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ユダヤ人

ユダヤ教信者とその子からなる宗教信者

ユダヤ人(ユダヤじん、ヘブライ語: יהודים[注 1]英語: Jewsラディーノ語: Djudiosイディッシュ語: ייִדן[注 2])は、ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のこと。原義は狭義のイスラエル民族のみを指した。由来はイスラエル民族のひとつ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことからきている。

ユダヤ人
総人口
1,400-1,500 万人(2014年現在)[1]
居住地域
イスラエルの旗 イスラエル 6,135,000[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ5,425,000[1]
フランスの旗 フランス478,000[1]
カナダの旗 カナダ380,000[1]
イギリスの旗 イギリス375,000[1]
ロシアの旗 ロシア190,000[1]
アルゼンチンの旗 アルゼンチン181,500[1]
ドイツの旗 ドイツ118,000[1]
オーストラリアの旗 オーストラリア112,500[1]
ブラジルの旗 ブラジル95,200[1]
南アフリカ共和国の旗 南アフリカ77,500[1]
ウクライナの旗 ウクライナ65,000[1]
ハンガリーの旗 ハンガリー48,000[2]
メキシコの旗 メキシコ40,000[1]
ベラルーシの旗 ベラルーシ30,000[3]
ベルギーの旗 ベルギー31,200[4]
オランダの旗 オランダ29,900[4]
イタリアの旗 イタリア28,600[4]
エチオピアの旗 エチオピア26,196[5]
イランの旗 イラン25,000[6]
チリの旗 チリ20,700[4]
ウルグアイの旗 ウルグアイ18,000[4]
スウェーデンの旗 スウェーデン18,000[7]
トルコの旗 トルコ17,800[4]
カザフスタンの旗 カザフスタン12,000-30,000[8]
スペインの旗 スペイン12,000[4]
オーストリアの旗 オーストリア9,000[4]
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン6,800[4]
デンマークの旗 デンマーク6,400[4]
言語
ユダヤ諸語
宗教
ユダヤ教
関連する民族
アラブ人および他のセム人

ヨーロッパでは19世紀中ごろまでは、イスラエル民族としての用法以外には主としてユダヤ教の信者というとらえ方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは宗教的民族集団としてのとらえ方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[9]

現在の調査では、全世界に1,340万を超えるユダヤ教徒が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人やセム人と表記されることもある。

ユダヤ教徒はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派の民族集団として定着した[10]

言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている[11]。ユダヤ人には、中東諸国にルーツを持つミズラヒム、ヨーロッパ系のアシュケナジムの区別がある。イスラエル国内で両者の数は半々しなものの、 社会的地位・経済力には大きな格差があり、エリート層の多くはアシュケナジムによって占められている[12][13]。イスラエル国内で前者の多数は労働者階級でネタニヤフ首相を支持し、エリート階級である後者に対する敵意を持っており、国内対立が起きている[13]

定義

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「ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義は、古代・中世にはあてはまるが、近代以降ではユダヤ教徒の家系でキリスト教に改宗した人々(フェリックス・メンデルスゾーングスタフ・マーラーハインリヒ・ハイネベンジャミン・ディズレーリ)や無神論者(両属性ユダヤ)の人々(ジークムント・フロイトカール・マルクスなど)も「ユダヤ人」とみなされることが多い。

なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、Israeli(イスラエル人)である。

イスラエルの国内法である帰還法は「ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者」をユダヤ人と定義している。

また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母親がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母親が非ユダヤ人で父親がユダヤ人という場合)もユダヤ人として扱うことが多い。

 
M. Gottlieb画、シナゴーグで祈るユダヤ人(1878年
 
11世紀の翻訳書
 
 ?オスマン帝国のユダヤ系人の旗(1453年 - 1793年)

過去の人種学ではユダヤ人という人種が存在しているという考え方もあった。ゴビノーはアラブ人とユダヤ人をあわせてセム人種と呼び、これを白人の中でも他人種との混血度の高い二級集団と断じた[14]ナチズムはユダヤ人を人種として扱っているが、帝国市民法第一施行令による分類では、形式的にユダヤ教組織に属した人間も「人種としてのユダヤ人」になるとされた[15]

こうした見方からはユダヤ人特有の外見の特徴が存在するとされ、これに基づいた差別的検査も行われていた。しかし、ユダヤ人を身体的形質によって他と区別しうる集団としてとらえることはできず[16]、すでに白人のみならず多数の黒人がともにユダヤ人として認められている。

現代社会ではユダヤ人はおおむね居住地のほかの住民と同化しており、これを血統主義的観点からのみ区分することはできない。そのため、ユダヤ人のハーフやクオーターといった形容は、まず用いられない。ドイツの文芸評論家マルツェル・ライヒ=ラニツキは、自伝『わがユダヤ、ドイツ、ポーランド』(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。

大澤武男は「歴史的な見地から『ユダヤ人』をユダヤ教を信じる人々と規定するなら『ユダヤ教徒』と呼ぶべきであり、単に『ユダヤ人』と呼称するのは適当ではない」とし、ユダヤ人を人種民族と規定する見方は、19世紀以降のナショナリズム社会進化論反ユダヤ主義の産物であり、また国籍を示す用語でもないという[17]。「ユダヤ人」は、キリスト教文化圏では一種の宗教的差別概念、また少数派、無国籍放浪者としての社会的差別概念を含む言葉として用いられてきた[17]。現在、イスラエル人やユダヤ教徒、またはユダヤ教がもたらした伝統や文化を堅持している人々を指して、ユダヤ人と呼ぶとする[18]

