戸叶武
戸叶 武 とかの たけし | |
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生年月日 | 1903年2月11日 |
出生地 | 栃木県安蘇郡田沼町 |
没年月日 | 1982年12月25日(79歳没) |
死没地 | 東京都新宿区 |
出身校 | 早稲田大学 |
前職 |
新聞記者 大学教員 |
所属政党 |
(右派社会党→) 日本社会党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 戸叶里子(衆議院議員) |
親族 | 父・戸叶薫雄(衆議院議員) |
選挙区 | 栃木県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
1953年5月3日 - 1965年6月1日 1971年7月4日 - 1982年12月25日 |
戸叶 武(とかの たけし、1903年2月11日 – 1982年12月25日)は、日本の政治家。参議院議員(4期、日本社会党)。妻は衆議院議員の戸叶里子。
経歴
[編集]田中正造の政治的後継者で、下野新聞社長を務めていた戸叶薫雄の長男として、栃木県安蘇郡田沼町に生まれた。旧制豊山中学校[1](現日本大学豊山高等学校)を経て、早稲田大学政治経済学部へ入学。在学中は、高野実などと社会主義学生団体「文化会」を率いる。また、雄弁会に参加し、1922年(大正11年)には先輩である浅沼稲次郎の推薦により幹事となった[2]。
1925年(大正14年)1月24日、学校教練に反対するデモにリーダー格で参加して麹町警察署に一時検束される[3]。同年、早稲田大学を卒業してロンドン大学へと留学した。その後、東京朝日新聞に記者として入社し学芸部に所属。1930年(昭和5年)、国際連盟東京事務所に勤めていた吉田里子と結婚。1940年(昭和15年)、朝日を退職し、福家俊一が社長を務めていた国策新聞「大陸新報」の政治部長兼論説委員長として上海に妻と赴任[2]。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙栃木1区に東方会から出馬するが、落選。戦後、公職追放された[4]。また、宇都宮大学、東海大学で政治学を講じた[2]。
戦後は政界進出を図るも戦前の活動がたたり断念。1946年に行われた第22回衆議院議員総選挙には身代わりとして妻である戸叶里子を栃木1区から立候補させてトップ当選(以後、夫を尻目に25年間落選することなく衆議院議員を勤めた)[5]、続いて自らも1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙栃木2区に右派社会党から出馬したが落選。1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙栃木県選挙区から右派社会党から立候補し、初当選。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙に日本社会党から出馬し、再選。
1965年(昭和40年)の第7回参議院議員通常選挙では、自由民主党の船田譲・田村賢作に敗れ、落選。1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、自由民主党の植竹春彦・矢野登に敗れ、次点。1971年(昭和46年)1月、第7回栃木県知事選挙に無所属で出馬し、現職の横川信夫に敗れ、落選。同年6月の第9回参議院議員通常選挙当選[2]。同年11月、妻が死去。1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙再選。
1982年(昭和57年)12月25日、東京都新宿区戸山の自宅で入浴中に倒れ死去、79歳[2]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従三位に叙される[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]関連項目
[編集]議会 | ||
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先代 堀末治 |
参議院運輸委員長 1956年 - 1957年 |
次代 天田勝正 |
先代 棚橋小虎 |
参議院農林水産委員長 1956年 |
次代 重政庸徳 |