山本友一
山本 友一 やまもと ともいち | |
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生年月日 | 1905年4月10日 |
出生地 | 愛媛県北宇和郡下灘村鼠鳴(現・宇和島市津島町鼠鳴) |
没年月日 | 1994年12月28日(89歳没) |
死没地 | 愛媛県宇和島市 |
前職 | 海運業 |
所属政党 |
(自由党→) (自由民主党→) 無所属 |
親族 | 子・山本公一(元衆議院議員) |
選挙区 | 旧愛媛3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1953年4月19日 - 1958年4月25日 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1967年5月 - 1971年5月 1972年4月 - 1981年 |
第40代愛媛県議会議長 | |
在任期間 | 1952年5月29日 - 1953年3月25日 |
当選回数 | 2回 |
山本 友一(やまもと ともいち、1905年(明治38年)4月10日[1] - 1994年(平成6年)12月28日[1])は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)、宇和島市長(4期)、愛媛県議会議長、盛運汽船社長、第二盛運汽船社長を歴任。長男の山本公一は元衆議院議員、元環境大臣。
経歴
[編集]愛媛県北宇和郡下灘村鼠鳴(現・宇和島市津島町鼠鳴)の半農半漁の家庭に五男三女の末子として生まれる。海運業を営む傍ら、1940年に宇和島市議会議員に当選。その後愛媛県議会議員を2期務め、第40代県議会議長に就任[2](在任1952年~1953年)。
1953年、第26回衆議院議員総選挙に旧愛媛3区から自由党公認で立候補し初当選。1955年の第27回衆議院議員総選挙でも再選。離島整備振興法の成立や細木運河、船越運河の建設に尽力。郵政大臣だった田中角栄に直訴して、不可能と言われた竹ヶ島の電話架設を実現した[要出典]。
1958年の第28回衆議院議員総選挙では、最下位当選の今松治郎(49,916票)に僅か304票差(49,612票)で落選。この時テレビの選挙速報で当選確実を打たれて陣営で当選を祝ったものの後になって落選が決まり、俗に「バンザイ落選」と言われた。
その後1967年に宇和島市長選挙に立候補し、3期目を目指す中川千代治を破り当選。再選を目指した1971年市長選では中川に敗れたものの1年足らずで中川市長が急逝。これに伴う市長選で返り咲いて以後3期務める。この間、宇和島市庁舎の建設、宇和島市立病院の財政立て直し、20日雨が降らないと断水と言われた水問題の解消(須賀川ダムの建設、南予用水事業)など功績も多いが、別当地区ゴミ焼却場を巡る住民との裁判では控訴審で実質敗訴。
1980年4月13日に行われた市長選では元県議会議長の中畑義生を破り4選したが、この市長選で双方が選挙違反したことが発覚。同年5月16日には山本(2月20日頃に後援会長に300万円を渡した容疑)・中畑(3月25日頃に数人に数百万円を渡した容疑)が揃って逮捕された[3]。その後の捜査により、中畑が選対幹部らに渡した現金の合計は3,300万円にのぼっていたことがわかった(裁判では2,881万3千円のみが犯罪事実として認定された)。6月9日、山本は漁港海岸保全工事をめぐり市内の土建業者から1,000万円の寄付を受けた容疑で再逮捕された[4][5]。1981年、辞職。同年6月2日、懲役2年の一審判決が下された[6]。
1994年12月28日、地元の宇和島市で死去。89歳没。
脚注
[編集]- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、373頁。
- ^ “愛媛県庁/歴代議長・副議長一覧”. www.pref.ehime.jp. 2021年4月29日閲覧。
- ^ 『中日新聞』1980年5月17日付朝刊、11版、23面、「宇和島市長を逮捕 市長選 数百万円の買収容疑」。
- ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (84) 同期生 西と東で違反にメス」 『朝日新聞』1981年3月22日付朝刊、三河版西。
- ^ 最高裁判所第二小法廷 昭和59年(あ)1005号 判決 - 大判例
- ^ 『朝日新聞』1981年6月23日付朝刊、12版、18面、「岡崎落城一年(中) 外堀埋め 市の犯罪徐々に解明 相手方の有罪、次々確定」。
公職 | ||
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先代 中川千代治 中川千代治 |
愛媛県旧宇和島市長 1967年 - 1971年 1972年 - 1981年 |
次代 中川千代治 菊池大蔵 |