内田樹は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[16]

「○○ユダヤ人」

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  • 同化ユダヤ人 - 全世界に散らばり、現地に「同化」した状態のユダヤ人。ユダヤ教以外の宗教を信仰する、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)以外で結婚式を挙げる、非ユダヤ人と結婚するなど。
  • 両属性ユダヤ人 - ユダヤ教に興味がない、または無神論者でユダヤ教の生活習慣に従わないため、ユダヤ人からは「非ユダヤ人」と見なされるが、ユダヤのアイデンティティーを強く持っているユダヤ人。ユダヤ人と非ユダヤ人の境界線上にあるユダヤ人。
  • 東欧系ユダヤ人(アシュケナジム) - ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫。言語はイディッシュ語(ユダヤドイツ語)。
    • 西方ユダヤ人 - フランスやドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。
    • 東方ユダヤ人 - 非ドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。
  • スペイン系ユダヤ人(セファルディム) - ユダヤ系のディアスポラのうち、おもにスペインポルトガルまたはイタリアトルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した人々、およびその子孫。言語はラディーノ語(ユダヤスペイン語)。
  • ナチズムによる定義
    • ユダヤ人 - 両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある人。非アーリア人
    • 完全ユダヤ人 - 祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」である人。信仰によらない。
    • 非ユダヤ教徒ユダヤ人 - ユダヤ人と婚姻していた人。
  • 古代ユダヤ人の生物学的子孫はパレスチナに住むユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒である。

民族性

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歴史上、ヨーロッパのキリスト教社会で多くの中傷や迫害を受けたが、現在でもユダヤ人は民族(コミュニティ・ユダヤ教徒)として存続している。

ユダヤ教徒は教義上イエス・キリストメシアと認めなかった(メシアニック・ジュダイズム異端視された)。また、イエスに従った使徒もユダヤ人であったにもかかわらず、キリストはユダヤ人によって十字架にかけられたという俗説が古代から中世にかけて流布し、それまで「神に選ばれた選民」だったユダヤ人は一転して「神(イエス)を殺した賎民」と差別されるようになった。こうした宗教的な理由や、ユダヤ人はキリスト教社会で疎まれていた金貸しが多かったという経済的理由が歴史的な反ユダヤ感情の要因としてしばしば挙げられる[19]

18世紀ごろから宗教的迫害が薄れていったことで、ユダヤ人は自由な信仰、活動が可能になり、さまざまな商工業分野でユダヤ人が活躍するようになった。近現代には企業の創業者や科学者を多数輩出している[20]

ユダヤ人はタルムードに従って行動すると思われているが、それはラビ的ユダヤ教徒の場合に限られる。ただし、一般的なユダヤ人の宗教はラビ的ユダヤ教である。ユダヤ人は何よりも学問を重視すると言われる。紀元70年ローマ軍によりイスラエルが一度滅びたときもラビ・ヨハナンが10人が入れる学校を残すことを交渉し、ローマ皇帝ティトゥスがこれを許したため、ユダヤ人は絶滅を免れた。今ではもっとも知的な民族集団のひとつと考えられており、民族別知能指数では世界でもっとも高く[21]、一例としてノーベル賞の22%、フィールズ賞の30%、チェスの世界チャンピオンの54%がユダヤ人であるとも言われる。カール・マルクスジークムント・フロイトクロード・レヴィ=ストロースなど、近現代の哲学思想方面のキーパーソンを輩出しているほか、音楽業界にもユダヤ人が多いことが知られている[22]

ただしこういった民族主義的差別(贔屓)とも捉えられやすい統計論は、大衆に誤った認識を与えることもある。すなわち、前述したようにユダヤ人とは他の「〜人」と呼ばれるような血縁集団とは異なり、あくまでも文化的集団として大枠で定義されているため、上記の統計結果から「ユダヤ人の血が流れている者は優秀な者が多い」といった結論に至るのは誤りであり、正確には「長きにわたって迫害されながらもあらゆる地域で継承されてきた歴史を持つユダヤ教の教育方法は、他言語・他文化への適応術やリスク管理能力養成などの面で優れているのではないか」といった程度の帰結にとどまる。

ドイツを中心とした地域に住みつき、中欧・東欧へ拡散したユダヤ人は、アシュケナージ(アシュケナジム)と呼ばれ、ドイツ語方言であるイディッシュ語を話していた。近代のドイツ語圏では彼らはある程度ドイツ文化に同化してドイツ語を使用するようになった。

中世前期のヨーロッパでは、ユダヤ人は農業、商業、職人などさまざまな職業に従事することができた。カロリング朝ではユダヤ人は聖書の民として保護され、11世紀頃までは国際的な交易の担い手でもあった。イタリア商人に東方貿易のお株を奪われると、ユダヤ人は消費貸借専門の貸金業に活路を見出した。中世後半期には、土地所有の禁止、ギルドからの締め出し、公職追放等により次第にユダヤ人の活動は制限されるようになり、農業手工業に従事することが困難になったユダヤ人は、質屋両替商、黄金の管理人、古物商、行商や市場での無店舗販売、芸能などで生計を立てていた。

