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岡譲司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おか じょうじ
岡 譲司
岡 譲司
1920年代の写真。
本名 中溝 勝三 (なかみぞ かつぞう)
別名義 美濃部 進 (みのべ すすむ)
岡 譲二 (おか じょうじ)
生年月日 (1902-05-25) 1902年5月25日
没年月日 (1970-12-17) 1970年12月17日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川
死没地 日本の旗 日本 東京都渋谷区代々木
職業 俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1928年 - 1968年
配偶者 澤蘭子
(1931年 - 1937年 内縁)
田中都美子
(1938年 - 離婚)
著名な家族 真山譲次(長男)
主な作品
赤い灯青い灯
生さぬ仲
非常線の女
婦系図
検事とその妹
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岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)[1][2][3][4][6][7][8][9][10]

人物・来歴

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1902年明治35年)5月25日日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる[1][2][7]。祖父は佐賀藩勘定方を務め、父は三十五銀行(現在の静岡銀行)の頭取であったというが[1]、氏名などは不明である。父は三十銀行[12]の頭取兼支配人、中溝秀周である。[13][14][15]

画家志望であったが、立教大学商科に進学、同学を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する[1]。同社で同部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の誘いを受けて退社、満26歳である1929年(昭和4年)初頭に日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社、同年2月8日に公開された『栄冠』で映画界にデビューとされるが[1][2]、前年の1928年(昭和3年)9月27日に公開された池田富保監督による大作『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』に、島津久光役で出演しており「美濃部 進」の名ですでにクレジットされている[3][9]。同社では、おもに現代劇に出演、1929年7月6日に公開された徳永フランク監督の『赤い灯青い灯』で主演に抜擢される[1][2][3][9]

1931年(昭和6年)、宝塚少女歌劇団出身の女優、澤蘭子と恋愛および失踪事件を起こし、同年10月1日に公開された池田富保監督の『殉教血史 日本二十六聖人』に出演したのを最後に、2人とも退社を余儀なくされた[1][3]。澤蘭子はすでに同年4月に東京の松竹蒲田撮影所に移籍していたが、同社では、同年10月、鈴木傳明岡田時彦高田稔らが退社して独立、不二映画社設立の事態となっており、宝塚の経営者・小林一三の尽力もあって、岡も同社に入社する[1][2][3]。蒲田入社と同時に「岡 譲二」と改名した[1][2][3]。当時の所長、城戸四郎が好きな洋酒の「ジョニー・ウォーカー」をもじって命名したとのことである[1]。同社では、田中絹代初代水谷八重子らと次々に共演、サイレント映画からトーキーの時代に突入し、岡の美声が評判となり、数年のうちに蒲田のスターとなる[1][2]。とりわけ野村芳亭監督には重用されたが、1934年(昭和9年)8月15日に公開された『街の暴風』を最後に、同月23日、野村が急逝してしまう[1]。同年、同社を退社、協同映画を設立する[1][2][3]

協同映画を解散した1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社する[1][2][3]。1936年(昭和11年)1月30日に公開された、入江プロダクション製作、阿部豊監督の『白衣の佳人』に出演した後、同月、初めての徴兵を受け、大日本帝国陸軍少尉として3週間入隊した[1]。原職に復帰して、同年4月8日公開、千葉泰樹監督の『恋は雨に濡れて』に出演、その後1937年(昭和12年)1月14日に公開された『検事とその妹』に主演したのを最後に、同作の監督の渡辺邦男とともに同社を退社、京都のゼーオー・スタヂオ、さらにはP.C.L.映画製作所へと同時に移籍して行く[1][3]。同年9月10日の両社の合併による東宝映画の設立に際しては、継続的に入社し、P.C.L.のスタジオの後身である東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した[1][3]。このころ、澤蘭子との内縁関係を解消し、翌1938年(昭和13年)、新橋の名妓と呼ばれた秀菊(本名・田中都美子)と結婚した[1]。1939年(昭和14年)には、2度目の徴兵を受けて、1年間、大日本帝国陸軍少尉として働き、同年12月29日公開、滝沢英輔監督の『御存知東男』で映画界に復帰した[1][3]。当時の岡の言によれば「私淑する俳優」は、コンラート・ファイトヴェルナー・クラウスポール・ムニであるという[1]

