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八咫烏で有名な熊野本宮大社境内をめぐる
和歌山八咫烏で有名な熊野本宮大社境内をめぐる
まいどまいど! 和歌山県を代表する熊野三山の一つ熊野本宮大社。 熊野三山とは熊野速玉大社、熊野那智大社とを合わせた3社のことで熊野本宮大社は別名、別名、那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社、熊野十二所権現、十三所権現、那智山権現とも。 またユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部ともなっており、参詣道にはぎょうさんの人が行き交ってはります。 那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、如意輪堂(青岸渡寺)と神仏習合して一体化、その全員が社僧という修験者達の霊場に。 かつては違う場所にも鎮座していたといい、今回はその2か所を散策してみました。
熊野速玉大社、熊野那智大社と並ぶ熊野三山の一つ。 祭神は熊野夫須美大神。 別名、那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社、熊野十二所権現、十三所権現、那智山権現。 ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部。 孝昭天皇の頃、インドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀り、仁徳天皇の頃に鎮座。 那智滝を神聖視する原始信仰に始まる。 妙法山に登るための禊祓の地で那智滝が聖地化、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建。 仁徳天皇の頃、社殿が現在地に移転。
東座と西座
那智山には禰宜や神主などの神職は存在せず、如意輪堂(青岸渡寺)と神仏習合して一体化、その全員が社僧という修験者達の霊場となった。 社僧が東座と西座に分けられ、両座にはそれぞれ東の長官、西の長官が置かれ、執行と呼ばれつつ一山を管理。
東座執行
東座執行を受け持ったのは那智最古の家柄という潮崎尊勝院。 西座執行は西仙滝院が担当し、米良実方院に替わった。 承久の乱で後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失い、三山の御師と先達による組織づくりが盛んとなった。 紀州藩主浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村を与えられた。 1798年、高遠藩の砲術家・坂本天山は、建造物が壮麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多かったとも。
熊野速玉大社、熊野那智大社と並ぶ熊野三山の一つ熊野本宮大社の境内にある郵便ポスト。 2009年、御神木の多羅葉付近に設置。 ポストの上には3本足の八咫烏の像。 かつて愛知県内で造られた鋳物製の丸い赤ポストを再利用したとか。 黒は全ての色を合わせた尊い色、神の遣いである八咫烏の色、本宮の大地を象徴する神聖な色としている。 多羅葉の木は、葉の裏に爪などで文字を書いたことが葉書の語源となり「葉書の木」「手紙の木」とも。
熊野本宮大社旧社地。 神が舞い降りたという説があり、近年はパワースポットとしても人気を集めている。 熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲「大斎原」に位置していた。 当時、境内には五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台などがあり、現在の数倍の規模であったとか。
歩いて川を渡った
江戸時代まで橋がなく、参拝には歩いて川を渡ったとか。 音無川の冷水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたという。 1889年、大水害が発生し、社殿が流出。 水害を免れた4社を現在地に遷座。