Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

ソビエト連邦の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本項では、ソビエト連邦歴史について述べる。

1917年十月革命によって誕生したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は、世界初の社会主義国家として知られ、後のソビエト連邦の基礎を確立している。およそ5年続いたロシア内戦の後、1922年12月30日に開かれた第1回全連合ソビエト大会ロシア語版においてソビエト連邦結成条約ロシア語版が締結されたことにより、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。

1924年1月には指導部を率いたウラジーミル・レーニンが早逝、その頃からはヨシフ・スターリンレフ・トロツキーとのあいだで起きていた主導権爭いが表面に浮き彫りはじめ、トロツキーの側が排除されることでスターリンの有利に終わった。1936年新憲法が制定されると、スターリンは大粛清を行い基盤をさらに強化する。この時代に全土規模の工業化が進められ、世界恐慌の影響さえも受けずにいたソビエト連邦は、1941年ナチス・ドイツの奇襲によって第二次世界大戦へ参戦し、1945年ドイツが降伏するとソビエト連邦は東欧一帯をその支配下に置き、周辺に社会主義国を樹立させ、第二次世界大戦の同盟国であったアメリカ合衆国世界を二分した。

スターリンの死をきっかけに、ソビエト連邦は官民共同の刷新、躍進が行われることとなった。個人崇拝批判平和共存自治共和国の復権はいずれも50年代に成し遂げられたものであり、1960年代には81カ国共産党・労働者党代表者会議をモスクワで開催、米ソで競争を繰り広げた宇宙開発では世界初の有人宇宙飛行の成功を収めた。しかし、フルシチョフに続く四半世紀の間のソビエト連邦は、支配強化と経済停滞を経験する。1968年チェコスロヴァキア侵攻1979年アフガニスタン侵攻は、ソビエト連邦と親善にある社会主義諸国に激震が走り、また、当時の最高指導者レオニード・ブレジネフ社会主義全体の利益のための一国の主権制限を事実上容認したことによって、アルバニアワルシャワ条約機構脱退、中ソ国境紛争などを招いた。しかし、ソビエト連邦は同時期にアフリカへの関与を強め、アンゴラの独立モザンビークの独立を支援した。これら諸国に対する援助は莫大なものになり、停滞するソ連経済を圧迫することとなる。

1980年、東欧はポーランド反乱が発生し、チェコスロヴァキアのような武力介入こそはなかったものの、ソビエト連邦は激しい干渉を行い鎮圧する。ほどなくユーリ・アンドロポフによる支配へ替わり、ソビエト連邦の中では汚職撲滅が盛んとなる。やがて自身の基盤を安定させたアンドロポフだが、病に侵された身体は激務によって一層の衰弱を起こし死亡。1984年にアンドロポフの後任としてコンスタンティン・チェルネンコが政権を握ったが、こちらも老齢であったため1年も持たずに亡くなった。

1985年ミハイル・ゴルバチョフが55歳の若さで最高指導者に君臨すると、さかんな内政や外交への改革政策などでその手腕を表し始める。当時よりソ連各地で事故が起こっていたことに不満を抱いていたゴルバチョフは、1986年チェルノブイリ原子力発電所事故で早急の改革を決断。しかしこの改革は、中央指導部、そして地方指導部では警戒を招くこととなり、後のゴルバチョフが改革派・保守派両側から挟まれる原因にもなった。外交面では1987年以降、積極的に冷戦緩和へと動き始め、アメリカとの中距離核戦力全廃条約締結、ドイツ統一条約への根回し、マルタ会談ではソビエト連邦は冷戦の終結を宣言した。

外交面で成果を収めたソビエト連邦であったが、内政では1988年以降、ソビエト連邦を構成するエストニアが主権宣言を採択したことにより他の構成国もこれに続いて主権を宣言する事態に発展。その後も、ソ連中央と構成国との軋轢、ソビエト連邦以前の歴史問題を発端とした構成国と構成国との衝突は激化する一方で、連邦の存在そのものが大きく問われることとなる。

1991年には、ソビエト連邦という機構そのものを見直すために1922年連邦条約に替わる新連邦条約が締結されるはずであったが、改革派とともにゴルバチョフとの関係が険悪であった保守派によって中断されてしまう。その後、構成国は総じてソビエト連邦から離脱することを決め、同年12月のロシア、ウクライナ白ロシアの三国が独立国家共同体創設合意によりソビエト連邦存続の可能性は完全に途絶えてしまう。12月25日、ゴルバチョフは自身の辞任を表明、翌26日にソビエト連邦の存在の終了は決議され、69年の歴史に幕を下した。

連邦を構成していた諸国はいずれも主権国家としてそれぞれに道を進むも、急激な変化による情勢の混乱は避けられなかった。ロシアでは1993年、新憲法制定をめぐって大統領と最高会議が衝突タジキスタンでは独立から1997年までにイスラーム勢力との内戦アルメニアアゼルバイジャンは、両国の間に位置するナゴルノ・カラバフをめぐって戦争状態に陥り、現在に続く対立関係がある。

