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市川團十郎 (8代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八代目 市川(いちかわ) 團十郎(だんじゅうろう)

『助六由縁江戸櫻』の花川戸助六
屋号 成田屋
定紋 三升 
生年月日 1823年11月7日
没年月日 (1854-09-27) 1854年9月27日(30歳没)
襲名歴 1. 二代目市川新之助
2. 六代目市川海老蔵
3. 八代目市川團十郎
俳名 団栗、白猿、夜雨庵など[1]
出身地 江戸
七代目市川團十郎
兄弟 七代目市川海老蔵
市川猿蔵
九代目市川團十郎
市川幸蔵
八代目市川海老蔵
新之助(養子、八代目 片岡仁左衛門

八代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、文政6年10月5日1823年11月7日[1] - 嘉永7年8月6日1854年9月27日[1])は天保年間から幕末にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号成田屋定紋三升、替紋は杏葉牡丹俳名白猿がある。

その美貌によって広い人気を集めたが、32歳のとき突如として自殺するという衝撃的な最期を遂げた。

来歴

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文政6年(1823年)、七代目市川團十郎と妻すみ(芝居茶屋、福地善兵衛の娘)の長男として江戸に生れる[1]。團十郎家の跡継ぎとして見込まれて生後一箇月で初舞台を踏み、二代目市川新之助を名乗る[1]。文政8年(1825年)、数え三つにして六代目市川海老蔵を襲名した。さらに天保3年 (1832年) には父が五代目市川海老蔵を名乗ったのにあわせて、10歳にして市村座で八代目市川團十郎を襲名する[1]

天保13年(1842年)に父親の七代目団十郎が江戸追放になると八代目は16歳で江戸歌舞伎界の最高責任者となり、弘化2年(1845年)には、父に代わって家を守る親孝行者として幕府により表彰される。これにより八代目の人気は爆発的に高まり、「助六」の舞台上で八代目が身を沈めた桶の水を美顔水としてとっくり1瓶1分(現在の価格で3000円ほど)で販売すると飛ぶように売れ、中には八代目の痰を「団十郎の御痰守」として販売する者まであった。

面長の美貌で、歴代の團十郎とはまったくの異なる二枚目役者だった。天保の改革によって一時深刻な不況をこうむった江戸の芝居町に人出が戻ったのは、八代目團十郎に負うところが大きかった。上品ななかに独特の色気があり、おっとりとした愛嬌が身にそなわって、嫌味がなかったという。当時の批評には「男振りはすぐれて美男子といふにあらねど、いはゆる粋で高等で人柄で、色気はこぼれる程あれどもいやみでなく、すまして居れども愛嬌があり」(『俳優百面相』)とある。さわやかで高音の利いた調子の科白回しがうまく、こうした特色は彼が初演した『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の与三郎によくあらわれている。同作は瀬川如皐 (3代目)が八代目のために嘉永6年(1853年)に書いたものである。

嘉永7年(1854年)、大坂の芝居に出演していた父・海老蔵を訪ねて東海道をのぼり、名古屋で父といっしょになって舞台をつとめた。7月中には大坂に着き、道頓堀船乗込みを行って稽古にかかったが、初日に旅館の一室で突如喉を突いて自殺した[2]。享年32。動機は不明だが、一説には七代目の作った多額の借金返済のため図らずも大坂の芝居に出演することになってしまい、江戸の座元(劇場所有者)への義理を立てたといわれる。八代目の死絵は300種も出たといい、中には七代目と江戸の座元との板挟みに悩んだとする自害の原因を描いた死絵もあった。

八代目市川團十郎の死絵。三代目歌川豊国筆。1854年
八代目市川團十郎涅槃図見立絵、死絵。

天王寺村の一心寺に葬る。法名は浄筵信士[3]。八代目の死により返済できなくなった市川家の借財(成田山から七代目が借りた莫大な借金と八代目が借りた100両)は新勝寺が処理した[4][5]

得意な役柄は『切られ与三』の与三郎のほかに、『菅原伝授手習鑑』の梅王、『児雷也豪傑譚』の児雷也、『助六所縁江戸桜』の花川戸助六、『偐紫田舎源氏』の足利光氏などの二枚目のほか荒事も好んでつとめた。市川宗家の芸に和事芸という新しい分野を開拓、その芸の系譜は十一代目團十郎に引き継がれることになる。

独身で後嗣がなく、20年の空白を経て、弟の初代河原崎権十郎九代目團十郎を襲名している。

逸話

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  • 父の七代目が江戸追放となったとき、精進茶断ちをして蔵前成田不動まで日参したと伝えられる。弘化2年(1845年)、これをもって孝子として北町奉行所から表彰された[1]
  • 助六』の「水入り」に使った天水桶の水が徳利一本一で売れた、吐き捨てた御殿女中たちが肌守りにしたなど、その美貌と人気を伝える逸話が数多くある。
  • 鷹揚で温厚な性格は誰からも愛された。團十郎家に融通した多額の金がいつまでたっても返済されないことに業を煮やした債権者たちが、あるとき皆で相談して大挙して八代目の自宅に押し寄せ、玄関先を埋め尽くして通せんぼをした。貸した金をいくらかでも取り立てないうちは八代目を自宅から一歩も外へは出させまいという算段である。これを見た八代目は、逃げ口上のつもりで債権者たちに「よくおいでなさいました。申し訳ございませんが、楽屋入りでございますので、どうかご免を蒙ります。どちら様もごゆるりとなさいませ」と言ったところ、並み居る債権者の誰もが痛み入ることしきりで、逆に八代目のために道を明けて「どうぞ、ご自由においでなさいませ」と慇懃に送り出してしまった。
  • 弘化5年(1848年)。奈良県天理市の楢神社に井筒を奉納した。団十郎は楢神社の信奉者だった。
  • 嘉永6年(1853年)に関原不動尊に奉納した「八代目市川団十郎奉納木造提灯扁額」は足立区登録有形文化財になっている(2015年1月15日登録、大聖寺所蔵)[6]
  • 歌舞伎評論家の戸板康二は本件をもとに『團十郎切腹事件』(新版は創元推理文庫中村雅楽探偵全集1」日下三蔵編、2007年)を書いた。これが第42回直木賞1960年)を受賞し戸板の出世作となっている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 池上文男 (1994), “市川団十郎(8代)”, 朝日日本歴史人物事典, 朝日新聞社, ISBN 4023400521, オリジナルの2016年11月2日時点におけるアーカイブ。, https://archive.is/20161102112822/https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9B%A3%E5%8D%81%E9%83%8E(8%E4%BB%A3)-1054360#45% 
  2. ^ 第2幕 華やかな推し 歌舞伎役者”. 「本の万華鏡」第34回「推し活狂想曲」. 2024年3月22日閲覧。
  3. ^ 野崎左文『増補私の見た明治文壇1』平凡社、2007年、152p頁。 
  4. ^ 47.七代目八代目団十郎史料立命館大学「市川海老蔵と幕末歌舞伎展」2004年
  5. ^ 市川團十郎と成田山大本山成田山明王院神護新勝寺
  6. ^ 八代目市川団十郎奉納木造提灯扁額”. 足立区. 2022年8月22日閲覧。

伝記

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