Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

日朝首脳会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日朝首脳会談
開催国 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
日程 2002年 (2002)
標語 日本人拉致問題の解決
会場 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮平壌
参加者 日本の旗 日本の内閣総理大臣小泉純一郎
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮の金正日委員長

日朝首脳会談(にっちょうしゅのうかいだん)は、日本国朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との首脳同士による会談。2002年(平成14年)9月と2004年(平成16年)5月の計2回開かれた。この会談により日本人拉致被害者の5人が帰還した。

概要

[編集]

背景

[編集]

1965年(昭和40年)の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)により、日本国は大韓民国と国交回復し、また同条約第三条で、韓国を朝鮮半島における唯一の合法的政府と認めた。

しかしながら、かつて朝鮮半島は日本の統治下にあり、戦後及び朝鮮戦争の混乱等から、多数の「在日コリアン」が日本国内に居住していた。正式な国交が無いことにより、在日朝鮮人の帰還事業[注釈 1]も、日本赤十字社朝鮮赤十字会によって行われた。一方、これを逆手に、在日朝鮮人の関与した陸英修暗殺事件や李善実によるスパイ活動、そして北朝鮮による日本人拉致問題[注釈 2]等の国家的な犯罪(テロ)行為が、日本国内及び日本国民に対し行われてきた。

1990年(平成2年)9月、自民党の金丸信らによる訪朝団が金日成と面会し、以降、日朝国交正常化交渉にむけた協議が行われることとなったが、すぐに問題が山積し暗礁に乗り上げた。一方1990年代を通じ、日本人拉致問題が徐々に明らかなるにつれ、被害者救出に向けた日本国内の世論が形成されていった。他方、日本国内でも北朝鮮を支持・支援する団体や個人も根強く存在した。また同時期から北朝鮮によるミサイル発射実験が顕著となった。

2000年代になっても拉致問題に対する日本政府の動きは鈍重だった。さらに2002年(平成14年)1月に発生した九州南西海域工作船事件や、ジョージ・W・ブッシュ米大統領の『悪の枢軸』発言により、ついに同年4月、国会(衆議院[1]及び参議院[2])で、「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」が採択されるに至った。

一方の北朝鮮も、1990年代の飢餓「苦難の行軍」以来の食料・経済難や、2000年(平成12年)の第1回南北首脳会談後、『悪の枢軸』発言による米朝及び南北関係の行き詰まりから、日朝関係に活路を見出そうとした。

2度の会談:小泉政権下

[編集]

2002年(平成14年)9月17日、内閣総理大臣の小泉純一郎(当時)が北朝鮮の平壌を訪問し、日本国の首相として初めて同国を訪問し、国防委員長の金正日と会談した。金正日自ら、日本人拉致を認めるに至った。同年10月15日、拉致被害者のうち5名が日本に帰国を果たす。

1度目の会談で、拉致被害の事実が確定した直後の日本の世論は沸騰し、在日朝鮮人社会も強い衝撃を受けた。日朝平壌宣言が合意され、日朝国交正常化交渉が動き出したものの、その後拉致被害者の「死亡」事実や、核・ミサイル問題を巡り、対立は解消されなかった。

2004年(平成16年)5月26日、再び小泉首相が訪朝し、金正日と会談した。「拉致問題」「核、ミサイル問題」について平壌宣言が基礎にあることを確認した。また、北朝鮮国内に残留している、第1回会談で帰国した5名の家族たちの処遇を巡って、最終的に全員が日本に「帰国」することとなった。

2006年(平成18年)、北朝鮮の核実験に端を発し、国連安保理決議第1718号主文12によって同国に経済制裁が行われることとなった。その後の日朝関係の悪化により、国交正常化交渉や首脳会談は途絶えている。

第1回日朝首脳会談(2002年9月)

[編集]
2002年9月、第1回会談

2002年(平成14年)9月17日平壌の百花園招待所で、日本の内閣総理大臣小泉純一郎と北朝鮮の事実上の最高指導者である国防委員長金正日が行った。

会談終了後、会見冒頭で小泉は次のように述べた。

私からは、金正日国防委員長に対し、特に二つのことを強調しました。

第一に日本は正常化交渉に真剣に取り組む用意があると。しかし、正常化を進めるためには拉致問題を初め安全保障上の問題など、諸懸案に北朝鮮側が誠意を持って取り組むことが必要であると。第二に、北東アジア地域の平和と安定のために、米国及び韓国を初めとする国際社会との間で、対話を更に促進すべきであると。特に、拉致問題や安全保障上の問題については先方の決断を強く促しました。

— 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

両者は日朝平壌宣言に署名し、国交正常化交渉を10月に再開することで合意した。また、小泉首相は、翌9月18日に韓国の金大中大統領に電話連絡をし、会談の事実や概要を報告するとともに、今後も日韓米三国で緊密な連携・協力を行うことを確認しあった[4]

議題

[編集]

日本人拉致問題

[編集]

金正日は、小泉首相に対し、以下のように特殊機関の一部が日本人を拉致した事実を認め、謝罪した[5][注釈 3]

70〜80年代に特殊部署が妄動主義、英雄主義に駆られ、工作員日本語教育と、日本人に成りすまして韓国へ侵入するために日本人を拉致したが、このような誤った指示をした幹部を処罰した…。工作船は軍部が訓練の下でした。私は知らなかった…。再びないようにする — 金正日、青山健煕 『北朝鮮 悪魔の正体』[5]

