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伊賀朝光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊賀 朝光
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 建保3年9月14日1215年10月8日
別名 所六郎
官位 従五位上左衛門少尉検非違使伊賀守
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 藤原北家秀郷伊賀氏
父母 父:藤原光郷、母:源邦業
二階堂行政
光季光宗光資朝行光重
伊賀の方結城朝光
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伊賀 朝光(いが ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将御家人吏僚伊賀氏の祖。

略歴

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藤原北家藤原秀郷流の藤原光郷の子として誕生。蔵人所に代々使えた下級官人の出身だった。母は源頼朝政所別当源邦業の娘である。

朝光は頼朝に従い、文治5年(1189年)には奥州合戦に参加。建久元年(1190年)11月の頼朝の上洛にも供奉している。正治年間(1199年-1201年)に左衛門少尉に任じられた。建仁3年(1203年)の比企能員の変では北条政子の命で比企氏攻撃軍に加わる。

娘・伊賀の方を後室に迎えた北条義時が鎌倉幕府の2代執権となった事から、朝光やその子らは義時の外戚として活躍した。建永元年(1206年)に検非違使となり、翌建永2年(1207年)に叙爵。承元4年(1210年)3月に伊賀守に任じられ、それ以降は伊賀氏を称した[1]建暦2年(1212年)12月、従五位上に叙す。建保元年(1213年)の和田義盛の乱では恩賞として常陸国佐都を賜っている。建保3年(1215年9月14日に朝光が死去し、翌日に舅である二階堂行政の家の後山に埋葬された際には、義時も参列している。

建保5年(1217年)2月10日には未亡人となった妻(行政の娘)が京で死去している。長男・光季承久3年(1221年)の承久の乱で京方の襲撃を受けて自害し、三男・光資貞応3年(1224年)3月23日に脚気のため死去。次男・光宗、四男・朝行、五男・光重と伊賀の方は貞応3年(1224年)6月の伊賀氏事件で流罪となるが、嘉禄元年(1225年)の北条政子の死後間もなく幕政への復帰を許された。

脚注

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  1. ^ 上田正昭・津田秀夫・永原慶二・藤井松一・藤原彰編『コンサイス日本人名辞典 第5版』株式会社三省堂、2009年 79頁。