「日本の軍事史」の版間の差分
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m →平氏政権の誕生: 河内源氏全体が滅んだわけではないので |
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両乱に功績のあった清盛は[[参議]]に任命され、武士で初めて[[公卿]]の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、[[平氏政権]]が誕生した。現在ではこれを最初の[[武家政権]]と見る説が有力である。[[治承三年の政変]](1179年)で[[後白河天皇|後白河法皇]]の[[院政]]が停止され、平家一門は全国のおよそ半分にあたる32カ国を[[知行国]]とすることとなった。平氏の知行国の増加は全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった<ref>上横手雅敬/元木泰雄/勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』中央公論新社、2002年。川合康『日本の中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年。</ref>。
===治承・寿永の乱
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このような中、1180年に後白河法皇の皇子である[[以仁王の挙兵|以仁王]]が平家に対して挙兵した。これは直ちに鎮圧されたが、東国で
一方の義仲は1183年に[[倶利伽羅峠の戦い]]で平家に勝利した。平家は[[安徳天皇]]を伴い西に逃れた。義仲は京都に入るものの京都の治安維持に失敗する。後白河上皇は頼朝に上洛を促し、これを受けて弟の[[源範頼]]、[[源義経]]を派遣する。この鎌倉軍は義仲軍に勝利し、さらに[[一ノ谷の戦い]]、[[屋島の戦い]]、[[壇ノ浦の戦い]]で平家に勝利した。
この1180年から1185年にかけての一連の戦いは[[治承・寿永の乱]]と呼ばれる。頼朝は傘下の武士に対して独自の本領[[安堵]]や占領した土地の給付などを実施し、これを梃子にして大軍が長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した<ref>三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」</ref>。これに対して平家は、知行国からの動員を図るなどしたが、十分な兵力の確保は出来なかった。
鎌倉幕府は、それまでの[[朝廷]]・[[摂関家]]の権威・姻戚関係などに基盤を置いた不安定な武士の立場を改め、朝廷にも対峙できる実力体制の[[武家政権]]を実現した<ref group="注">これに対し当時の朝廷貴族の捉え方の中には、平将門の事例に似ているとするものもあった。</ref>。1180年には、早くも、武士による[[論功行賞]]を歴史上初めて行い、また[[侍所]]を設けた。▼
===鎌倉幕府の成立===
平家に勝利した頼朝は[[鎌倉]]に[[武家政権]]を樹立する。文治元年(1185年)の[[文治の勅許]]で諸国への守護・地頭職の設置・任免をが頼朝に許可されるが、これをもって[[鎌倉幕府]]の成立とする考えが有力である。頼朝はさらに[[奥州藤原氏]]を滅ぼし([[奥州合戦]])、東国全体を支配下においた。
▲鎌倉幕府は、それまでの[[朝廷]]・[[摂関家]]の権威・姻戚関係などに基盤を置いた不安定な武士の立場を改め、朝廷にも対峙できる実力体制の[[武家政権]]を実現した<ref group="注">これに対し当時の朝廷貴族の捉え方の中には、平将門の事例に似ているとするものもあった。</ref>
従来から武士の主従には[[御恩と奉公]]という関係があった。[[御恩]]とは、主人が従者の所領支配を保障すること、又は新たな土地給与を行うことである。[[奉公]]は従者の[[軍役]]・経済負担などである。鎌倉幕府の成立によりこの関係は公的なものとなった。[[鎌倉殿]]と直接主従関係を結んだ武士は[[御家人]]と呼ばれたが、関東地方で一国数十名、地方では一国あたり十名程度であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だった。
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[[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|350px|right|thumb|文永の役における[[元寇|鳥飼潟の戦い]]。元軍に突撃する[[竹崎季長]]と応戦、敗走する元兵。(『[[蒙古襲来絵詞]]』前巻・絵7・第23紙)]]
幕府の軍事制度は[[クビライ]]による[[元寇]]に対する防衛でも活用され、1274年の[[文永の役]]では[[博多]]に上陸した元軍の進撃を内陸部で阻止し、1281年の[[弘安の役]]では事前に御家人だけではなく[[非御家人]]の武士までを動員して[[元寇防塁|防塁]]を建設し、内陸部への侵攻を許さなかった。しかし、戦いには勝利したものの、鎌倉幕府は報酬として
なお、この当時の甲冑や刀剣は明珍や[[正宗]]などの名工や鍛冶集団によって高度化されている。
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