また、世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。アルトゥル・ショーペンハウアーは「フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る」と指摘していた。こうしたことから、現在でもユダヤ人にはメディア関係が多いとされる。

またロスチャイルド家は銀行業で成功したユダヤ系財閥として知られる。19世紀末のアメリカ合衆国のユダヤ系移民もまた、金融メディア、流通業などの間隙的な業種以外の業界への参入が難しかった。ハリウッドの映画産業にはユダヤ人が創業したものが多い[23]

スファラディ(セファルディム)系ユダヤ人は、オスマン帝国圏やスペイン・フランス・オランダイギリスなどに多く、かつてはラディーノ語を話していた。キリスト教に改宗した人々はマラーノと呼ばれた。

アシュケナージや、スファラディといったヨーロッパに移り住んだユダヤ人に対して、中東地域、アジア地域に移り住んだユダヤ人はミズラヒム(ミズラヒ)と呼ばれていた。

ほかにもイランインド(おもに3集団)・中央アジアグルジアイエメンモロッコなどを含んだ大きな観念であるミズラヒム、カライ派・カライム人中国ジンバブエなどのユダヤ人のほか、インド(ミゾ族英語版)・ウガンダアバユダヤ英語版)・アメリカ黒人ブラック・ジュー)などの新たな改宗者、イスラエル建国はメシア到来まで待つべきだとするサトマール派ネトゥレイ・カルタ、キリスト教関連のメシアニック・ジュダイズムネオ・ジュダイズムなど多くの分派もある。エチオピアベルベルのユダヤ人は孤立して発展し、タルムードを持たない。

現在世界に散らばるユダヤ人は、すべてがユダヤ教徒というわけではないが、ユダヤ人にとってユダヤ教は切り離せない宗教である。写真はユダヤ人の言語(ヘブライ語)から各国語に翻訳された聖書の一部である。

ユダヤ民族の区分や宗教的集団

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世界に散らばったため、世界のユダヤ教徒のコミュニティーや宗教的集団には以下のように複数がある。

イスラエルに住むユダヤ人は、アシュケナジムと呼ばれる欧米系のユダヤ人と、それ以外のアジア・アフリカ系のユダヤ人を意味するセファルディムに大別される[12]

イシューブ

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イシューブとは、1948年5月14日イスラエル建国以前からパレスチナ地域に住んでいたユダヤ教徒

アシュケナジム

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アシュケナジム-ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々。中欧・東欧出身のユダヤ人であり、シオニズム運動の推進役を務めた。一般に教育・文化水準が高く、イスラエルでも指導的役割をになっているエリート層が多い[24]

イタリアのユダヤ教徒英語版
北部にはアシュケナジムが多い
ツァルファーティー
フランス系ユダヤ教徒英語版で、消滅した世代と残留者、新しい世代(諸地域・諸国からの移民)

セファルディム

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セファルディム-イスラエルにおける「アシュケナジム以外のユダヤ人」を広く指す言葉。このうち中東・アフリカ系だけは「ミズラヒム」と 別にする場合もある。本来は、中世にイベリア半島(スペイン、ポルトガル)に住んでおり、イベリア半島からの追放後にアジア・アフリカ地域に移住したユダヤ人の子孫を指す言葉[12]

インドと周辺のユダヤ人英語版
中国のユダヤ人英語版
ハザールのユダヤ人

ミズラヒム

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(英語版の記事「Jews by country List of Jews from the Arab World」も参照) ミズラヒムとは、セファルディムの中でもアラブ世界などイスラム教が多数派の社会に住んでいたユダヤ人の総称。 (エジプト、メソポタミア、モロッコ、トルコ、ペルシアなどのコミュニティーに関しては英語版の記事「Islam and Judaism」も参照)

ブラック・ジュー

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アバユダヤ英語版
レンバ族英語版ジンバブエ

その他

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サマリア人-旧イスラエル王国領の残留イスラエル人と、移民との間に生まれた人々
ユダヤ=キリスト教徒英語版
  • メシアニックのユダヤ教徒-ユダヤ教の一派を自認するが、旧約聖書(ヘブライ語聖書、タナハ)の預言の成就であるとして新約聖書を受け入れることから、大方のユダヤ教の立場からは異端視されている,

歴史

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古代

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旧約聖書によると、アダムから始まる。アダムの子にセツカインが居りセツに信仰が引き継がれた。大洪水によりノアの子孫だけが生き残る。ノアの子セムとハムとヤフェテが居り、セムに信仰が引き継がれた。セムからエベルに信仰が引き継がれた。エベルの時代にニムロドがバベルの塔を建設。エベルは信仰を守っていたので言語を混乱させられなかったためヘブライ語を引き継ぐ。エベルの子孫にアブラハムが居る。アブラハムが、現在のイラク南部とされる「カルデアメソポタミア)のウル」から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエルパレスチナ付近)に移住したとされる。

ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で生活を続けた(ヘブライの原義はアブラハムの先祖エベルから)。

紀元前17世紀ごろ[注 3]、ヘブライ人は飢饉のためカナンの地から古代エジプトに集団移住した。その後預言通り古代エジプトの地で奴隷とされた。

その後、エジプト第19王朝の時代に、再び大きな気候変動が起こり[注 4]、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)にたどり着き、この地の先住民であったカナン人ペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。このころからイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑英語版に:

