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大西覚養

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大西 覚養(おおにし かくよう、? - 天正6年(1578年))は、戦国時代阿波国国人領主。出雲守と称す。覚用、角養とする史料もある。俗名は輝武。父は大西頼武、弟に頼晴、頼包

生涯

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大西氏鎌倉時代荘官として京都より派遣されていた近藤氏土着改姓したもの。承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際小笠原氏に属した。南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏和議を結びこの地を離れ三好と改姓する。ここに大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。

大西覚養の父・頼武は三好長慶の妹を娶り、また覚養自身も伯父・三好実休の娘を娶っており、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。城主の覚養は、弟の大西頼包を人質として一旦は和議を結んだ。

しかし、三好氏が織田氏に援軍を頼み長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、覚養は三好笑岩の求めに応じ、和議の条件を破り戦闘準備に取り掛かった。それを知った元親は、まずは阿波の三好軍を破り、続いて天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とすと、覚養は讃岐国麻城へ逃げ延びた。天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚養は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。

阿波に戻った覚養は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。覚養は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した。

関連項目

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