高校2年生のとき、祖父・稲木誠さんの手記を読み、「大好きだったおじいちゃん」が捕虜収容所の所長だったこと、BC級戦犯と して裁かれていたことを知った小暮聡子さん。それから20年以上の間、小暮さんは「なぜ祖父は戦犯となったのか」「戦争とは何なのか」を知りたいと、アメリカに留学し、イラク戦争勃発時のアメリカを体感したり、元捕虜の戦友会に参加したりと、調査を続けてきた。そして通信社の記者だった祖父と同じジャーナリストとなり、現在はニューズウィーク日本版の記者として働いている。

小暮さんが高校2年生の時に出会った、祖父・稲木誠さんが書いた戦争体験記。「中山喜代平」は稲木さんのペンネーム 写真提供/小暮聡子

戦後76年の終戦記念日に、小暮さんが祖父の過去を知ってから今までの道のりを 伝える「祖父と戦争の記憶」、最終回では、ニューズウィークの記者となった後の小暮さんが、祖父が所長をつとめていた収容所に実際にいた元捕虜と対面した時のことを中心にお届けし、「戦争の真実とは何か」を考察する。

 

釜石にいた捕虜が見つかった

実は、これより前の2010年、知人から「釜石にいた捕虜がアメリカで見つかった」という連絡を受けていました。待ちに待ったはずのニュースでしたが、私はその時、嬉しいというより戸惑いました。ずっと探してきたその人に、連絡していいものか分からなくなっていました。数年来、別の収容所にいた各国の元捕虜たちと交流してきて分かったのは、彼らは終戦後もずっと痛みを抱えたまま生きてきたということです。

アメリカ留学中の2003年には、釜石にいた元捕虜が米ワシントン州に存命だということをネットの情報で知り、彼の自宅に電話をかけたことがありました。しかしこちらが名乗ると、「申し訳ないけど、話せない」とすぐに切られてしまいました。まだ元捕虜の戦友会に参加する前のことだったので、私は捕虜側の痛みを本当の意味で理解できていなかったのだと思います。もしもあの時、自分の電話によって彼の苦しみの記憶をよみがえらせてしまい、悪夢にうなされるようなことになっていたらどうしようと、自分の無知を恥じその後も後悔が続きました。

元捕虜の多くは90歳を過ぎて静かな余生を送っている今、私が突然連絡をすれば当時の記憶をよみがえらせることになる。そう思うと、2010年の時点では、釜石にいたという元捕虜に連絡することがどうしても出来ませんでした。
    
ですが、心の奥底では「おじいさんについて始めた勉強を、最後までやり抜きなさい」と元捕虜の方から言われたあの言葉がずっとくすぶっていました。90歳前後と高齢の元捕虜の方に会えるチャンスは、これが最後なのかもしれない。そう思い、ニューヨーク支局に赴任すると、アメリカ人の知人を通じて釜石収容所にいたという元捕虜、ジャック・ウォーナーさんに連絡を取りました。

拒否されることも想定しつつ、私が連絡したがっていると伝えてもらったのですが、オクラホマ州に住む91歳のウォーナーさんは私から直接電話することを了承し、その後の電話ではなんと彼を訪ねて行くことを許可してくれました。それでも、電話越しでウォーナーさんは「イエス」しか語らず、こちらを警戒している様子が伝わってきました。私はウォーナーさんを訪ねる前に手紙を書き、自分が今まで調べてきたことと共に今回の訪問の趣旨を説明しました。祖父の管理下で捕虜生活を送った彼に手紙の中で「謝る」べきかどうかとさんざん迷い、何度も書き直した末、どんな話をするのかは会ってから考えようとその一言は結局書かずに投函しました。