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ヒエログリフ:𓇋-𓇋-𓊃:𓏤*𓏤:𓂋-𓇋-𓄿-𓂋:𓏤-𓌙-𓀀*𓁐:𓏥 - YSRYR - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。

紀元前10世紀ごろ、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。ちなみに、ある統計によれば同時代の世界人口は約5,000万人[25]縄文時代だった日本列島の人口は推定で10数万である[26]ソロモン王の死後、紀元前930年ごろ、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、多くの人民が捕虜としてアッシリアに囚われるか離散した(アッシリア捕囚失われた十支族)。南のユダ王国は、紀元前609年メギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年カルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年新バビロニアの侵攻に遭い(エルサレム包囲戦 (紀元前587年)英語版)、翌年にはユダ王国が滅亡してエフド英語版と呼ばれる属州が置かれ、多くの人民が捕虜としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになった。

紀元前539年オピスの戦いで、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国エフド・メディナタ英語版として復興された。一方でバビロンに留まった捕囚民のコミュニティはペルシャの直接統治の元で繁栄し、重要な地位に昇るものもいたとされる。

ユダヤ教の教義も、このころにほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。このころにはヘブライ語はすでに古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシア語も浸透した。

また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、このころに始まる。ローマ支配下の紀元20年代ごろ、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリストナザレのイエス)が活動したと伝えられる。

紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。132年バル・コクバの乱が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来するパレスチナという地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した(ユダヤ人離散英語版)。

以降、ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在のパレスチナ人になったと考えられる。

古代末期から中世

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1100年から1600年にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人の追放による民族移動を示す地図
 
Joseph Felsensteinのソフトウェアによる解析結果に基づく、J2 DNA Kohanimの3000年間の民族移動を示す地図

7世紀 - 10世紀に、カスピ海北部にハザール王国が出現し、ユダヤ教を国教としたが、その後相次いだロシア、ルースィ、ブルガール、オグズとの戦争により王国は滅んでいる。残党のハザール人も、結局はイスラム教に改宗したが、ユダヤ教カライ派の信仰を保っているハザール人の集落が東ヨーロッパにわずかに現存している。

ディアスポラ後の民族移動時代2世紀 - 7世紀)、ほとんどのユダヤ人は依然として地中海沿岸に住んでいた。697年ウマイヤ朝サーサーン朝ペルシアとの抗争で疲弊していた東ローマ帝国カルタゴおよび北アフリカを征服し、711年グアダレーテ河畔の戦い西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島に進出した。ジュデズモ語を話すセファルディムイベリア半島に定住し、8世紀から9世紀には北フランスにも定住し、その後ヨーロッパ各地に散ったが、ユダヤ人はユダヤ教の信仰を堅持した。

レコンキスタ十字軍時代に、ヨーロッパキリスト教社会では、「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムとともに常に迫害された。封建制度に内属していなかった彼らはヨーロッパの多くの国で土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、商工業ギルドに加入することができなかったため、職工の道も閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引も制限されていた。

しばしば追放処分を受け、住居も安定しないユダヤ人がつける仕事は事実上消費者金融や無店舗の行商、芸能以外には存在しなかった。1066年、イスラム支配下のアンダルスグラナダ虐殺 (1066年)英語版が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人英語版が犠牲となった。イギリスのユダヤ人はこのころに主にフランスからイングランドに渡った一群が最初とされる(ユダヤ人は王の所有物として農奴や金融を生業として13世紀末までその数を増やしていったが、十字軍精神の高まりにより追放され、一部を除きいったん姿を消し、17世紀半ばに再びフランス、スペイン、ポルトガルから流入し繁栄した)[27]

11世紀末頃にはすでにユダヤ人は「高利貸し」の代名詞になっていた。被差別民でありながら裕福になったユダヤ人は妬まれ、ユダヤ人迫害はますます強まっていった[28]

セルジューク朝が西方に領土を拡大し、東ローマ帝国領のアナトリア半島を占領すると、アレクシオス1世コムネノスローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めた。1095年11月にクレルモン公会議が開催され、翌年に民衆十字軍第1回十字軍が開始され、エルサレム王国が設立された。これ以後、約200年にわたって、十字軍は7回の遠征を行った。

1150年ごろ、フランクフルトにユダヤ人が居住した記録が残っている[29]13世紀になってキリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人は迫害を受けるようになり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていき、職の追放なども行われた。神聖ローマ帝国のユダヤ人は、神聖ローマ帝国一般臣民とは区別される存在で、「王庫の従属民」と呼ばれる法的地位を与えられて皇帝の保護を受け、皇帝にユダヤ人税ドイツ語版(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負っていた。のちのオスマン帝国においてもジズヤ人頭税)の納税義務を負っていたが、ほぼ同じ制度である。

東方植民時代(12世紀 - 14世紀)にはモンゴルのポーランド侵攻で人口が減少したポーランド王国へ進出し、イディッシュ語を話すアシュケナジムが定住を始めた。1264年カリシュの法令によって権利および安全をポーランド国王およびシュラフタ(ポーランドの貴族共和政を担った階級)の庇護のもとに保障され、1290年エドワード1世による追放布告英語版イングランドを追放されると、ユダヤ人はポーランドに集まり生活し、ユダヤ人社会「シュテットル」を形成した。

