ティボー2世 (バル伯)
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ティボー2世 Thiébaut II | |
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バル伯 | |
在位 | 1239年 - 1291年 |
出生 |
1221年 |
死去 |
1291年10月 |
配偶者 | ジャンヌ・ド・ダンピエール |
ジャンヌ・ド・トゥシー | |
子女 | 本文参照 |
家名 | スカルポン家 |
父親 | バル伯アンリ2世 |
母親 | フィリッパ・ド・ドルー |
ティボー2世(フランス語:Thiébaut II, 1221年 - 1291年10月)は、バル伯(在位:1239年 - 1291年)。
生涯
[編集]ティボー2世はバル伯アンリ2世とフィリッパ・ド・ドルーの息子である[1]。1239年にバロン十字軍の間に父が戦死した時に伯位を継承したが、1240年まで父の死をティボー2世は知らなかった。ティボー2世が若年であったため、母フィリッパが1242年3月17日まで摂政となった。
ティボー2世は1245年にギヨーム2世・ド・ダンピエールとフランドル女伯マルグリット2世の娘ジャンヌと結婚した[2]。2人は1243年5月3日に婚約し、その2年後の1245年3月または8月31日に結婚した。短い結婚生活で子供は生まれなかった。その翌年の1246年、ティボー2世はトゥシー、サン=ファルゴーおよびピュイゼの領主ジャンとエマ・ド・ラヴァルの娘ジャンヌと再婚した[3]。
子女
[編集]ジャンヌ・ド・トゥシーとの間に以下の子女をもうけた。
- アンリ3世(1259年 - 1302年) - バル伯、エリナー・オブ・イングランドと結婚した[4]。
- ジャン - ドルー伯ロベール4世とベアトリス・ド・モンフォールの娘ジャンヌと結婚
- シャルル - 早世
- ティボー(1260年頃 - 1312年) - 1296年よりメッツ司教、1302年よりリエージュ司教。1312年5月26日にローマで戦死し、サン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。
- ルノー(1316年没) - ランス、ボーヴェー、カンブレー、ランおよびヴェルダンの律修司祭、ブリュッセルおよびブザンソンの助祭長。1302年よりメッツ司教[3]。毒殺された。
- エラール(1262年頃 - 1335年頃) - 1292年まで修道士となり、1302年までピエルポンおよびアンセルヴィルの領主となった。ロレーヌ公ティボー2世とイザベル・ド・ルミニーの娘イザベルと結婚し[4]、6子をもうけた。
- ピエール - 1300年にピエルポン領主[4]、1326/34年にベッティンゲン領主(Herr zu Bettingen/seigneur de Bettingen)となった。最初にロンウィおよびパニーの領主ユーグ5世・ド・ヴィエンヌ(イザベル・ド・ブルゴーニュの孫)の娘ジャンヌと結婚し、4子をもうけた。2度目にエレオノール・ド・ポワティエ=ヴァランティノワと結婚した[4]。
- フィリッパ - ブルゴーニュ伯オトン4世と結婚
- アリス - ロレーヌ公フェリー3世の息子ボールガール領主マチューと結婚
- マリー - アスプルモン領主ゴベールと結婚
- イザベル
- ヨランド
- マルグリット - ヴェルダンのサン=モール女子修道院長[3]
- フィリップ
- アンリエット
脚注
[編集]- ^ Richard 1983, p. xviii.
- ^ Evergates 2007, p. 181.
- ^ a b c Wirth & Engammare 2008, p. 68.
- ^ a b c d Bubenicek 2002, p. 86.
参考文献
[編集]- Bubenicek, Michelle (2002) (French). Quand les femmes gouvernent: droit et politique au XIVe siècle. Ecole de Chartes
- Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100-1300. University of Pennsylvania Press
- Richard, Jean (1983). Lloyd, Simon. ed. Saint Louis, Crusader King of France. Cambridge University Press
- Wirth, Jean; Engammare, Isabelle (2008). Les marges à drôleries des manuscrits gothiques (1250–1350). Librairie Droz
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