ジェリー・ウェスト
ジェローム・アラン・ウェスト(Jerome Alan West, 1938年5月28日 - 2024年6月12日)は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州チェリアン出身の元プロバスケットボール選手、指導者、エグゼクティブ。NBAのロサンゼルス・レイカーズで選手、ヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーとして活躍した。現在のNBAのロゴ(赤と青を背景にドリブルをする白いシルエット)[1]は、ウェストをモデルにしたものである。
ホワイトハウス訪問時のウェスト (2019年) | |||||||||||||||||||||
故人 | |||||||||||||||||||||
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愛称 |
Mr.Clutch the Logo | ||||||||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1938年5月28日 | ||||||||||||||||||||
没年月日 | 2024年6月12日(86歳没) | ||||||||||||||||||||
出身地 | ウェストバージニア州チェリアン | ||||||||||||||||||||
死没地 | カリフォルニア州ロサンゼルス | ||||||||||||||||||||
身長(現役時) | 191cm (6 ft 3 in) | ||||||||||||||||||||
体重(現役時) | 79kg (174 lb) | ||||||||||||||||||||
キャリア情報 | |||||||||||||||||||||
高校 | イースト・バンク高等学校 | ||||||||||||||||||||
大学 | ウェストバージニア大学 | ||||||||||||||||||||
NBAドラフト | 1960年 / 1巡目 / 全体2位[1] | ||||||||||||||||||||
ミネアポリス・レイカーズから指名 | |||||||||||||||||||||
プロ選手期間 | 1960年–1974年 | ||||||||||||||||||||
ポジション | PG / SG | ||||||||||||||||||||
背番号歴 | 44 | ||||||||||||||||||||
永久欠番 | レイカーズ 44 | ||||||||||||||||||||
指導者期間 | 1976年–1979年 | ||||||||||||||||||||
経歴 | |||||||||||||||||||||
選手時代: | |||||||||||||||||||||
1960–1974 | ミネアポリス / ロサンゼルス・レイカーズ | ||||||||||||||||||||
コーチ時代: | |||||||||||||||||||||
1976–1979 | ロサンゼルス・レイカーズ | ||||||||||||||||||||
受賞歴 | |||||||||||||||||||||
選手時代
エグゼクティブ時代
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NBA通算成績 | |||||||||||||||||||||
得点 | 25,192 (27.0 ppg) | ||||||||||||||||||||
リバウンド | 5,366 (5.8 rpg) | ||||||||||||||||||||
アシスト | 6,238 (6.7 apg) | ||||||||||||||||||||
Stats Basketball-Reference.com | |||||||||||||||||||||
HC通算記録 | |||||||||||||||||||||
NBA | 145–101 (.589) | ||||||||||||||||||||
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細) | |||||||||||||||||||||
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年) | |||||||||||||||||||||
代表歴 | |||||||||||||||||||||
キャップ | アメリカ合衆国 | ||||||||||||||||||||
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少年期と学生時代
編集ウェストは炭鉱で電気技師として働く父のもとに生まれた。慎ましい少年時代を送りながら、自宅の近隣などでバスケットボールの練習を重ねた。その熱心さのあまりビタミン剤の注射を受けたことがあった。