14世紀のペスト大流行en)のころから弾圧として、ヨーロッパ中で隔離政策が取られるようになっていき、市街地中心から離れた場所に設けられたゲットーと呼ばれる居住区に強制隔離されることが一般化した。

1462年にフランクフルトのユダヤ人はフランクフルト・ゲットーに居住するようになった。1467年ポーランド王国ドイツ騎士団の間で司祭戦争英語版が勃発し、1479年にピョートルクフの講和英語: Treaty of Piotrków)が結ばれると、カジミェシュ4世の治めるピョートルクフ神聖ローマ帝国を追放されたドイツ人とユダヤ人が移住した。1488年、イタリアのソンチーノに逃れたユダヤ人によって "Casa degli Stampatori"(it:Soncino#Musei)でヘブライ語聖書(タナハ、旧約聖書)が印刷され、印刷技術が世界中に広がるきっかけとなった。16世紀にはヴィリニュスにも居住するようになった。

1492年イベリア半島レコンキスタが完了し、フェリペ2世の治世に異端審問制度によるスペイン異端審問が始まると、モリスコ追放によってセファルディムの多くが北アフリカに追放され、ポルトガルに逃れたユダヤ人もカトリックへの改宗を迫られ、新キリスト教徒と呼ばれるユダヤ人が誕生した。

セファルディムフェルナン・デ・ロローニャ英語版: Fernão de Loronha)は、赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジルの専売権を得て、ブラジルの植民地開拓期に活躍した。

初期近代

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1600年イギリスの作家ウィリアム・シェイクスピアが発表した戯曲ヴェニスの商人』では、主人公の友人を借金の形としたユダヤ人高利貸という設定のシャイロックという人物が登場した。

1648年ウクライナで起こったフメリニツキーの乱では、ザポロージャ・コサック英語版によるポグロムによって多くの犠牲者を出した。1657年にユダヤ人の追放をオリバー・クロムウェルが解除し、ユダヤ人がイングランドへ367年ぶりに帰還した。

近代

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ユダヤ教徒居住区英語版およびロシア帝国領ポーランド内のユダヤ人分布図(数値は百分率(%)、1905年)

啓蒙時代17世紀 - 18世紀)になると、スピノザらによる宗教を超えた汎神論論争レッシングが肯定すると、メンデルスゾーン(『賢者ナータン』のモデルとして知られる)もこれを擁護してハスカーラーと呼ばれる啓蒙運動がユダヤ人の間で開始された。ハスカーラーに抵抗のあった人たちの中から1740年ごろ、ガリツィアバアル・シェム・トーブハシディズムを開始した。1786年、ロシアがユダヤ教徒居住区英語版: Черта́ осе́длостиイディッシュ語: דער תּחום-המושבֿ‎)を設置。1795年ポーランド分割1772年1793年1795年)が実施され、ポーランド・リトアニア共和国が消滅して東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。ポーランドが消滅してその庇護を失ったユダヤ人は、ハプスブルク家へ庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人から裏切り行為と受け取られた。1806年7月、神聖ローマ帝国が解体され、1811年カール・テオドール・フォン・ダールベルクフランス民法典をもとにフランクフルトのユダヤ人に市民権を認めた。

しかし、ナポレオンが敗退すると、1814年にはユダヤ人の市民権と選挙権が再び剥奪された。1819年ドイツヴュルツブルクポグロムが発生し、瞬く間にドイツ文化圏全域でヘプヘプ・ポグロム英語版が起こった。1821年にはウクライナでオデッサ・ポグロム英語版が起こった。

1848年ハンガリー革命に参加したハンガリー系ユダヤ人英語版が弾圧された。これをきっかけにアルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェンによってハンガリーも1851年から1860年にかけてドイツ化が進行した。1864年、フランクフルトのユダヤ人に再び市民権が認められ、1871年ドイツ帝国が建国された際、ユダヤ人は正式にドイツ国民としての権利を与えられた。

19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシウクライナモルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年アレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム1881年 - 1884年)が起こった。ユダヤ人はオーストリア=ハンガリー帝国領ブロディへ大量に脱出したため町が混乱すると、1882年五月法英語版が発布され、ユダヤ人への締めつけが実施された。

1890年エリエゼル・ベン・イェフダーパレスチナに「ヘブライ語委員会」(「ヘブライ語アカデミー」の前身)を設立。1894年フランスドレフュス事件が起こり、同年には「イディッシズム英語版」を代表する作家、ショーレム・アレイヘムによる『牛乳屋テヴィエ』(『屋根の上のバイオリン弾き』の項を参照)が発表された。1896年テオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家英語版」を発表。

1900年には黒百人組が結成され、1903年から1906年にかけてロシアで度重なるユダヤ人襲撃が起こった(キシナウ・ポグロム英語版)。各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われたことが引き金となり、古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするナータン・ビルンバウムによるシオニズム運動が起きた。「ユダヤ人」は世界に離散後もそのほとんどがユダヤ教徒であり(キリスト教イスラムに改宗した途端、現地の「民族」に「同化」してしまう)、ユダヤ教の宗教的聖地のひとつであるイスラエルの地に帰還することもその理由のひとつである。