※ 本稿では、1918年2月1日より日付はグレゴリオ暦による。

ソビエト連邦の形成まで

[編集]

血の日曜日事件

[編集]
1月9日早朝のナルバ凱旋門

1917年の二度にわたる革命の総稽古であり、それなしには十月革命の成功は考えられないと言われる{{第一次ロシア革命の勃発の合図となったのが血の日曜日事件である[1]


帝政崩壊後の情勢

[編集]

十月革命

[編集]

ペトログラードの武装蜂起

[編集]
スモーリヌイ女学院[注 1]

10月24日[注 2]午前5時半、臨時政府の側にある士官学校生徒の一隊は『ラボーチイ・プーチ[注 3] 』の印刷所に突入し、あらゆる機材および新聞を破壊・強奪した。それとともに臨時政府はペトログラード軍事革命委員会コミッサルと委員を逮捕し、ボリシェヴィキ本部の置かれるスモーリヌイ女学院を占領するよう命令、午後にはボリシェヴィキ本部(スモーリヌイ)の置かれる地区の労働者を逃すため、接続するニコラエフスキー橋、ドヴォルツォヴィ橋及びリテイヌイ橋の往来を解放を決定した[2]

武装蜂起の準備を終えつつあったボリシェヴィキ内部では、印刷所の占拠、軍事革命委員の一斉逮捕の報が入り次第、すぐさま制圧された印刷所に警備隊を派遣し『ラボーチイ・プーチ』の発行を再開させるよう同委員会へ委任した[注 4]。委任を受けた委員会は、午前10時までに印刷所へ部隊を派遣させる。部隊の迅速な作業により1時間も経たずに再稼働した印刷所は、早速記事を発行する。発行した記事には、「臨時政府を打ち倒せ!」「全権力をソヴェトへ!」の見出しがおどった。

1920年代

[編集]

1930年代

[編集]

新憲法の制定へ

[編集]

1936年12月5日に始まった第8回全連合ソビエト大会ロシア語版は、カリーニン中央委員会幹部会議長の宣言をもって開かれた。宣言のなかでは、1918年ソビエト=ロシア憲法施行以降にソビエト政権が採択した個々の決議[注 5]が1924年憲法に明記されなかったこと、これらの決議を新憲法の制定をもって明記することを唱える。

1940年代

[編集]

1950年代

[編集]

1960年代

[編集]

1960年代のソビエト連邦は、各国共産党もしくは労働党が一堂に会した81カ国共産党・労働者党代表者会議を主催し(1960年)、アメリカとの競争の末に人類初の有人宇宙飛行を成功させる(1961年)。栄華を極めた1960年代の前半期である一方、その後半では旧機構への激しい回帰が始まり、フルシチョフ政権とは真逆の姿勢へと転じる。

世界初の有人宇宙飛行

[編集]
ボストーク1号

1961年4月12日ユーリイ・ガガーリンを乗せたボストーク1号(Восток-1)は、バイコヌール宇宙基地より発射された。この機体は発射からおよそ10分を経て大気圏を突破し、地球を丸一周する。

飛行成功から1年を迎える1962年4月9日、最高会議幹部会はこの日を宇宙飛行士の日と定めた[3]

旧機構への回帰

[編集]

フルシチョフの電撃辞職

[編集]

1964年10月12日アブハジアピツンダで保養を受けているフルシチョフに、臨時召集の一報が入る。この一報はブレジネフからのものであり、フルシチョフはすぐさまモスクワへ帰った。

総会におけるフルシチョフの解任の是非[4]
名前 役職 是非 演説の概要
1964年10月13日(初日)
ペトロ・シェレスト ウクライナ党第一書記 賛成 産業・農業問題を中心に党機関の現地活動
アレクサンドル・シェレーピン 党中央委員会書記 賛成 ニキータ・フルシチョフの体制
アンドレイ・キリレンコ 党中央委員会政治局員 賛成 レーニン主義および集団統治の原則からの造反
キリル・マズロフ 最高会議幹部会議員 賛成 人格崇拝及びカザフ共和国の処女地問題
L.エフィモフ 党中央委員会政治局員 賛成 党規約違反
ヴァシリー・ムジャバナゼ グルジア党第一書記 賛成 諸社会主義国指導者への無粋な振る舞い
ミハイル・スースロフ 党中央委員会書記 賛成 フルシチョフ個人崇拝の形成
ヴィクトル・グリシン 全ソ労働組合中央評議会議長 賛成 感情的な性格
1964年10月14日(2日目)
ドミトリー・ポリャンスキー 党中央委員会政治局員 賛成 自制心の喪失から来る行動が国家への不利益
アレクセイ・コスイギン 閣僚会議第一副議長 賛成 人格崇拝及び政治局員の過労創出
アナスタス・ミコヤン 最高会議幹部会議長 反対 フルシチョフの長所を述べ再度の機会を要望
ニコライ・ポドゴルヌイ 党中央委員会政治局員 賛成 ミコヤン演説の非難及び人格崇拝の非難

