
千本鳥居の伏見稲荷と鳥羽伏見
京都千本鳥居の伏見稲荷と鳥羽伏見
まいどまいど! 大阪と京都市の伏見区とのつながりをどんどん発掘していきまひょ! 大阪市中央区で大阪城を築城し、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、伏見桃山城を築城。 かつては、徳川秀忠も来はったといい、立派な天守閣が当時を物語ってはりまんな。 また、京阪電車の伏見稲荷駅を下車後、しばらく歩いてみると見えてくのは立派な鳥居と伏見稲荷大社。 ここは、千本鳥居で有名な場所でおまして、実際に境内を歩いてみみますと、ホンマぎょうさんの鳥居に圧巻でんな。 ほんでまた伏見は歴史の舞台としても有名な場所がもう一つ。 それは鳥羽離宮公園近くにある鳥羽伏見の戦いの激戦地。 付近には平安時代から残る鳥羽離宮がおまして、かつては景勝地として有名やったそうですが、現在は公園として整備され、スポーツを楽しむ人の姿も。 その他、四季折々の景色を楽しむことのできる醍醐寺があり、特に春の桜や秋の紅葉の季節になると見物客でにぎわってまんねん。 伏見の街もなかなか、おもろおまっせ。
旧称は稲荷神社。 式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。 稲荷山の麓に本殿、稲荷山全体を神域とする。 全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社。 鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まり、数は約1万基で、千本鳥居と呼ばれる。
千本鳥居
千本鳥居を歩いていく。
千本鳥居
千本鳥居を歩いていく。
千本鳥居
千本鳥居を歩いていく。
楼門
楼門は重要文化財に指定。
内拝殿
内拝殿。
稲荷山
稲荷山は、神体山。 標高233m。 3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なる。 かつて、古墳として知られ、円墳が確認されている。 中世、「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼ばれていた。 「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠「お塚」が奉納、「お塚信仰」と呼ばれている。
境内の雰囲気
境内の雰囲気。
参道
伏見稲荷前の参道には多くの店舗が立ち並ぶ。
小休憩
温かい場所で居眠りをしている猫。
小休憩
休憩している猫。
甘味処、麺類、親子丼、いなり寿司、などを味わうことができる飲食店。 店内はテーブル席、座敷、その他、テイクアウトも可能。 日本の人気観光地の一つである伏見稲荷大社境内にあり、主に観光客でにぎわう。 メニューはきつねうどんといなり寿司のセットも。 1864年、創業。 また芸能界で俳優として活躍する西村和彦さんの実家として知られ、1階は茶屋・仁志むら亭、2階は住居であったとか。 かつて宿坊もあり、宿泊者もいたとか。
うどんと稲荷寿司
うどんと稲荷寿司
大正時代から昭和時代にかけて助産所兼住居として建設。 建物は木造(一部コンクリート造)2階建ての洋館、木造2階建ての和館で構成。
世界発信型商業施設。 2023年、世界に誇る日本の食文化やお土産プロダクトが集合した施設として開業。 居酒屋チェーンの鳥貴族が運営する「トリキバーガー」やフードコート、展示会型のお土産ショップ「伏見稲荷おみやげ横丁」、屋上はテラス席の休憩スペースで構成。
公園として整備され、園内にはグラウンドや池などがあり、市民の憩いの場となっている。 平安時代、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇により使用された院御所の跡。 別名、鳥羽殿、城南離宮。 東西1.5km、南北1kmの敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建ち並んでいた。 現在、周辺には安楽寿院、白河天皇陵、鳥羽天皇陵、近衛天皇陵、城南宮、秋の山(築山)がある。 当地付近は鴨川と桂川の合流地点にあたり、山陽道も通る交通の要衝として発展。 平安京造営時には朱雀大路を延長し、鳥羽作道も作られ、外港としての機能を持った。
貴族が
貴族達は狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても知られ、貴族達の別邸が建ち並んだとか。 院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上、大規模な拡張工事を行い、南殿、東殿を建設。 邸内に三重の塔を中心とした安楽寿院を造営。 鳥羽上皇の代にも泉殿などを増設。 政変の際に平清盛の命令により後白河法皇が幽閉、院政が停止。 南北朝時代、戦火によって焼失して荒廃。
1868年、鳥羽・伏見の戦いが勃発、後の戊辰戦争の初戦とも。 鳥羽街道を封鎖した薩摩藩兵と街道の通行を求める旧幕府軍先鋒が接触。 薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答するも小枝橋付近で対峙。 大目付の滝川具挙の家臣も断念、業を煮やした旧幕府軍は隊列を組んで前進を開始、強引に押し通る旨を通告。 薩摩藩側も通行を許可しない旨を回答したが、銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は混乱。 歩兵隊は不意の攻撃に狼狽、旧幕府軍の先鋒は潰走、見廻組など一部が踏みとどまって抗戦、後方を進行した桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始。
鳥羽伏見の戦い
旧幕府軍は再三攻勢を掛けるが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、下鳥羽方面に退却。 伏見でも通行を巡って問答が繰り返され、鳥羽方面での銃声と同時に戦端が開かれた。 旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖、奉行所を包囲する形で布陣。
鳥羽伏見の戦い