地元の高校では長らく控え選手だったが、最終学年の前までに身長が10センチ以上伸び、チームの中心として活躍するようになった。ウェストは州の高校バスケットボール史上初めて900点以上を得点した選手になり、チームを州大会優勝に導いた。
60以上の大学から誘いを受けたが、地元のウェストバージニア大学に進んだ。大学でチームの正式な選手としてプレーし始めた2年生の時には平均17.8得点11.1リバウンド、3年生時には26.6得点12.3リバウンド、4年生になると29.3得点16.5リバウンドをあげ、全国的に注目される選手になった。3年生の時にチームはNCAA男子バスケットボールトーナメント決勝に進出したが1点差で敗れた。準決勝以上で際立った活躍で大会最優秀選手に選ばれた。
大学でのプレーを終えた1960年の夏、ローマオリンピックに出場し、金メダルを獲得した。この時の代表チームにはオスカー・ロバートソンもいた。
プロのキャリア
編集1960年のNBAドラフトでオスカー・ロバートソンに次ぐ全体2位でミネアポリス・レイカーズに指名された。まもなくレイカーズはロサンゼルスに移転し、ロサンゼルス・レイカーズとなった。
1年目のシーズン、平均17.6得点、4.2アシスト、7.7リバウンドと優秀な成績を残した。レイカーズは36勝48敗と負け越したがプレーオフでは地区決勝まで進み、当時強豪だったセントルイス・ホークスに3勝4敗で敗退した。新人王はロバートソンが獲得した。
翌シーズンは平均30.8得点(リーグ5位)、5.4アシスト(リーグ6位)、7.9リバウンドと活躍し、オールNBAファーストチームに初めて選出され、引退するまでの間にこの賞を10回受賞することになる。1962年1月17日に1試合63得点を記録した[2]。
レイカーズはプレーオフを勝ち進み1962年のNBAファイナルに進出するが、ボストン・セルティックスに敗退。これ以降もレイカーズはファイナルでセルティックスと幾度も対戦し、その度に敗れることが繰り返され、優勝には届かないスター選手として過ごしていった。
ウェスト個人の活躍は目覚ましく、1965年の平均31得点はリーグ2位、1970年の31.2得点はリーグ首位と高い水準の得点を記録し続け、チームも1962年、1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1970年にNBAファイナルに進出した。このうち1969年までは全てセルティックスに、1970年にはニューヨーク・ニックスに敗れ、優勝を逃した。1962年のNBAファイナルは第7戦を3点差で、1966年のNBAファイナルには同じく第7戦を2点差で、1969年のNBAファイナルも第7戦を2点差で落とした接戦だった。この第7戦では42得点・13リバウンド・12アシストで、ファイナルでは史上初の40得点以上によるトリプルダブルで、この記録は2015年のNBAファイナルでレブロン・ジェームズが記録するまでは唯一であった。
1970年のNBAファイナル第3戦で放ったシュートはよく知られている。試合間終了間際にコート中央から打ったシュートがブザーと同時に決まって同点、試合は延長に続くことになった。レイカーズは結局この試合を2点差で落とし、最終の第7戦にも敗れ優勝を逃した。
1971-72シーズン、既に30歳を過ぎており怪我も多かったウェストは引退も考えたが、このシーズンのレイカーズは歴史的な躍進を果たすことになった。リーグ新記録である33連勝を含めてシーズン成績は69勝13敗。ウェストの平均9.7アシストはリーグ首位となった。1972年のNBAファイナルに進んだレイカーズはニューヨーク・ニックスを4勝1敗で破り、自身初の優勝を経験した。
その後2シーズンを過ごしたウェストは、怪我で31試合の出場に留まった1973-74シーズンが終了すると引退した。
指導者とエグゼクティブのキャリア
編集引退後のウェストは、1976年より3シーズンにわたってレイカーズの監督を務めた。この間145勝101敗で勝率58.9%だった。プレーオフを逃していたレイカーズを3年連続でプレーオフに進出させた。初年度に地区決勝で敗れたのが最高の成績で翌年は1回戦敗退、3年目は地区準決勝敗退だった。
1979年よりコンサルタントとしてレイカーズのフロントに入り、この役職で2年間を過ごした。1982年にはゼネラルマネージャーとして選手人事に関わる仕事を受け持つことになった。当時のレイカーズはカリーム・アブドゥル=ジャバーやマジック・ジョンソンを擁し、前年度よりパット・ライリー監督を据えた強豪になっていた。さらにジェームズ・ウォージーを加えたレイカーズは1980年代に黄金時代を迎え、これらの選手を核にしてチームの補強に努めた。
1980年代の終わりにアブドゥル=ジャバーが引退すると、ユーゴスラビア人のブラデ・ディバッツを獲得。ディバッツはNBAで活躍した最も初期のヨーロッパ人となった。レイカーズは1990年代前半には低迷期に入ったが、チームのバスケットボール部門取締役副社長に昇格した1994-95シーズンにエディー・ジョーンズなどを獲得し、48勝34敗まで持ち直したことにより、NBA最優秀役員賞を受賞した。
