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ベトナム史

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

ベトナムは、豊かな歴史と文化を持つ国です。その歴史は何千年にもわたり、多くの民族、文化、政治体制が交錯してきました。本書では、ベトナムの歴史を古代から現代に至るまで網羅し、その変遷と重要な出来事を詳細に探求していきます。

ベトナムの歴史は、東南アジア全体の歴史と密接に関連しています。古代から続く中国の影響、フランスによる植民地支配、日本の占領、そして独立戦争と統一に至るまで、ベトナムは多くの外部勢力と対峙してきました。また、内部では多様な民族グループが共存し、それぞれの文化と伝統が国全体のアイデンティティに貢献しています。

本書の目的は、ベトナムの歴史を学ぶ読者に対し、各時代の主要な出来事、人物、社会構造、文化的な変遷を理解しやすく解説することです。特に、独立戦争や現代の発展に焦点を当てることで、現代のベトナムの成り立ちとその意義を明確にします。

歴史を学ぶことは、過去の出来事やその背景を知るだけでなく、それが現在や未来にどのように影響を与えるかを理解することでもあります。ベトナムの歴史を深く学ぶことで、私たちはより広い視野を持ち、ベトナムという国の多様性と強靭さを理解することができます。

本書が、ベトナムの豊かな歴史に対する理解を深める一助となり、読者の知識を広げることを願っています。

先史時代

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オーストロアジア系民族とオーストロネシア系民族の移動

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ベトナムの先史時代は、様々な民族の移動と融合によって特徴づけられます。約4000年前から2000年前にかけて、二つの主要な民族集団がベトナムの地に移り住みました。

まず、北部からオーストロアジア語族の人々が南下してきました。彼らは主に大陸部を通って移動し、現在のベトナム北部と中部に定着しました。オーストロアジア系の人々は、稲作や畑作の技術を持ち込み、ベトナムの農耕文化の基礎を築きました。

一方、オーストロネシア語族の人々は、海路を通じて島々を渡りながら、現在のベトナム中部や南部の沿岸地域に到達しました。彼らは優れた航海技術と漁撈文化をもたらし、沿岸部の発展に大きく貢献しました。

これら二つの民族集団の移動と定住は、ベトナムの文化的多様性の源となりました。言語、習慣、信仰など、様々な面で両者の影響が見られ、それがベトナムの豊かな文化的モザイクを形成しています。

ホアビン文化 - ベトナム最古の狩猟採集民

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ベトナムの先史時代を語る上で、ホアビン文化は極めて重要です。紀元前9000年頃から紀元前6000年頃にかけて栄えたこの文化は、ベトナム最古の狩猟採集民の生活を今に伝えています。

ホアビン人は主に洞窟や岩陰に住み、狩猟や採集、そして漁撈によって生活していました。彼らの存在は、ホアビン省やタインホア省、そしてクアンビン省などで発見された遺跡から確認されています。

出土品の中には、特徴的な形状の石斧や石槌、骨角器などがあります。これらの道具は、彼らの生活様式や技術レベルを知る上で貴重な手がかりとなっています。また、貝塚からは当時の食生活の一端をうかがい知ることができます。

ホアビン文化の影響は広範囲に及び、東南アジアの他の地域でも類似の文化が確認されています。この文化は、後のベトナムの農耕文化への移行期において重要な役割を果たしたと考えられています。

東南アジアにおける稲作の始まり

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稲作の開始は、ベトナムの歴史における大きな転換点となりました。東南アジアにおける稲作の起源は諸説ありますが、中国南部から伝播したという説が有力です。ベトナムでは、紀元前3000年頃から稲作が始まったと考えられています。

稲作の導入は、社会に大きな変化をもたらしました。定住化が進み、安定した食料供給によって人口が増加しました。これにより、より大規模で複雑な社会組織が形成されていきました。

この時期、初期の農耕具や土器も出現しました。石製の鋤や鍬、収穫用の石包丁などが使用され始め、土器は食料の保存や調理に利用されました。

紅河デルタ地域の集落の発展

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紀元前2000年頃から、肥沃な紅河デルタ地域に人口が集中し始めました。この地域は豊かな土壌と水資源に恵まれており、農業生産に適していました。

初期の集落は小規模なものでしたが、時代とともに規模を拡大し、複雑化していきました。社会の階層化が進み、権力構造の萌芽も見られるようになりました。これは、墓地の規模や副葬品の違いなどから推測されています。

紀元前1000年頃になると、ドンソン文化が出現します。この文化は青銅器の使用で知られ、特に青銅鼓は儀式や権力の象徴として重要な役割を果たしました。ドンソン文化期には、農業技術の向上や金属加工技術の発達により、社会がさらに発展し、初期国家の形成へとつながっていきました。

この時期の紅河デルタ地域の発展は、後のベトナム文明の基礎となり、その後の歴史に大きな影響を与えることとなりました。

ベトナムの建国神話
むかし、むかしあるところに、天の神様であるドンハウ王と、海の神様であるラック・ロン・クアンがいました。ある日、ドンハウ王の娘であるアウ・コー(ひめ) は、美しい貝殻 (かいがら) を集めるために海辺 (うみべ) に出かけました。すると、そこには(りゅう) の姿をしたラック・ロン・クアンが現れ、アウ・コー姫に一目惚れ (ひとめぼれ) してしまいました。二人はすぐに恋に落ち、結婚 (けっこん) することになりました。