第一次世界大戦

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1914年11月にイギリスがオスマン帝国に宣戦布告すると、ユダヤ人シオニストの閣僚・ハーバート・サミュエルが「The Future of Palestine」を閣僚に回覧した。当時、パレスチナはVilayet of Damascus南西部にあったが、1915年10月24日フサイン=マクマホン協定のこの部分に関する解釈がのちに大論争となった。

第一次世界大戦が始まると大量のコルダイトが必要になったが、その原料のアセトン供給を握っていたのはロシア帝国の化学者でシオニストのハイム・ヴァイツマンであった。このことでイギリス政府閣僚との知己を得たヴァイツマンはアーサー・バルフォアバルフォア宣言を働きかけた。

1916年5月16日にはサイクス・ピコ協定が締結された。同年6月にはアラブ反乱が起こされ(1916年6月 - 1918年10月)、1917年には熱心なシオニストの第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドがイギリス政府からバルフォア宣言を取りつけ、イギリス政府はシオニズム支持を表明することになった。この条約はトルコとのセーヴル条約イギリス委任統治領パレスチナ1920年 - 1948年)につながっていったのである。

1919年にはファイサル・ワイツマン合意英語版が調印され、パレスチナへのユダヤ人入植を促進させることで合意している。国際連盟の決議で設置されたイギリス委任統治領パレスチナで公用語のひとつはヘブライ語になり、ハーバート・サミュエルは初代高等弁務官となった。

イスラエル建国以前の中東では、イスラム教徒とユダヤ教徒は共存してはいたが、しばしば大規模な反ユダヤ暴動が起きた。1920年7月の暴動(ユダヤ人216人死傷)、1921年の暴動があった。

1922年イギリス委任統治領パレスチナが成立。1925年1926年の暴動、1929年には嘆きの壁事件がきっかけとなって8月23日にはヘブロン虐殺英語版(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)があった。

1928年ヨシフ・スターリン社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯に「ユダヤ民族区」が設置され、西ウクライナから西ベラルーシベラルーシ語版にまたがる「ルテニア」と呼ばれた地域、すなわちカルパティア・ルテニアカルパト・ウクライナ)・ガリツィアガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィアベッサラビアなどのシュテットルから多数のユダヤ人が移住した。これは社会主義的な枠組みの中でユダヤ人の文化的自治をめざすもので、イディッシュ語の学校や新聞が作られた。同時期の戦間期には、ガリツィアなどからの難民がウィーンへも押し寄せ、イディッシュ語のコミュニティーを形成したことが知られている[30]

第二次世界大戦

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1933年国民社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなり、さまざまな扱いで圧迫されるようになった。1936年から1939年パレスチナのアラブ反乱では、エルサレムでの暴動があった。

なお1936年の時点でエルサレムの人口は12万5,000人、うちユダヤ人が7万5,000人を占めていた[31]1938年11月9日、ドイツ全土で『帝国水晶の夜』(ドイツ語: Reichskristallnacht)事件が発生し、その後ユダヤ人に対する迫害政策がさらに進展した。1939年、第二次世界大戦が勃発し、ナチスは占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始した。ソ連はユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入を禁止した。 1940年8月31日杉原千畝リトアニアカウナスを脱出。杉原千畝は、7月からドイツ占領下のポーランドを脱出してきたユダヤ難民に「命のビザ」を発給したことで知られているが、1947年に責任をとらされ、依願退職した。

1941年、ソ連はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国を廃止し、ヴォルガ・ドイツ人シベリアカザフスタンへ追放し、カザフスタンのドイツ人英語版と呼ばれた。1941年7月10日イェドヴァブネ事件1941年9月6日リトアニアヴィリニュスヴィリニュス・ゲットーが設置された。ナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画(マダガスカル計画)を立てていたが、その後絶滅収容所への収容・絶滅計画に方針を切り替えた。これらはホロコーストと呼ばれる。

イスラエルの建国とパレスチナ問題

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ホロコーストの実態が西側諸国に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するというシオニズムがさかんになり、1945年にアメリカでユダヤ人抵抗運動英語版が組織された。

しかしこの運動はパレスチナに住んでいたアラブ人およびそれを同胞と見るアラブ諸国との軋轢を生み出した。1946年にはシオニズムを奉じるユダヤ系組織によるキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件イフード運動の指導者ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニーFawzi Darwish al-Husseini)暗殺が起こった。1947年11月29日国際連合でアメリカとソ連などの支持を受けて『パレスチナ分割決議(国連総会決議181号)』が採択されると、11月30日からパレスチナ内戦英語版が始まり、1948年4月にはエツェルによるデイル・ヤシーン事件などが起こったが、同年5月14日のイスラエル建国のイスラエル独立宣言が行われると、翌日の5月15日の第一次中東戦争につながっていった。全パレスチナ政府英語版ガザに設置され、アミーン・フサイニー大統領となると、第一次中東戦争における殺害と虐殺英語版が多発した。1949年7月の休戦協定によってパレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得。エジプトガザ地区を獲得し、ヨルダン(1949年6月にトランスヨルダンから名称変更した)は東エルサレムおよびヨルダン川西岸地区を獲得した。

一方、寸土も獲得できなかった全パレスチナ政府が4か月で崩壊すると、1951年にアミーン・フサイニーは、親イスラエルとみなしたヨルダンのアブドゥッラー1世を暗殺した。