1996年、シャキール・オニールとコービー・ブライアントを獲得した。2000年にフィル・ジャクソン監督を招聘するとレイカーズは2000年のNBAファイナルに進み12年ぶりに優勝し、ここから3連覇した。ウェストが選手人事の仕事に携わって以降で合計7回目の優勝となった。
2002年、レイカーズのフロントを退き、メンフィス・グリズリーズとバスケットボール部門社長として契約し、同チームへ赴いた。グリズリーズはチーム創設以来成績が低迷していたが、ヒュービー・ブラウンを監督に迎え入れ、このシーズンは過去最高の記録だった28勝54敗で乗り切った。翌シーズンは50勝32敗と躍進し、レイカーズ時代に続き2度目のNBA最優秀役員賞を受賞した。2007年に辞任。
NBA個人成績
編集略称説明 | |||||
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GP | 出場試合数 | GS | 先発出場試合数 | MPG | 平均出場時間 |
FG% | フィールドゴール成功率 | 3P% | スリーポイント成功率 | FT% | フリースロー成功率 |
RPG | 平均リバウンド数 | APG | 平均アシスト数 | SPG | 平均スティール数 |
BPG | 平均ブロック数 | TO | 平均ターンオーバー数 | PPG | 平均得点 |
太字 | キャリアハイ | * | リーグリーダー | † | 優勝シーズン |
レギュラーシーズン
編集シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
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1960–61 | LAL | 79 | – | 35.4 | .419 | – | .666 | 7.7 | 4.2 | – | – | 17.6 |
1961–62 | 75 | – | 41.2 | .445 | – | .769 | 7.9 | 5.4 | – | – | 30.8 | |
1962–63 | 55 | – | 39.3 | .461 | – | .778 | 7.0 | 5.6 | – | – | 27.1 | |
1963–64 | 72 | – | 40.4 | .484 | – | .832 | 6.0 | 5.6 | – | – | 28.7 | |
1964–65 | 74 | – | 41.4 | .497 | – | .821 | 6.0 | 4.9 | – | – | 31.0 | |
1965–66 | 79 | – | 40.7 | .473 | – | .860 | 7.1 | 6.1 | – | – | 31.3 | |
1966–67 | 66 | – | 40.5 | .464 | – | .878 | 5.9 | 6.8 | – | – | 28.7 | |
1967–68 | 51 | – | 37.6 | .514 | – | .811 | 5.8 | 6.1 | – | – | 26.3 | |
1968–69 | 61 | – | 39.2 | .471 | – | .821 | 4.3 | 6.9 | – | – | 25.9 | |
1969–70 | 74 | – | 42.0 | .497 | – | .824 | 4.6 | 7.5 | – | – | 31.2 | |
1970–71 | 69 | – | 41.2 | .494 | – | .832 | 4.6 | 9.5 | – | – | 26.9 | |
1971–72 | 77 | – | 38.6 | .477 | – | .814 | 4.2 | 9.7 | – | – | 25.8 | |
1972–73 | 69 | – | 35.7 | .479 | – | .805 | 4.2 | 8.8 | – | – | 22.8 | |
1973–74 | 31 | – | 31.2 | .447 | – | .833 | 3.7 | 6.6 | 2.6 | 0.7 | 20.3 | |
通算:14年 | 932 | – | 39.2 | .474 | – | .814 | 5.8 | 6.7 | 2.6 | 0.7 | 27.0 | |
オールスター | 12 | 11 | 28.4 | .453 | – | .720 | 3.9 | 4.6 | – | – | 13.3 |
プレーオフ
編集シーズン | チーム | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
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1961 | LAL | 12 | – | 38.4 | .490 | – | .726 | 8.7 | 5.3 | – | – | 22.9 |
1962 | 13 | – | 42.8 | .465 | – | .807 | 6.8 | 4.4 | – | – | 31.5 | |
