Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

政教社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

政教社(せいきょうしゃ)は、1888年明治21年)、東京にできた政治評論団体。機関誌『日本人』、『亜細亜』、続いて『日本及日本人』を発行し、単行本も出版した。結成期の主張は、西欧化に盲進せず、西欧文化は消化した上で取り入れるべしとの、国粋主義だった。性格を変えながら、1945年昭和20年)まで存続した。

歴史

[編集]

発足は、1888年(明治21年)、神武天皇祭の4月3日。政府は不平等条約改正の一助にと、なりふり構わぬ西欧化、鹿鳴館の狂騒、に明け暮れていた。前年12月には反対勢力を弾圧する保安条例が施行された。

政教社は、この情勢を憂えて結成された。発足時の同人は、哲学館(現・東洋大学)系の井上円了加賀秀一島地黙雷辰巳小次郎棚橋一郎三宅雪嶺と、東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)系の志賀重昂松下丈吉菊池熊太郎今外三郎杉江輔人との11人で、間もなく杉浦重剛宮崎道正中原貞七も加わった[1]

両グループを結んだのは杉浦重剛で、『政教社』と名付けたのは宮崎道正とも井上円了とも言われる[2]

結成と同時に機関誌の『日本人』を出した。社屋は東京府神田区南乗物町。のち、おもに神田区内を、転々した。

政治的看板は国粋主義だったが、同人らには西欧の知識があった。その国粋主義は、日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける排他的な狂信ではなく、志賀によれば次だった。「宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態を守り続けろというのではない。ただし西欧文明は、咀嚼し消化してから取り入れるべきだ」(『日本人』第2号所載、「「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す」の大意)。

発足早々、九州高島炭坑の労働者の惨状につきキャンペーンを広げた。発足当初の日本新聞と一緒に、大隈重信の条約改正案の『まやかし』を非難した。

『日本人』誌は頻繁に発禁処分を受け、社側は1891年(明治24年)6月から1893年9月までと1893年12月からの短期間と、身代わりの雑誌『亜細亜』を出して対抗した。

しかし、同人は一枚岩でなかった。発足数ヶ月のうちに杉浦重剛と宮崎道正が去り、宗教系の井上円了と島地黙雷も離れ、1892年 - 1893年ごろには志賀重昂と三宅雪嶺だけが残り、長沢別天畑山芳三内藤湖南が、1890年に入社した。内藤は1893年に退社し、さらに志賀も1895年に去って、結団時の14人は三宅雪嶺1人になった。

1894 - 1895年(明治27年 - 明治28年)の日清戦争を、日本新聞と共に支持した。

三宅の政教社と陸羯南の日本新聞とは親しく、日本新聞の社屋内に政教社が編集室を置いた時期さえあり[3]、1902年には陸羯南社長が日本人誌の社説を受け持ち、1904年からは三宅が日本新聞の社員を兼ねて同紙の社説を書くという、一心同体的な仲だった。

1906年(明治39年)、日本新聞の社長が伊藤欽亮に代わると、その運営に反対する社員のうち、兼任の三宅のほか、長谷川如是閑花田節本間武彦千葉亀雄小山内大六渡邊亮輔河東碧梧桐梶井盛掛場磯吉武田勇高木松次郎井上亀六古荘毅国分青崖古島一雄鰺坂定盛荒木恒造早乙女勇五郎斎藤信三苫亥吉三浦勝太郎が辞職して政教社に移り、三宅雪嶺主宰は、日本新聞の伝統をも受け継ぐとして、『日本人』の誌名を1907年から『日本及日本人』と変え、政教社を新発足させた。

1920年、姉妹誌『女性日本人』を創刊したが、赤字だった。

1923年(大正12年)の関東大震災で四谷区愛住町にあった政教社は罹災した。三宅と女婿・中野正剛との再建案が社員に受け入れられず、三宅は退社し、残った井上亀六・大野兵三郎小谷安太郎・古荘毅・荒川紋治寒川鼠骨雑賀博愛関喜三郎住谷穆が、1924年から雑誌を復刊した。

以降の政教社は次第に右傾し、三井甲之らの神秘的国粋論を雑誌に載せた。三井は1929年(昭和4年)去って、翌年五百木良三が社長になり、1937年に彼が没した後は、国分青崖社長、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆の、戦争協力体制になった。

『日本及日本人』の発行は、敗色迫る1944年12月で終わった。

1945年5月下旬、社屋は空襲に焼かれ、敗戦直後、寒川らが再建を口にし、1953年にも相談された[4]が、実らなかった。

単行本の出版記録

[編集]
  • 三宅雪嶺『真善美日本人』(1891年3月)
  • 三宅雪嶺『偽悪醜日本人』(1891年5月)
  • 三宅雪嶺『我観小景』(1892年10月)
  • 三宅雪嶺・志賀重昂『断雲流水』(1893年11月)
  • 三宅雪嶺『王陽明』(1893年11月)
  • 三宅雪嶺『馬鹿趙高』(1894年4月)
  • 長沢別天『盲詩人』(1894年5月)
  • 志賀重昂『日本風景論』(1894年10月)
  • 香川悦次編、同人の共著:『小弦集』(1896年11月)
  • 志賀重昂『河及湖沢』(1897年1月)
  • 三宅雪嶺『冒頓』(1897年11月)
  • 三宅雪嶺『大塊一塵』(1903年1月)
  • 三宅雪嶺『明治丁未題言集』(1907年2月)
  • 三宅雪嶺『宇宙』(1909年1月)
  • 河東碧梧桐(編)『日本俳句鈔』(1909年5月)
  • 長谷川如是閑『額の男』(1908年8月)
  • 三宅花圃『野村望東尼』(1911年4月)
  • 大庭柯公『南北四万哩』(1911年6月)
  • 鵜崎鷺城『薩の海軍長の陸軍』(1911年11月)
  • 長谷川如是閑『倫敦』(1912年5月)
  • 藤本尚則『巨人頭山満翁』、大正11年(1922年
  • 三浦梧楼(述)・政教社(編)『観樹将軍囘顧録』(1925年)
  • 頭山満(講評)『大西郷遺訓』(1925年)
  • 政教社(編)『嗚呼草刈少佐』(1930年)
  • 『刑余大臣奏薦の責任 国家綱紀の破壊』(1931年)

出典

[編集]
  • 明治文学全集37 政教社文学集』 筑摩書房、1980年
    巻末の「研究・解題・年譜・参考文献・政教社文学年表」参照。

脚注

[編集]
  1. ^ 植手通有「国民之友・日本人」(『政教社文学集 明治文学全集37』所収)筑摩書房、p.403。
  2. ^ 松本三之介「解題」(『政教社文学集』所収)の冒頭、p.422
  3. ^ 長谷川如是閑『ある心の自叙伝』、講談社学術文庫、1984年、p.338。
  4. ^ 吉田漱編「寒川鼠骨年譜」(寒川鼠骨『正岡子規の世界』六法出版社、1993年、所収)。

外部リンク

[編集]