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久我通光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久我 通光
時代 鎌倉時代前期
生誕 文治3年(1187年
死没 宝治2年1月18日1248年2月14日
別名 後久我太政大臣
官位 従一位太政大臣
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇
氏族 村上源氏中院流久我家
父母 父:源通親、母:藤原範子藤原範兼の娘)
兄弟 源通宗堀川通具通光土御門定通中院通方道元?、土御門通行
養兄弟:源在子(異父姉、能円子)、
証空(源親季長男)、
大江親広大江広元嫡男)
藤原宗頼の娘、督典侍(藤原範光の娘)
三条(西蓮)
通平通忠、宣通、通能、中院雅光、源雅忠、六条通有、道朝、式乾門院御匣雅成親王
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久我 通光(こが みちてる)は、鎌倉時代前期の公卿歌人内大臣源通親の三男であるが、後鳥羽天皇の乳母・藤原範子所生のため嫡男の扱いを受ける事になった。範子の連れ子で異父姉の承明門院土御門天皇を生んでいる。一般的には久我家の祖と考えられている[1]。官位は従一位太政大臣後久我太政大臣と号す。新三十六歌仙の一人。

略歴

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正治3年(1201年)に公卿となり、異母兄・堀川通具を越して昇進し、兄が任ぜられなかった右近衛大将を経て建保7年(1219年)には内大臣に任じられる。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だったことや、北条義時追討の官宣旨発給に太政官の上卿(担当公卿)として関わったことから、鎌倉幕府から恐懼に処せられ籠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟・土御門定通と共に権勢を振るい、寛元4年(1246年12月24日西園寺実氏の後に従一位太政大臣に昇った。

公卿に任ぜられた年と同年、歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて『新古今和歌集[2]等の勅撰和歌集に収められる等当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた。

また『徒然草』第100段では、水を飲むために主殿司に「まがり」に入れて持って来させる通光の姿が描かれている。

官歴

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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから、通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生して大きな禍根を残した。すなわち不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。

系譜

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脚注

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  1. ^ 通親の子供達がそれぞれ別家として独立していったため、狭議の「久我家」の始祖と捉えることが一般的である。
  2. ^ 『新古今和歌集』への入首は集中で最年少の15歳である。しかも撰者であった異母兄通具が当時右衛門督であったのに対し、通光は左衛門督であった。
  3. ^ 『日本盲人史』中山太郎 (昭和書房, 1934)
  4. ^ 八坂流コトバンク

出典

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  • 橋本政宣 編『公家事典』、吉川弘文館、2010年
  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 正治3年(1201年)に通光が非参議従三位となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「久我通光」および「源通親」の項。
  • 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』、宮内庁書陵部編、明治書院
  • 岩佐美代子著、校注『文机談』、笠間書院
  • 新訂『徒然草』 西尾実・安良岡康作校注、岩波文庫