1963 | 13 | – | 41.4 | .503 | – | .740 | 8.2 | 4.7 | – | – | 27.8 | |
1964 | 5 | – | 41.2 | .496 | – | .792 | 7.2 | 3.4 | – | – | 31.2 | |
1965 | 11 | – | 42.7 | .442 | – | .890 | 5.7 | 5.3 | – | – | 40.6 | |
1966 | 14 | – | 44.2 | .518 | – | .872 | 6.3 | 5.6 | – | – | 34.2 | |
1967 | 1 | – | 1.0 | – | – | – | 1.0 | 0.0 | – | – | 0.0 | |
1968 | 15 | – | 41.5 | .527 | – | .781 | 5.4 | 5.5 | – | – | 30.8 | |
1969 | 18 | – | 42.1 | .463 | – | .804 | 3.9 | 7.5 | – | – | 30.9 | |
1970 | 18 | – | 46.1 | .469 | – | .802 | 3.7 | 8.4 | – | – | 31.2 | |
1971 | 15 | – | 40.5 | .376 | – | .830 | 4.9 | 8.9 | – | – | 22.9 | |
1973 | 17 | – | 37.5 | .449 | – | .780 | 4.5 | 7.8 | – | – | 23.6 | |
1974 | 1 | – | 14.0 | .222 | – | – | 2.0 | 1.0 | 0.0 | 0.0 | 4.0 | |
出場:13回 | 153 | – | 41.3 | .469 | – | .805 | 5.6 | 6.3 | 0.0 | 0.0 | 29.1 |
ヘッドコーチ成績
編集NBAヘッドコーチ実績表略号説明 | |||||||||
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レギュラーシーズン | G | 試合数 | W | 勝利数 | L | 敗戦数 | W–L % | レギュラーシーズン勝率 | |
ポストシーズン | PG | 試合数 | PW | 勝利数 | PL | 敗戦数 | PW–L % | プレイオフ勝率 |
チーム | シーズン | G | W | L | W–L% | シーズン結果 | PG | PW | PL | PW–L% | 最終結果 |
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LAL | 1976–77 | 82 | 53 | 29 | .646 | パシフィック1位 | 17 | 9 | 8 | .529 | カンファレンスファイナル敗退 |
1977–78 | 82 | 45 | 37 | .549 | パシフィック4位 | 3 | 1 | 2 | .333 | カンファレンスセミファイナル敗退 | |
1978–79 | 82 | 47 | 35 | .573 | パシフィック3位 | 8 | 3 | 5 | .375 | カンファレンスセミファイナル敗退 | |
Career | 246 | 145 | 101 | .589 | 22 | 8 | 14 | .364 |
私生活
編集2019年6月1日、ドナルド・トランプ大統領はウェストに大統領自由勲章を授与することをTwitterで発表した[3]。
2018年、バスケットボール映画アンクル・ドリューに本人役で出演。そこでウェストのNBAのロゴのモデルの話が少し出ている。
2024年6月12日の朝に死去。86歳没[4]。
関連項目
編集脚註
編集- ^ NBA.com
- ^ “New York Knicks at Los Angeles Lakers Box Score, January 17, 1962”. Basketball-Reference.com. 2021年8月9日閲覧。
- ^ The Great Jerry West will be receiving our Nation's highest civilian honor, The Presidential Medal of Freedom, for his outstanding career, both on and off the court. Happy Birthday Jerry! @Sen_JoeManchin
- ^ Tasch, Justin (2024年6月12日). “Jerry West, NBA and Lakers legend, dead at 86”. New York Post. 2024年6月12日閲覧。
外部リンク
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