岡本利之
岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - 1969年[1]12月30日)は、鳥取県米子市[1]出身のプロ野球選手、高校野球・社会人野球監督。右投右打で、ポジションは捕手、内野手、投手。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県米子市 |
生年月日 | 1916年11月27日 |
没年月日 | 1969年12月30日(53歳没) |
身長 体重 |
173 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、内野手、投手 |
プロ入り | 1939年 |
初出場 | 1939年 |
最終出場 | 1939年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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来歴・人物
編集米子中では4年次の1932年に、夏の甲子園に二塁手として出場した(初戦で石川師範に敗れる)。翌1933年は主将・主戦として活躍したが、山陰大会1回戦で敗れ、甲子園出場を逃した。
卒業後は関西大学に進学し、野球部で好打、堅守の内野手として名を馳せた。1939年には職業野球・ライオン軍に入団。弱小チームでユーティリティープレイヤーとして捕手をはじめ、さまざまなポジションをこなした。1年プレー後応召した[1]。
戦後、戦争で痛めた左足が完治しないまま、米子中で後輩の指導にあたっていたが、1947年、創部間もない境中学校野球部後援会幹部の強い要請を受け、同校の監督に就くと、3年間で2度、夏の甲子園地区予選決勝まで駒を進めるなど、同校の礎を築いた[1]。 1950年には母校・米子東高校監督を務め、夏の甲子園でベスト8に導く。その後請われてノンプロの野球部があった米子鉄道管理局(現・JR西日本米子支社)に就職し、采配を振った[1]。
1958年夏の大会後、大橋棣、木下勇、浜田圭司(のち鳥取県高野連審判委員長)の後を受け、米子東監督に復帰[1]。1960年の選抜に出場すると、宮本洋二郎の力投などで山陰勢初となる決勝進出を果たし、高松商の山口富士雄にサヨナラ本塁打を浴びて敗れたものの、準優勝に輝いた[1]。同年夏にも出場を果たすと、活躍が認められ秋の熊本国体にも出場し、再び準優勝。1961年にも選抜に出場、再び高松商の前に屈したが、ベスト4に導いている。その後1965年の選抜、1966年の選抜にも出場、66年には高知に勝利し「打倒・四国勢」の念願を果たすベスト8進出。その後1968年夏の大会限りで監督を勇退した。
翌1969年、胃の不調を訴え入院。「もう一度米子東のプレーを見たい」という願いを叶えられないまま、53歳で死去した。
米子東高野球部逍遥歌の作詞も手がけている。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1939 | ライオン | 10 | 6 | 3 | 0 | 0 | 2 | 6 | -- | -- | .250 | 229 | 48.2 | 54 | 1 | 30 | -- | 0 | 23 | 0 | 0 | 35 | 27 | 4.96 | 1.73 |
通算:1年 | 10 | 6 | 3 | 0 | 0 | 2 | 6 | -- | -- | .250 | 229 | 48.2 | 54 | 1 | 30 | -- | 0 | 23 | 0 | 0 | 35 | 27 | 4.96 | 1.73 |
年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1939 | ライオン | 75 | 289 | 247 | 19 | 50 | 4 | 2 | 0 | 58 | 28 | 6 | -- | 2 | 4 | 35 | -- | 1 | 20 | -- | .202 | .304 | .235 | .539 |
通算:1年 | 75 | 289 | 247 | 19 | 50 | 4 | 2 | 0 | 58 | 28 | 6 | -- | 2 | 4 | 35 | -- | 1 | 20 | -- | .202 | .304 | .235 | .539 |
背番号
編集- 3 (1939年)
高校野球監督としての全国大会成績
編集- 通算成績8勝5敗
年度 | 出場回数 | 全国大会成績 | 対戦校 | 備考 |
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1960年(第32回選抜) | 25年ぶり2回目 | 準優勝 | 2-1 大宮(埼玉) 4-2 松阪商(三重) 2-0 秋田商(秋田) 1-2 高松商(香川) |
米子東投手は宮本洋二郎。 現在のところ、山陰勢唯一の決勝進出である。 |
1960年(第42回選手権) | 4年ぶり9回目 | 2回戦敗退 | 8-0 盈進商(広島) 5-12 徳島商(徳島) |
米子東(米子中時代含む)2度目の春夏連続出場 |
1961年 (第33回選抜) | 2年連続3回目 | ベスト4 | 2-1 掛川西(静岡) 2-1 敦賀(福井) 延長16回 1-4 高松商(香川) |
敦賀戦で矢滝伸高投手が23奪三振の大会記録(延長16回参考) |
1965年(第37回選抜) | 4年ぶり4回目 | 2回戦敗退 | 0-4 高松商(香川県) | 高松商に3度目の苦杯を喫する。 |
1966年(第38回選抜) | 2年連続5回目 | ベスト8 | 6-1 富士宮北(静岡) 2-0 高知(高知) 2-11 中京商(愛知) |
エピソード
編集- グラウンドでは常に厳しく、木下勇監督とは対照的なスパルタ式で選手を鍛え上げた。個人ノックの嵐に、選手たちは「次に自分が指名されたらと思うと寒気がした」と振り返るほどであった。しかしグラウンド外では選手をすき焼きに誘うなど、意思疎通を大事にした。
- 相手ベンチのサインを見てスクイズを外すなど、優れた勝負勘をもっていた。「実力と品位の野球」をめざして鍛えた米東野球は、"さわやか野球"と絶賛された。
- 試合においては「審判のどんな判定にも潔く従う」を信条としていた。しかし、生涯最後の試合となる1968年夏の鳥取西戦で、同点で迎えた試合終盤の鳥取西走者の生還を認めたクロスプレーの判定に対し、米子東捕手のタッチが早いと見て取った岡本は、判定に対して猛抗議を行った。判定は覆ることなく、結局これが決勝点となって米子東は敗れた。岡本は死の床でも「たった一球の判定で選手の一生が変わることもある。審判の判定はそれだけ重いんだ」と、この時の判定を気にしていたという[2]。
参考文献
編集- 「鳥取県立米子東高等学校野球部史(一)」(鳥取県立米子東高等学校野球部史編纂委員会、1994年)
注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 岡本利之 - NPB.jp 日本野球機構