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「ナポレオン3世」の版間の差分

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==対外戦争==
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[[1853年]]の[[クリミア戦争]]に[[イギリス]]や[[オスマン帝国]]側で参加(参戦は[[1854年]]から)、[[ロシア帝国]]を破り、[[パリ条約]]で世界に[[フランス]]の威力を見せつけた。[[1856年]]に[[イギリス]]と共同して[[アロー戦争]]を引き起こし[[清朝]]を屈服させる(1860年)。[[1858年]]に[[インドシナ]]へ出兵して[[コーチシナ]][[植民地]]を獲得、[[1859年]]5月3日には[[イタリア統一戦争]]に介入、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]率いる[[サルデ|サルデーニャ]]軍と共に転戦。6月4日の[[マジェンタ]]の戦い、6月24日の[[ソルフェリノ]]の戦いで勝利。イタリア統一を支持する代償として、[[サヴォイア|サヴォイ]]と[[ニース]]を獲得する。[[1861年]]には[[メキシコ]]出兵など、積極的な対外政策を取る。[[1864年]]にオーストリア皇帝の弟[[マクシミリアン]]公をメキシコ皇帝に就けた。しかし、[[ベニート・ファレス|ファレス]]率いる共和軍やアメリカの抗議により[[1867年]]に撤兵。この出兵は著しく第二帝政の威厳を傷つけ、第二帝政は崩壊に向かった。[[幕末]]期の[[日本]]にも進出し、[[戊辰戦争]]中の[[徳川幕府]]を支援した。
[[1853年]]の[[クリミア戦争]]に[[イギリス]]や[[オスマン帝国]]側で参加(参戦は[[1854年]]から)、[[ロシア帝国]]を破り、[[パリ条約]]で世界に[[フランス]]の威力を見せつけた。[[1856年]]に[[イギリス]]と共同して[[アロー戦争]]を引き起こし[[清朝]]を屈服させる(1860年)。[[1858年]]に[[インドシナ]]へ出兵して[[コーチシナ]][[植民地]]を獲得、[[1859年]]5月3日には[[イタリア統一戦争]]に介入、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]率いる[[サルデャ王国|サルデーニャ]]軍と共に転戦。6月4日の[[マジェンタ]]の戦い、6月24日の[[ソルフェリノ]]の戦いで勝利。イタリア統一を支持する代償として、[[サヴォイア|サヴォイ]]と[[ニース]]を獲得する。[[1861年]]には[[メキシコ]]出兵など、積極的な対外政策を取る。[[1864年]]にオーストリア皇帝の弟[[マクシミリアン]]公をメキシコ皇帝に就けた。しかし、[[ベニート・ファレス|ファレス]]率いる共和軍やアメリカの抗議により[[1867年]]に撤兵。この出兵は著しく第二帝政の威厳を傷つけ、第二帝政は崩壊に向かった。[[幕末]]期の[[日本]]にも進出し、[[戊辰戦争]]中の[[徳川幕府]]を支援した。


==普仏戦争==
==普仏戦争==

2005年5月7日 (土) 03:23時点における版

ナポレオン3世

ナポレオン3世(本名ルイ=ナポレオン・ボナパルトCharles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808年4月20日 - 1873年1月9日、在位1852年-1870年)は、フランス政治家で、フランス第二帝政皇帝

生い立ち

ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の弟であるオランダ王ルイ・ボナパルトとナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子であったオルタンス・ド・ボアルネ(オランダ女王)の三男として1808年パリに生まれた。ナポレオン1世の甥に当る。王家の息子のために裕福な生活を過ごしていたが、ナポレオン・ボナパルトが1815年ワーテルローの戦いに敗北すると亡命生活を強いられる。

帝政樹立

フランスの7月王政打倒を訴えて2度反乱を起こすが、失敗。二月革命勃発後は補欠選挙で当選、議員としてフランスに復帰。フランス第二共和政期に対抗馬カヴェニャック将軍に圧勝して大統領に当選。大統領で権力を蓄えた後、1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年にはナポレオン1世と同様国民投票を経て帝政を開始、ナポレオン3世として君臨する。一連の流れはボナパルティズムによるところが大きい。 その後1852年~1860年までを権威帝政、1860年1月23日に締結された英仏通商条約(自由貿易への転換)から、1869年までを自由帝政、1869年~1870年までのエミール・オリヴィエ内閣を議会帝政と呼ぶ。 権威帝政では産業資本の利益援護政策を推進し、またオスマンと共にパリを大改造するなどの大成果を上げた。 自由帝政では立法院に対し大幅に権限を譲歩、民衆に自由の道を開いた。しかし、ジャーナリズムを軽視したためメキシコ干渉後は大幅にその権威を悪評によって傷つけられた。そのため1869年からエミール・オリヴィエの第3党の育成に取り組んだ(普仏戦争の敗戦により頓挫)。


対外戦争

1853年クリミア戦争イギリスオスマン帝国側で参加(参戦は1854年から)、ロシア帝国を破り、パリ条約で世界にフランスの威力を見せつけた。1856年イギリスと共同してアロー戦争を引き起こし清朝を屈服させる(1860年)。1858年インドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得、1859年5月3日にはイタリア統一戦争に介入、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ軍と共に転戦。6月4日のマジェンタの戦い、6月24日のソルフェリノの戦いで勝利。イタリア統一を支持する代償として、サヴォイニースを獲得する。1861年にはメキシコ出兵など、積極的な対外政策を取る。1864年にオーストリア皇帝の弟マクシミリアン公をメキシコ皇帝に就けた。しかし、ファレス率いる共和軍やアメリカの抗議により1867年に撤兵。この出兵は著しく第二帝政の威厳を傷つけ、第二帝政は崩壊に向かった。幕末期の日本にも進出し、戊辰戦争中の徳川幕府を支援した。

普仏戦争

1870年スペイン王位継承権についてプロイセンと争い、ビスマルクの計略(エムス電報事件)により7月19日宣戦布告する(普仏戦争)。部下の失策により序盤から劣勢となり、9月2日セダンの戦いに自ら出陣したが、腎臓結石を患っており、移動もままならずプロイセン軍に包囲され、降伏して捕虜となった。パリ市民の反感を買い、9月4日失脚。第二帝政は幕を閉じた。勝利したプロイセンは全ドイツを統一し、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式を行った。 ]

亡命

1871年3月、ドイツからイギリスに亡命し、1873年1月9日亡命先イギリスのカムデン・プレイスで死去。その息子、ユジューヌ・ルイ・ナポレオンは英軍に入り、1879年にアフリカ南部で戦死した。

評価

今日、ナポレオン3世に対する評価は極めて低い。それには、普仏戦争によりアルザスロレーヌ地方を喪失し、第一次世界大戦の禍根を残したことと、その帝位が降伏、革命で終わったことが大きい。 しかし、彼が行ったパリの大改造や、イギリスとの友好関係はフランスを強固にした。他にも、イタリア統一戦争によって得たサヴォイとニース地方の獲得、といった数々の成功も収めており、再評価されるべき皇帝である。