クリシュナ・ラージャ2世
表示
クリシュナ・ラージャ2世 Krishna Raja II | |
---|---|
マイソール王 | |
在位 | 1734年 - 1766年 |
戴冠式 | 1735年6月15日 |
別号 | ラージャ |
出生 |
1728年 |
死去 |
1766年4月25日 シュリーランガパトナ |
子女 |
ナンジャ・ラージャ チャーマ・ラージャ8世 チャーマ・ラージャ9世(養子) |
王朝 | オデヤ朝 |
父親 | クリシュナ・ラージャ1世(養父) |
宗教 | ヒンドゥー教 |
クリシュナ・ラージャ2世(カンナダ語:ಇಮ್ಮಡಿ ಕೃಷ್ಣರಾಜ ಒಡೆಯರ್, :Krishna Raja II, 1728年 - 1766年4月25日)は、南インドのカルナータカ地方、マイソール王国の君主(在位:1734年 - 1766年)。チッカ・クリシュナ・ラージャ(Chikka Krishna Raja)とも呼ばれる。
生涯
[編集]1734年6月10日、マイソール王であるチャーマ・ラージャ7世が廃位されたことにより、クリシュナ・ラージャ2世が故クリシュナ・ラージャ1世の妃の養子となり王位を継承した[1]。
その治世、王国のムスリム軍人であるハイダル・アリーがカーナティック戦争などで功を挙げ、1759年までにダラヴァーイー(軍総司令官)として王国の実権を握った[2]。
1760年8月22日、マラーター王国と結んだ反ハイダル・アリー派をは政変を起こし、ハイダル・アリーを失脚させたのち、シュリーランガパトナから追放した[3]。
だが、まもなくハイダル・アリーは勢力を盛り返し、翌1761年6月には再び王国の実権を握った[3]。クリシュナ・ラージャ2世はこれを認めざるを得ず、彼をサルヴァーディカーリー(首席大臣)に任命した[4]。
1763年3月、ハイダル・アリーはケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、アラビア海に面したカナラ地方の併合に成功した[5]。彼はこの王朝の首都であるビダヌールをハイダルナガルと改名し、シュリーランガパトナに代わる自身の拠点とした[6]。
1766年4月25日、クリシュナ・ラージャ2世は死亡し、息子のナンジャ・ラージャが王位を継承した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b Mysore 3
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.203
- ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.40
- ^ KHUDADAD The Family of Tipu Sultan GENEALOGY
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.202
- ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.212
参考文献
[編集]- 辛島昇編 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年