3日にわたる総会の末、フルシチョフは自発的にあらゆる役職から辞任する[5][4]

ソ連共産党23回大会

[編集]

ブレジネフの第一書記就任後初となる1966年ソ連共産党第23回大会ロシア語版では、フルシチョフの外交政策「平和共存」を踏襲したが、内政においてはフルシチョフの施策を否定した[6]。すなわち、この大会ではフルシチョフ時代に改組された党機関とソ連執行機関を旧に復するとともに、党規約をも改正して政治局の名称を復活し、書記長制へと回帰したのである。

1970年代

[編集]

1980年代

[編集]

1980年代の10年間に起こった多くの事象はソビエト連邦という存在そのものの終焉に近づかせた。1980年アレクセイ・コスイギンの死から始まった世代交代、ソ連外交の転換点の一つとなる大韓航空機撃墜事件1983年)、ミハイル・ゴルバチョフの就任(1985年)。これら前半期の出来事に加え、1980年代後半にはチェルノブイリ原子力発電所事故1986年)、中距離核戦力全廃条約1987年)、ペレストロイカ1988年)、マルタ会談1989年)がそれぞれソ連邦を大きく揺るがすこととなる。

一つの世代の終焉

[編集]

1980年12月18日アレクセイ・コスイギンの死と、1982年1月15日ミハイル・スースロフ第二書記、そして同年11月10日のブレジネフ書記長の死は、ソビエト連邦を治めた重役の死のみにならず、ポスト・フルシチョフという一つの世代が過ぎ去ったことを意味した[7]。3人はいずれもフルシチョフ政権において党中央へと出世し、その裏でフルシチョフの解任計画を立案したのである。

グルジアの異端的実験

[編集]

グルジア共和国書記長エドゥアルド・シェワルナゼが1979年に同国共産党へ置いた世論センターは、グルジア国土における事業の質を監視し、民衆からの不満な評価をもらった高官を解職するのに役立った[8]。その後にシュワルナゼが行った政策というのは、企業家の精神を有効に活用するための企業の自主管理、市場関係に基づいた価格設定、小規模企業の家族経営、闇企業の合法化などであり[9]、さらには文化芸術、報道全般の統制も緩める。

連邦の終焉

[編集]

詳細は「ソビエト連邦の崩壊」を参照

諸国の情勢

[編集]

年表

[編集]

ソビエト連邦の歴史のうちに重要な出来事を列挙していく。

1917年
1918年
1919年
1920年
1921年
1922年
1923年
1924年
1925年
  • 1月20日 日本との国交を樹立、ならびに北サハリンの返還。
  • 5月13日 第3回全連合ソビエト大会(20日まで)。
1927年
1928年
1929年
1930年
1931年
  • 3月8日 第6回全連合ソビエト大会開会(17日まで)。
1932年
1933年
1934年
1935年
  • 1月28日 第7回全連合ソビエト大会開会(2月6日まで)。
1936年
1937年
1938年
1939年
1940年
1941年
1942年
1943年
1944年
1945年
1946年
1947年
1948年
1950年

1982年

1985年

1986年

1988年

1991年

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現在はサンクトペテルブルク市長公邸の一つであるが、施設の大半が一般に開放されている。
  2. ^ グレゴリオ暦で11月6日
  3. ^ 後の『プラウダ』である
  4. ^ См. «Протоколы Центрального Комитета РСДРП(Б). Август 1917—февраль 1918». М., Госполитиздат, 1958, стр. 119.
  5. ^ 労働者=被搾取人民の権利宣言など
  6. ^ 3月12日
  7. ^ 3月15日
  8. ^ 4月16日
  9. ^ 4月17日
  10. ^ 6月16日
  11. ^ 10月24日
  12. ^ 11月7日
  13. ^ 11月8日
  14. ^ 11月15日
  15. ^ 12月24日
  16. ^ 12月25日まで
  17. ^ 12月25日まで
  18. ^ 1月23日
  19. ^ 1月28日
  20. ^ 2月2日
  21. ^ 但し、戦争の影響にいより1941年で中断される。
  22. ^ この置換はあらゆる人民委員会議に適用した。

出典

[編集]

参考文献

[編集]

書籍

[編集]
  • 西島有厚『ロシア革命前史の研究』青木書店、1977年https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001332478 
  • 松田道雄『ロシアの革命』 22巻、河出書房〈世界の歴史〉、1975年https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001225526 
  • メドベージェフ, ジョレス (1983), アンドロポフ クレムリン権力への道, 毎日新聞社, https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001634923 
  • スミス, ヘドリック (1991), 新・ロシア人, 日本放送出版社, ISBN 4140087579, https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002187590 
  • 野村進『ソ連社会主義の活性化とその挫折』拓殖大学海外事情研究所、1992年。 

論文

[編集]
  • Anders, Aslund (1989), Gorbachev's Struggle for Economic Reform (Ithaca, New York: Cornell University Press, 1989), pp 35-36., Cornell University Press 

外部リンク

[編集]