1952年エジプト革命が起こり、1953年にエジプト共和国が成立すると、第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルアスワン・ハイ・ダム建設の協力をアメリカに求めた。しかし、1956年になってアメリカ合衆国国務長官のジョン・フォスター・ダレスがエジプトへの協力に反対した[注 5]

そのためナーセルは東西冷戦を利用してソ連側に接近し、さらに汎アラブ主義を掲げ、スエズ運河国有化: Nationalisation of the Suez Canal)を断行した。当時フランスは、アルジェリア戦争1954年 - 1962年)でアルジェリア民族解放戦線をエジプト共和国が支援していると考えたため、英仏は第一次中東戦争でエジプトと敵対したイスラエルを支援する形で第二次中東戦争が勃発した。

アメリカ合衆国アイゼンハワー大統領は、アラブ冷戦英語版下にソ連が介入する事態を懸念し、平和のための結集決議で即時停戦を求める総会決議997を採択した。1957年3月16日にイスラエルは撤退し、エジプトはスエズ運河の国有化に成功した。ダレスの戦略は完全に裏目に出て、中東でのソ連の影響力は一気に高まり、第三次中東戦争につながった。

米国がベトナム戦争アラブ冷戦英語版に手が回らなくなると、ソ連のKGBはイスラエルのモサッドの諜報活動を逆手にとった。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設をめぐる紛争で、ソ連はエジプトとシリアを情報操作で開戦準備に誘導し、モサッドの入手する情報から先制攻撃を恐れたイスラエルは1967年に逆に先制攻撃を行い、第三次中東戦争を開始した。

第三次中東戦争は、イスラエル領土の拡張運動「大イスラエル構想英語版」(1967年 - 1976年)が活発になった時期であることから、パレスチナ人およびアラブ人とユダヤ人入植者との対立がその政策の結果として建国以降一貫して引き起こされてきたと拡大解釈する立場もあらわれた。

1964年にアラブ連盟によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されていたが、1969年2月に第三次中東戦争で活躍したファタハヤーセル・アラファートが議長に就任すると、PLOが事実上のパレスチナ亡命政府と看做されるようになった。1970年ガマール・アブドゥン=ナーセルが急死すると、アンワル・アッ=サーダートがエジプト大統領に就任した。サーダートは、ナーセルのイスラエル強硬路線を踏襲し、アラブ同士の結束を固めるために1971年9月にシリアとリビアとのアラブ共和国連邦を結成した。1972年4月には、1970年ブラック・セプテンバー事件でPLOを追放していたヨルダンは国交を断絶された。一連の主導権争いにイスラエルが巻き込まれる形で、1973年10月の第四次中東戦争が勃発した。石油輸出国機構(OPEC)は、イスラエル援助国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。

和平締結を模索する中で、サーダートはナーセルの反イスラエル反米路線からの転換を図った。1977年6月にサーダートがイスラエルへメナヘム・ベギン首相を公式訪問し、1978年9月のキャンプ・デービッド合意はサーダートが単独で締結した。しかし、1981年10月にサーダートはエジプトのジハード団によって暗殺された。

1987年第1次インティファーダが始まり、1993年にはイスラエルとPLOのオスロ合意によりパレスチナ自治政府が設立され、イスラエルはヨルダン川西岸地区とガザをPLOに引き渡した。

年表

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反ユダヤ主義

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ユダヤ人の歴史の要素の一面として、時には迫害・襲撃・追放をも含んだ反ユダヤ主義ということが言われるが、これはあくまで極一面であって、ディアスポラの地で2000年、地域によっては1000年以上の隣人として共存・共発展してきた面もあり、たとえばキリスト教では親ユダヤの宗派も存在する。

宗教弾圧を受けた面もあれば、セム的一神教アブラハムの宗教の本流としての「啓典の民[注 6]、「聖なる民 ‘am Qodeš[注 7]」としての面もある。イスラム世界においては、貢納を行えば信仰は許されたが、メルラーと呼ばれるゲットーも存在していた。

これを編み出したのはハールーン・アッ=ラシードであった。また反ユダヤ暴動もしばしば起きていた[32]

博物館

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文化遺産

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ユダヤ人関連の文化遺産として以下がある。

ユダヤ人の例

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分野を問わず非常に多く、英語版のen: Lists of Jewsは分野別・国別の「一覧の一覧」となっている。

ビジネス

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科学者

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音楽家

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クラシック音楽

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ポピュラー音楽

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日本と関わりの深いユダヤ人

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日本のメディアに登場するユダヤ人

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関連書籍

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初歩的入門書・紹介書

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ユダヤ教

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アシュケナジム社会

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ユダヤ人の芸術

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イディッシュ文学

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ドイツ文学

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アメリカ文学

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ユダヤ人の精神・生活関連

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哲学関連

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  • 『ブーバーに学ぶ 「他者」と本当にわかり合うための30章』(斉藤啓一 著、日本教文社、2003年12月、ISBN 4-531-06389-9
  • 『トーラーの知恵 現代を生きるためのユダヤ人の聖書観』(ピンハス・ペリー 著 / 手島勲矢・上野正 訳、ミルトス、1988年6月、ISBN 4-89586-102-3
  • 『なるほど!ユダヤの格言・ユダヤの知恵』(エスカルゴ・ブックス / 滝川義人 著、日本実業出版社、1995年8月、ISBN 4-534-02364-2