しかし、ラック・ロン・クアンは海の生き物、アウ・コー姫は陸の生き物だったため、二人は離れて暮らすしかありませんでした。アウ・コー姫は、ラック・ロン・クアンとの間に100人の子供を産みました。そのうち、上半身は人間、下半身は(りゅう) の姿をした50人の息子たちと、美しい人間の姿をした50人の娘たちがいました。

息子たちは父親であるラック・ロン・クアンと一緒に海の世界で暮らすことになり、娘たちは母親であるアウ・コー姫と一緒に陸の世界で暮らすことになりました。

ある日、ラック・ロン・クアンはアウ・コー姫と娘たちを訪ねに行きました。しかし、娘たちは父親の姿を見て怖がってしまい、逃げ出してしまいました。ラック・ロン・クアンは悲しみに暮れ、海の世界へと帰ってしまいました。

一方、アウ・コー姫は娘たちを探しに出かけました。そして、長い旅の末に娘たちを見つけ出すことに成功しました。娘たちは母親と再会 (さいかい) して喜び、二人は再び一緒に暮らすことになりました。

その後、アウ・コー姫は娘たちと一緒に、文郎 (ヴァンラン) と呼ばれる国を建国 (けんこく) しました。そして、こどもたちの1人であるフン王 (フンおう) を王に選びました。

フン王 (フンおう) は賢い(おう) で、文郎 (ヴァンラン) の国を豊かに発展させました。そして、多くの(たみ)(おも) われる(おう) となりました。

こうして、ベトナムの国が生まれたのです。

おわりに

このお話は、ベトナムの建国神話の一つです。様々なバリエーション (ばりえーしょん) が存在しますが、基本的なストーリーは同じです。

この神話 (しんわ) は、ベトナムの人々にとって非常に重要 (じゅうよう) なものです。なぜなら、ベトナムの民族 (みんぞく)起源 (きげん) と、(くに)誕生 (たんじょう) を物語っているからです。

また、この神話 (しんわ) は、家族 (かぞく) の大切さや、異なる存在 (そんざい) との共生 (きょうせい) の大切さを教えてくれています。

登場人物の名前
カナ漢字ヴェトナム語
ドンハウ王董天王Đông Hậu Vương
ラック・ロン・クアン貉龍君Lạc Long Quân
アウ・コー姫嫗姫Âu Cơ
フン王雄王Hùng Vương

古代 (紀元前500年頃 - 紀元前111年)

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初期王朝時代

東山文化と Hồng Bàng 王朝の伝説

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金属器の発達と高度な青銅器文化

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徴王 (Kinh Dương Vương) の建国伝説

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洪王 (Hùng Vương) 18代による Văn Lang 王国

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Âu Lạc 王国 (紀元前257年 - 紀元前179年)

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Âu Việt による建国

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An Dương Vương による Cổ Loa 城の建設

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秦朝の脅威と滅亡

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北属時代 (紀元前111年 - 938年)

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漢朝の支配

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南越 (Nanyue) の設置

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漢文化の影響

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反乱と抵抗運動

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独立運動 (徴姉妹蜂起など)

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徴姉妹 (Trưng sisters) の蜂起

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その他の反乱

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各王朝の興亡

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趙朝 (Triệu dynasty)

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西暦192年の趙朝の滅亡後、独立勢力の台頭

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林邑王国 (Champa) の成立

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自主王朝時代 (938年 - 1858年)

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各王朝の興亡

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呉朝 (Ngô dynasty) による白藤江の勝利 (938年)

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丁朝 (Đinh dynasty)・前黎朝 (Early Lê dynasty)・李朝 (Lý dynasty)

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陳朝 (Trần dynasty) による元朝の侵攻撃退

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後陳朝 (Later Trần dynasty)・後黎朝 (Later Lê dynasty)

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鄭氏政権 (Trịnh lords)・阮氏政権 (Nguyễn lords) による南北朝時代

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西山朝 (Tây Sơn dynasty)

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モンゴル、明朝の侵攻

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元朝の侵攻と撃退

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明朝の支配と黎利 (Lê Lợi) による復興

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封建社会のしくみと文化

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科挙制度と官僚制

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儒教の影響と社会階層

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文学・芸術の発展

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フランス植民地時代 (1858年 - 1945年)

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フランスによる植民地化

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フランス極東遠征とコーチシナの占領

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フランス領インドシナの成立

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植民地支配への抵抗運動

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ファン・ボイ・チャウ (Phan Bội Châu) による独立運動

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フエ・ダット (Huế Dynasty) の滅亡

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ベトナム戦争と社会主義化 (1945年 - 1975年)

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ベトナム独立戦争

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第一次インドシナ戦争 (1946年 - 1954年)

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      • フランスとの戦い
      • ジュネーブ協定によるベトナムの南北分断

ベトナム戦争 (1955年 - 1975年)

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      • 南ベトナム解放民族戦線 (NLF) とアメリカ軍の戦い
      • パリ和平協定とサイゴン陥落

南北ベトナムの分断とベトナム戦争

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社会主義体制の北ベトナムと資本主義体制の南ベトナム

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アメリカの介入と戦争の激化

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反戦運動の広がり

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社会主義化

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ベトナム戦争終結とベトナムの統一

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ベトナム社会主義共和国 (SFRV) の成立

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ドイモイ政策による経済改革

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現代 (1975年 - 現在)

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ドイモイ政策と経済発展

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市場経済の導入と経済成長

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貧困問題や格差問題への課題

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社会的課題と今後の展望

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人権問題

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環境問題

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政治体制改革

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国際社会との関係強化

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東南アジアにおける中核国家としての役割

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外部リンク

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Wikipedia
Wikipedia
ウィキペディアベトナムの歴史の記事があります。
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