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庄司一郎 (政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庄司一郎
しょうじ いちろう
生年月日 1892年1月1日
出生地 日本の旗 日本 宮城県伊具郡角田町
(現・宮城県角田市
没年月日 (1964-08-15) 1964年8月15日(72歳没)
出身校 東北学院中退
前職 仙南日日新聞社社長
所属政党立憲政友会→)
日本自由党→)
民主自由党→)
自由党
配偶者 庄司久代

選挙区 (宮城県第1選挙区→)
(宮城県全県選挙区→)
旧宮城1区
当選回数 6回
在任期間 1937年 - 1952年8月28日
1953年4月19日 - 1955年1月24日

在任期間 1937年3月20日 - 1945年12月23日


大河原町会議員
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庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年明治25年)1月1日[1] - 1964年昭和39年)8月15日[2])は、日本政治家衆議院議員立憲政友会日本自由党民主自由党自由党)。厚生政務次官宮城県柴田郡大河原町[1][3][4]

来歴

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宮城県伊具郡角田町(現角田市)出身[1]。庄司房治の次男[1][4]東北学院で学び[1][4]中退した[3]。『仙台日日新聞』『東北新聞』記者、『仙南新聞』主幹を務めた[1]。後に仙南日日新聞社、雑誌『新東北』を創刊し、社長に就任した[1]。また大河原町会議員、宮城県会議員、大河原町長などを歴任した[1]

1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選6回。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。

1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では日本自由党公認で立候補し当選。第2次吉田内閣厚生政務次官、衆議院決算委員長などを歴任した[2]1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補したが落選、政界を引退した。

その他、東北自由新聞社長を務めた[2]

人物

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趣味は考古学、古書蒐集[1][4]。宗教はキリスト教[4]。住所は宮城県柴田郡大河原町[4]

家族・親族

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庄司家
  • 妻・久代1897年 - ?、社会功労者)[1]
  • 長男、次男、三男、長女、次女[1]

著書

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  • 『史伝 片倉小十郎景綱』(大正堂書店、1915年)
  • 『東北之宝庫川崎村』(仙南新聞社、1917年)
  • 『白石町誌』(北日本書房、1925年)
  • 『角田町郷土史』(仙南日日新聞社、1926年)
  • 『村田町誌』(仙南日日新聞社、1927年)
  • 『町村自活と公民生活』(仙南日日新聞社、1933年)
  • 『鈴木清之輔翁伝』(仙南日日新聞社、1934年)
  • 『伊沢亮庵翁伝』(伊沢亮庵翁伝刊行会、1935年)
  • 『時局ト青年教育論』(新興東北出版部、1939年)
  • 『阿武隈川の沿革と改修運動史』(阿武隈川下流改修期成同盟会、1941年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『宮城県名士寳鑑』298-300頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月19日閲覧。
  2. ^ a b c 衆議院議員名鑑 1990.
  3. ^ a b 『翼賛選挙大観』82頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 『人事興信録 第13版 上』シ98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月20日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。 
  • 『翼賛選挙大観』朝日新聞社、1942年。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
議会
先代
田中彰治
日本の旗 衆議院決算委員長
1954年
次代
上林与市郎