教養関連

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その他

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ユダヤ関連の映画

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脚注

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注釈

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  1. ^ ヘブライ語ラテン翻字: Yehudim
  2. ^ イディッシュ語ラテン翻字: Jidn
  3. ^ 紀元前17世紀には、ヒクソスがエジプトへ移住し、エジプト第15王朝紀元前1663年頃 - 紀元前1555年頃)を興している。紀元前1628年にはギリシャサントリーニ島ミノア噴火が起こり、火山の冬が原因で気候が大きく変動し、カナンに居住し続けるのが困難になった。
  4. ^ 紀元前1200年頃に、アイスランドヘクラ山第三ヘクラ大噴火英語版が原因と考えられる世界的な気温低下による前1200年のカタストロフが起こった。
  5. ^ この問題でダレスは、1956年8月19日にロンドン会談で日本の重光葵外相にもソ連と北方領土を二島返還で妥結するなら沖縄返還は無いと圧力をかけた。 当時の日本は、朝鮮戦争1953年に休戦したことを受け、ソ連とも講和条約締結と北方領土の返還を協議していた。日本は1951年サンフランシスコ講和条約単独講和路線を選択した後だったことから、ダレスの圧力を受け入れ、10月12日鳩山一郎首相とニキータ・フルシチョフの首脳会談で、国交回復を先行させ、平和条約締結後に歯舞群島色丹島を返還する前提で平和条約の交渉を行う事が合意された。その結果、10月19日日ソ共同宣言で北方領土は返還されなかった。
  6. ^ アラビア語: Ahl al-Kitab
  7. ^ マルティン・ブーバーは「聖にする民」と訳している。レビ記11章45節を参照。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n (PDF) Annual Assessment, Jewish People Policy Planning Institute (Jewish Agency for Israel), (2006), pp. p. 11, https://web.archive.org/web/20070927014358/http://www.jpppi.org.il/JPPPI/SendFile.asp?DBID=1&LNGID=1&GID=443 [リンク切れ](アーカイブ), sourced from American Jewish Year Book. 106. American Jewish Committee. (2006). http://www.ajcarchives.org/main.php?GroupingId=10142 
  2. ^ www.zsido.hu - A magyar zsidóság története”. ZSIDO.HU. 2019年3月3日閲覧。
  3. ^ Belarus Jews Take Part in Jewish Life, but Don't Know Much About Judaism”. Jewishtucson.org. United Jewish Communities.. 2014年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j The Jewish Population of the World (2006)”. Jewish Virtual Library. 2009年10月6日閲覧。, sourced from American Jewish Year Book. 106. American Jewish Committee. (2006). http://www.ajcarchives.org/main.php?GroupingId=10142 
  5. ^ Struggle to Save Ethiopian Jewry”. SSEJ. 2019年3月3日閲覧。
  6. ^ The Jews of Iran (Jewish Virtual Library)
  7. ^ Antisemitism And Racism”. 2011年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
  8. ^ Jewish Virtual Library Kazakhstan
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  11. ^ 佐藤唯行 『英国ユダヤ人』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1995年、16頁。
  12. ^ a b c 第2版,世界大百科事典内言及, 百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “セファルディムとは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年7月26日閲覧。
  13. ^ a b イスラエルで司法改革法成立 ユダヤ人社会の分断鮮明に(AP通信)”. Yahoo!ニュース. 2023年7月26日閲覧。
  14. ^ 杉本淑彦 著「白人の形成. 白色人種論とアラブ人 - フランス植民地主義のまなざし」、藤川隆男 編『白人とは何か? ホワイトネス・スタディーズ入門』刀水書房、2005年10月、64-65頁。ISBN 4887083467 
  15. ^ 南 1994, p. 57.
  16. ^ a b 内田樹 2006,p.26
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  20. ^ ラビ・マービン・トケイヤー『ユダヤ5000年の教え』実業之日本社、2004年4月。ISBN 4-408-39551-X [要ページ番号]
  21. ^ Herrnstein and Murray 1994; Richard Lynn 1991a; Lynn 2006[要文献特定詳細情報]
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  30. ^ メンデル・ノイグレッシェル 著、野村真理 訳『イディッシュのウィーン』野村真理解説、松籟社、1997年10月。ISBN 4-879-84192-7 [要ページ番号]
  31. ^ ニアイースト・リポート 1991, pp. 41–43.
  32. ^ ニアイースト・リポート 1991, p. 200.

参考文献

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  • 内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年。 
  • 大澤武男『ユダヤ人とドイツ』講談社〈講談社現代新書〉、1991年。 
  • 大澤武男『ユダヤ人ゲットー』講談社〈講談社現代新書〉、1996年11月。 
  • 関哲行『スペインのユダヤ人』山川出版社〈世界史リブレット〉、2003年4月。 
  • ニアイースト・リポート 編、滝川義人 訳『イスラエルvs.アラブ 誤解と真実』ミルトス、1991年4月。ISBN 4-89586-114-7 
  • 南利明「民族共同体と法(17) :NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制」『静岡大学法経研究』43(3),、静岡大学、1994年11月、31-69頁、NAID 40003480473 
  • シュロモー・サンド『ユダヤ人の起源』

関連項目

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ユダヤ人の一覧

外部リンク

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アシュケナジム社会

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