会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛け、高台に布陣した薩摩藩砲兵等が銃砲撃。 薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中、奉行所は炎上。 新政府軍は周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃、旧幕府軍は支えきれず退却を開始、伏見奉行所に突入。
鳥羽伏見の戦い
旧幕府軍は堀川を超え、中書島まで撤退、竹中重固は部隊を放置し、淀まで逃げ落ちた。 鳥羽では竹中重固、滝川具挙の逃亡で混乱、旧幕府軍は縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。 朝廷では緊急会議が召集、大久保と春嶽で会議は紛糾、議定の岩倉が徳川征討に賛成、会議の大勢は決した。
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別名、方除の大社。 摂社の真幡寸神社は式内社、旧社格は府社。 祭神は、息長帯日売尊(神功皇后)、八千矛神(大国主神)、国常立尊、天照皇大神、品陀別命、別雷神、大山咋神、天児屋根命、宇気毛智神。 創建時期など詳細は不明。 平安遷都の際、国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀り、城(平安京)の南に位置することから「城南神」と呼ばれた。 白河天皇が鳥羽離宮(城南離宮)を造営後、離宮の一部となり、代々の天皇や上皇の行幸があった。 京都御所の裏鬼門を守る神となったことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰された。 応仁の乱などの戦乱で荒廃、江戸時代に復興。
鳥羽伏見の戦い
1863年、孝明天皇の攘夷祈願の行幸。 1868年、新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった鳥羽・伏見の戦いの主戦場とも。 1876年、式内社「真幡寸神社」に比定され、社名を「真幡寸神社」に改称。 1968年、「城南宮」に復し、「真幡寸神社」はその境内摂社として社殿を設けて奉祀。 近年では毎年7月に自動車の茅の輪くぐりが行われる。
伏見稲荷大社
摂社の真幡寸神社は深草の地にあり、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。 1438年、稲荷山の山頂にあった稲荷の祠を麓の藤尾に遷座させて伏見稲荷大社に、その地にあった藤尾社を藤森に遷座させて藤森神社とし、藤森の地にあった真幡寸神社を現在地に遷座。
歩道橋も
境内の鳥居は城南宮鳥居と呼ばれ、基本型は神明鳥居に属するが、柱下に饅頭があり、棟の部分に島木・笠木を重ねて、さらに屋根を葺いている。 その島木の正面中央に神紋の金具が打たれている。 1965年、城南宮に隣接する国道1号には地元歩行者と参詣者の安全を確保するために私費で歩道橋「とわのかけはし」が架けられたが、老朽化のために2010年に撤去。
1998年、京セラ株式会社が設立した美術館。 施設内では、パブロ・ピカソの「銅版画347シリーズ」、日本画、洋画、彫刻のほか、ガラス工芸品、ファインセラミック「玉磁」を収蔵、公開。 また、京セラ創業60周年を記念した企業博物館の京セラファインセラミック館やショールームが併設。
南の巨椋池は水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。 1592年、朝鮮出兵(文禄の役)開始後に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月に築城、指月伏見城、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んだ。 1594年、秀吉が入城後、完成したが、慶長伏見地震によって倒壊。 1597年、木幡山に築城後、完成。 秀吉の死後、豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移った。 五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。 関ヶ原の戦いの際、家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、西軍の石田三成派に攻められて落城。 1602年、伏見城を再建後、廃城。 廃材は、二条城に移った。
伏見城の今
近年の発掘調査から、多くの金瓦が出土している。 金瓦とは瓦の上に漆を塗り、その上に金箔を貼ったもの。
真言宗醍醐派総本山の寺院。 山号は、醍醐山。 本尊は、薬師如来。 開基は、理源大師聖宝。 「古都京都の文化財」として世界遺産に登録。 874年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。 醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とし、大伽藍「下醍醐」が発展した。 戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。
紅葉
醍醐山は、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。 また、秋になると紅葉が美しく、参拝客だけでなく多くの見物客も訪れる。
祭神は、菅原道真。 付近には菅原道真の衣裳塚がある。 道真は醍醐寺を開いた聖宝と親交があり、醍醐寺に訪れた。 その際、聖宝に「自分が死んだらこの地に墓を立ててほしい」と願った。 道真は太宰府で没した。 その衣服と遺物が太宰府から運び込まれ、観賢が埋めた。 道真に左遷を命じた醍醐天皇の陵墓と道真の衣装塚までは直線距離にして約800mであるとか。
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源頼政は平冶の乱のとき、源氏でありながら平家の平清盛に属し功績を立てた。 後白河法皇皇子の以仁王の命により、平家を打つことを企てる。 しかし、清盛に察知され園城寺(三井寺)より脱出し、宇治へと向かう。