1944年(昭和19年)8月、3度目の徴兵を受けて大日本帝国陸軍中尉として、台湾基隆に駐屯、台北で終戦を迎えた[1]第二次世界大戦終結後は、1946年(昭和21年)3月10日に復員して東宝に復帰、同年8月1日に公開された渡辺邦男監督の『命ある限り』で映画界に復帰した[1][3]東宝争議の勃発を受けて、1947年(昭和22年)、大映と契約を結ぶ[1][3]。1954年(昭和29年)7月6日に公開された、安田公義監督の『関八州勢揃い』への出演を機に「岡 譲司」と改名した[1][2][3]。晩年は妻とは離婚し、子は妻の姓を名乗っており、画廊を経営していたという[1]

1970年(昭和45年)12月17日、高血圧による心臓病を病み、東京都渋谷区代々木の病院で死去した[1][2]。墓所は青山霊園にある[1]。長女は第12期大映研修生、長男は真山譲次の芸名で、青年期の一時期、俳優として活動した[1]

明智小五郎金田一耕助両者を演じた数少ない役者である(ほかに演じたのは小野寺昭稲垣吾郎)。

フィルモグラフィ

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特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][16]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

日活太秦撮影所

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すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][9]。すべて「美濃部進」名義[3][4]

松竹蒲田撮影所

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上陸第一歩』(1932年)のスチル写真の岡譲二
また逢ふ日まで』(1932年)のスチル写真。右・岡田嘉子
非常線の女』(1933年)のスチル写真。左・田中絹代

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。すべて「岡譲二」名義[3][4]

協同映画

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製作は特筆の通り、すべて配給は「日活」、すべてトーキーである[3][4][9]

日活多摩川撮影所

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検事とその妹』(1937年)のスチル写真。右・原節子

特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、すべて配給は「日活」、以降すべてトーキーである[3][4][9]

東宝映画東京撮影所

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特筆以外すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、すべて配給は「東宝映画」である[3][4]

配給 東宝映画
配給 映画配給社
  • 翼の凱歌』 : 監督山本薩夫、1942年10月15日公開 - 主演
  • 音楽大進軍』 : 監督渡辺邦男、1943年3月18日公開 - 岡倉龍作(主演)、76分尺で現存(NFC所蔵[6]
  • 』 : 監督渡辺邦男、1943年6月10日公開 - 日下志郎(主演)、67分尺で現存(NFC所蔵[6]
  • 命ある限り』 : 監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1946年8月1日公開 - 主演

大映京都撮影所

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鉄の爪』(1951年)のポスター。

特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、すべて配給は「大映」である[3][4]

新東宝

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すべて製作・配給は「新東宝」である[3][4]

東映京都撮影所

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幽霊男』(1954年)のポスター。

特筆以外すべて製作は「東映京都撮影所」、すべて配給は「東映」である[3][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac キネマ旬報社[1979], p.113-114.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 岡譲司jlogos.com, エア、2013年1月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 岡譲司日本映画データベース、2013年1月28日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 岡譲司岡譲二美濃部進、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月28日閲覧。
  5. ^ 岡譲司岡譲二、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年1月28日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 岡譲司岡譲二美濃部進東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月28日閲覧。
  7. ^ a b c d e 岡譲司KINENOTE, 2013年1月28日閲覧。
  8. ^ a b 岡譲司allcinema, 2013年1月28日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 岡譲司岡譲二美濃部進、日活データベース、日活、2013年1月28日閲覧。
  10. ^ a b 岡譲司テレビドラマデータベース、2013年1月28日閲覧。
  11. ^ 『ビジュアル版・人間昭和史 7 (大衆のアイドル)』講談社、1986年、243頁。 
  12. ^ 伊藤二朗 編『大日本国民必携』尚書堂、1889年、385頁。 
  13. ^ 織田純一郎 等 編『東京明覧』集英堂、1904年、9頁。 
  14. ^ 『人事興信録 2版(明41.6刊)』人事興信所、1908年、695頁。 
  15. ^ 東洋新報社 編『大正人名辞典』東洋新報社、1914年、994,995頁。 
  16. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年1月28日閲覧。
  17. ^ 本名の中溝勝三名義で原案も担当している。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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