1126年
表示
千年紀: | 2千年紀 |
---|---|
世紀: | 11世紀 - 12世紀 - 13世紀 |
十年紀: | 1100年代 1110年代 1120年代 1130年代 1140年代 |
年: | 1123年 1124年 1125年 1126年 1127年 1128年 1129年 |
1126年(1126 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
他の紀年法
[編集]カレンダー
[編集]できごと
[編集]- 春:宋の首都開封で、李綱将軍の復権を求める学者と農民の抗議運動が、政府軍と散発的に衝突した。
- 1月18日:宋の徽宗が長男の欽宗に皇位を譲った。24年間の統治だった。徽宗は太上皇となった。
- 宋金戦争。金軍は春節の2日後に黄河に達した。宮廷職員や市民、商人、開封のユダヤ人等が南に逃げた[1]。
- 1月31日:金軍は開封を包囲し、欽宗は賠償金を支払い降伏した。欽宗は宋北部の県の防衛を命じた。
- 2月18日:フルメツの戦い。ボヘミア公爵のソベスラヴ1世が、ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)率いるドイツ軍及び黒オットー2世率いるモラビア軍の連合を破った。その後ソベスラヴ1世はボヘミア公国を統治した[2]。
- 3月8日:ウラカ (カスティーリャ女王)が17年の治世の後亡くなった。21歳の息子のアルフォンソ7世 (カスティーリャ王)が後継者となった。
- 3月31日:トリポリ伯国のポンスが、ベッカー高原の入り口をオロンテス川から守るラファネア要塞を攻撃した。この要塞はかつて祖父のレーモン4世 (トゥールーズ伯)が支配していた。包囲は18日に及んだ[3]。
- 夏:ビザンツ帝国のヨハネス2世コムネノスが1082年の条約を再確認し、ハンガリー王国及びヴェネツィア共和国との敵対関係が終了した。ビザンツ帝国はゴルバツを獲得し、スレム及びドナウ川を回復した。また、ヴェネツィア共和国に新たな商業特権を与えた。
- 夏:アルフォンソ1世 (アラゴン王)とナバラ王国が、ムラービト朝が統治するアンダルシアのグラナダを襲撃した。
- 10月上旬:アンティオキア公国をボヘモンド2世が継承した。彼はオトラントから24隻のノルマンの軍船と多くの兵馬と共に航海した。彼はサン=シメオン港に上陸し、アンティオキアに歓迎された[3]。
- 12月13日:ハインリヒ9世 (バイエルン公)の死去を受けて、ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)はバイエルン公国のハインリヒ10世 (バイエルン公)を後継者とした。
- スウェーデンのラグンヴァルド王が地方のディング(会議)で激高した小作人に殺害された。スウェーデンに統治者が不在となったが、マグヌス1世 (スウェーデン王)がイェータランドの統治権を主張した。
- ヘンリー1世 (イングランド王)が2番目の妻のアデライザ・オブ・ルーヴァンにシュルーズベリ城を与えた。城の司令官はウィリアム・フィッツァランが任命された。
- 南ラナークシャーのラザーグレンが、スコットランド初の勅許自治都市の1つとなった。
- 靖康の変が起き、金が北宋を滅ぼす。翌年北宋皇帝の弟趙構が南京(現在の商丘市)で南宋を立てる
- 千葉城を建てる[4]
- イングランドの哲学者であるバースのアデラードが、フワーリズミーの算術と天文学の著書をラテン語に翻訳した。
- 沈括と蘇軾の薬学の本が1冊にまとめられた。
- タラゴナ大司教のオレガリウスが、カタルーニャのムラービト朝と戦うために、タラゴナ騎士協会を設立した[5]。
誕生
[編集]→「Category:1126年生」も参照
- 8月13日 (大治元年7月23日) - 統子内親王、平安時代、鎌倉時代の皇族、賀茂斎院 (+ 1189年)
- イブン=ルシュド、コルドバ出身の哲学者 (+ 1198年)
- 平時子、平清盛の正室 (+ 1185年)
- 澄憲、平安時代、鎌倉時代の天台宗の僧 (+ 1203年)
- 范成大、南宋の政治家、詩人 (+ 1193年)
- 藤原信隆、平安時代の公卿 (+ 1179年)
- 源仲綱、平安時代の武将、歌人 (+ 1180年)
死去
[編集]→「Category:1126年没」も参照
- 2月10日 - ギヨーム9世、アキテーヌ公 (* 1071年)
- 3月8日 - ウラカ、カスティーリャ王国の女王 (* 1082年)
- 4月4日 (大治元年3月10日) - 平常兼、平安時代の武士、千葉氏の初代当主 (* 1045年)
- 5月14日? - 高俅、北宋の政治家、太尉 (* 生年未詳)
- 9月1日 - スヴァタヴァ・ポルスカー、ボヘミア王ヴラチスラフ2世の3度目の妃 (* 1046年/1048年)
- 蔡京、北宋の政治家、宰相、書家 (* 1047年)
- 童貫、北宋の政治家、軍人、宦官 (* 生年未詳)
- ニキータ、ビザンツ出身のキエフと全ルーシの府主教 (* 生年未詳)
脚注
[編集]- ^ Mote, Frederick W. (1999). Imperial China: 900–1800, p. 196. Harvard University Press. ISBN 978-0-674-01212-7.
- ^ Bellum.cz – Battle of Chlumec 18th February 1126
- ^ a b Runciman, Steven (1952). A History of The Crusades. Vol II: The Kingdom of Jerusalem. pp. 140–141. ISBN 978-0-241-29876-3
- ^ “「千葉氏」で地元愛高まれ 有力御家人の功績に光”. 日本経済新聞 (2016年9月7日). 2021年1月7日閲覧。
- ^ Fletcher, R. A. (1987). “Reconquest and Crusade in Spain c. 1050-1150”. Transactions of the Royal Historical Society. 5 37: 31–47 [46]. JSTOR 3679149.