提示する書物であるよりは、「磯崎新が」と語る「活劇」でありたいと願っている。

磯崎さんはそんなすばやい運動体を「デミウルゴス」と名づけた。「建築」を産出する根源であると同時に「建築」を扼殺するものでもあるという、この謎めいた運動体の両義性は、「建築」と「反建築」をめぐる磯崎さんの、いわば「二重スパイ」のような立場に由来する。この言葉を使うのは、三島由紀夫が「文化防衛論」に対する橋川文三による批判に応えて、橋川の文体の冴えや犀利さを「悪魔に身を売つた」「もつとも誠実な二重スパイの論理」と呼んだことにもとづく(「橋川文三氏への公開状」)。問題なのは、それが「建築」に対する二重スパイなのか、「反建築」に対するそれなのかが──おそらく磯崎さん本人にとってすら──けっして自明ではなかった点だ。その緊張感が磯崎新のスリリングな魅力の源なのだろう。ちなみに、わたしにとってデヴィッド・ボウイは(反)ロックに対する二重スパイである。どうやら二重スパイに対する抜きがたい偏愛がわたしにはあるらしい。さすれば、本書はさしずめ二重スパイをめぐる冒険活劇であろうか。

デミウルゴスとは文人・磯崎新が作り上げた神話(ミュトス)のひとつである。言葉と建築物によって語られたその神話(ミュトス)の数々のおとぎ話めいた性格にこそ、磯崎さんの創造力はもっとも鮮明に発揮されていたように思う(その点でそれはボウイの音楽におけるわらべ歌的な性質に通じる)。書籍化にあたっては、挿図もまたそんな神話(ミュトス)の魅力を伝えるものとなるように努めた。現存しない大分県医師会館(旧館)の珍しい写真などの含意を是非読み解いていただきたい。雑誌連載時に掲載した先述の同人誌イラストについては、「磯崎さんの自画像に見えた」という思いがけぬ指摘があった。著者も気づかぬそんなデミウルゴスの貌が、本書のうちに発見されることを期待している。

田中純著『磯崎新論』田中純著『磯崎新論』

関連記事