信亨祚
信 亨祚(しん きょうそ、明昌3年(1192年)- 太宗12年6月23日(1240年7月14日))は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。字は光祖。
『元史』には立伝されていないが『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑にその事蹟が記され、『新元史』には五翼都総領豪士信公之碑を元にした列伝が記されている。
概要
[編集]信亨祚は戦国四君の一人の信陵君の子孫を称する一族の出で、先祖の中には南北朝時代に高歓に仕えた信都芳も含まれている。祖父は信懐陽、父は信慶寿、郷里の中でもよく知られた人物であった[1]。金朝の貞祐年間、モンゴル帝国の侵攻によって華北が荒廃すると、郷里の者千人余りを率いて自立し前後3カ月100戦あまりしたものの一度も敗れることがなかった。そのため、敵兵で信亨祚の姓名を聞いた者は恐怖で敗走し、逆に信亨祚に従う者はますます増えていったという[2]。
南宋の将の彭義斌が大名を拠点に華北に進出した時には信亨祚も官賞の授与の見返りに南宋に降るよう誘われているが、信亨祚は彭義斌の活動が失敗に終わるだろうと見抜きこれを断っている。1221年(辛巳)春には東平を拠点としモンゴルの傘下に入って大軍閥を築いた厳実に降り、五翼都総領の地位を授けられた。後に済南の軍が来襲したときには一戦してこれを撃ち破る功績を挙げている[3]。
1222年(壬午)に曹州の守護を命じられた時には任務が終わるまで甲冑を脱がずに過ごしたという。その後、厳実が黄山・恩州を攻略した際には先鋒を務めて「光祖の功多となす」と評されるほど活躍した。彭義斌配下の将である劉慶福を破った時には、功績により同知曹州軍州事・宣武将軍に任じられている[4]。
この後、漢人世侯の勢力圏がおおよそ定まっていったことで戦闘は減っていったが、その中でも徂徠山の司仙の投降を受け容れるなどの功績を残している[5]。その後、病により1240年(庚子)旧暦6月23日に49歳にして自宅で亡くなった。同年9月14日に須城県盧泉郷金谷山に葬られている[6]。
脚注
[編集]- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「諱亨祚、姓信氏、光祖其字也。魏公子無忌号信陵君、子孫因以為氏。北史信氏有名都芳字玉琳者、以芸術著称、後遂無顕人。光祖家上谷、葬県之楡河者、不知其幾昭穆矣。大父懐陽、父慶寿、以貲雄郷里有万千之目、好交結、楽施予、知名燕雲間。光祖幼有志膽、不甘落人後」
- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「貞祐兵興、以良家子係軍籍、従平章政事蕭国侯公鎮天平。蕭公還朝、不一二年、国世淪敗、帥不能軍、軍遂乱。軍中有欲図光祖者、光祖偕郷曲千餘人壁梁山。提控鄭倜来攻、前後三数月、出入百戦、未嘗挫衄。聞光祖姓名者、皆恐怖毛竪、倜敗走、自是帰光祖者益衆矣」
- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「宋将彭義斌拠大名、声勢甚張、頻以官賞誘降。光祖策其坐談、終無所成、不従。以辛巳春、帰特進公於青崖、公知其可用、署五翼都総領、佩金符、奉檄招降石城、為屯田経久之計。済南軍来襲、一戦敗之、殺獲甚衆」
- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「壬午、守曹州、不解甲、踰三年事定、還帳下。公破黄山、取恩州、先登陥陳、光祖之功為多。東平食尽、公与義斌連和、光祖知事勢所在、提孤軍渉太行、及太師於火炎、義斌誅死、光祖復従公東還。時劉慶福者、猶為義斌城守、太師進軍、慶福敗、第功遷同知曹州軍州事、官宣武将軍」
- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「画疆既定、官府粗立、且無戦攻之事、光祖給使左右、特見保任、公以児子畜之。公治軍厳、動以軍法従事、光祖従容救止、多所全活。徂徠山司仙統戸万餘、因光祖自帰、光祖受之、秋毫無所犯」
- ^ 『遺山先生文集』巻30五翼都総領豪士信公之碑「時誉既盛、今相君方議擢用、不幸遘疾、以庚子夏六月二十有三日、春秋四十九、終於私第之正寝。以其年九月十有四日、挙公之柩葬於須城県盧泉郷金谷山東原之新阡、礼也」