小泉も、記者会見で、金正日から謝罪を受けたことを明らかにした。

拉致問題は、国民の生命と安全に関わる重大な問題であり、今般、拉致の疑いのある事案に関する情報が提供されましたが、金正日委員長に対し強く抗議しました。同委員長は、過去に北朝鮮の関係者が行ったことを率直に認め、遺憾なことでありお詫びすると述べました。 — 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

そして、処罰したとされるのが、チャン・ボンリムキム・ソンチョルであった[5]。2人は1998年、職権濫用を含む6件の容疑で裁判にかけられ、チャンは死刑、キムは15年の長期教化刑に処せられたという[5]

しかし、この2人は対外情報調査部の副部長であって、作戦部副部長ではない[5]。この2人は1997年8月の「調査部事件」で粛清された2人であって拉致問題とはまったく関係がない[7]。また、対外情報調査部は工作船を有しておらず、工作船を用いた拉致事件は労働党作戦部によるものである[5]。したがって、日本人拉致問題の責任を負うべきは、拉致の指示を出した金正日自身以外には、作戦部長だった呉克烈だったはずである[5][注釈 4]

日本側の安否確認に対しては、北朝鮮側は地村保志浜本富貴恵蓮池薫奥土祐木子の4人の生存を明らかにし、横田めぐみ田口八重子市川修一増元るみ子原敕晁松木薫石岡亨有本恵子の8人を「死亡」と発表した[8]。 さらに、日本側も把握していなかった曽我ひとみの拉致・生存と、横田めぐみの娘の生存も明らかにした[8]久米裕曽我ミヨシについては入国自体を確認できないとした[8]

不審船事案

[編集]
私より不審船事案が繰り返されてはならないと発言し、金正日委員長はこれは軍部の一部が行ったものと思われ、今後更に調査をしたい。このような問題が一切生じないよう適切な措置を取る旨発言をされました。 — 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

核開発疑惑

[編集]
核開発疑惑は国際社会の懸念事項であり、今回、金正日委員長は関連する全ての国際的合意を遵守することを明確にしました。 — 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

実際には、その後も核実験やミサイル開発が行われており、同年12月に寧辺核施設を再開を表明すると、翌年1月には核拡散防止条約(NPT)即時脱退を表明する事態となった(北朝鮮の核実験北朝鮮によるミサイル発射実験等を参照)。

国際関係

[編集]
これで、日朝間の諸懸案が解決したわけではありません。重大な懸念は引き続き存在します。しかし、諸問題の包括的な促進が図られる目処がついたと判断しました。問題解決を確かなものとするためにも、正常化交渉を再開させることといたしました。更に、不審船や拉致問題等日本及び日本国民の安全に関わる問題や、地域の安全保障問題につき、日朝間で安全保障協議を立ち上げたいと思います。 — 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

同年10月29~30日、クアラルンプールで日朝国交正常化交渉第12回本会談が開催された[9]。同年11月にも日朝安全保障協議(局長級)を開始することで合意を見た[9]が、開催には至っていない。

米朝関係については、金正日委員長より、常に対話の門戸を開いている。日本からもこのことを伝えて欲しい旨の発言がありました。南北関係については、金正日委員長は、協力関係が円滑に進んでいると述べました。今後とも、日米韓三カ国をはじめとする関係諸国が緊密に連絡を取り、朝鮮半島の緊張を緩和し、この地域の大きな平和を作っていきたいと思います。 — 小泉純一郎、日本国外務省:小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)[3]

翌2003年(平成15年)以降六者会合の場が設けられた。

第2回日朝首脳会談(2004年5月)

[編集]
2004年5月、第2回会談

2004年(平成16年)5月22日、平壌の大同江迎賓館で、前回と同じく小泉純一郎と金正日が行った。

会談終了後、会見冒頭で小泉は次のように述べた。

私が今回2度目の訪朝をした最大の理由は、両国にとって日朝平壌宣言、2年近く前、9月17日、共同宣言を発出いたしましたけれども、この日朝平壌宣言を誠実に履行することが極めて重要である、このことを金正日国防委員長と再確認するため、それが最大の理由です。(中略)大局的な話をしたいということで、今回敢えて再訪朝いたしました。そして、率直に会談を行い、お互い日朝平壌宣言が日朝関係の基礎であるということを再確認いたしました。 — 小泉純一郎、首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見[10]

議題

[編集]

日本人拉致問題

[編集]

北朝鮮に残留する、帰国した拉致被害者5名の家族の日本帰国について議題となった。

拉致の問題につきましては、家族5名、蓮池さん、地村さん、ご家族の方5名と本日、私たちと共に日本に帰国いたす運びとなりました。ジェンキンズ[注釈 5]氏をご主人に持つ曽我さん、このご家族の問題についても、金正日国防委員長とお話ししましたが、金正日委員長はジェンキンズ氏の判断に任せると、自分は家族が離散することを望まないと金正日委員長は言いました。 — 小泉純一郎、首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見[10]

このように、家族の日本帰国は地村家と蓮池家の家族5人の帰国が認められ、曽我家の家族は後日第三国にて話し合うことになった。同年7月9日、曽我一家は第3国のインドネシアで再開し、最終的に7月18日、曽我ひとみの夫と娘2人が日本へ「帰国」[注釈 6]した。

安否が不明の方々、行方不明等、この問題について、日本の家族の方々はまだ生きていると信じておられるのだから、この方々について直ちに、改めて、本格的な再調査をするように約束を求めまして、これも同意を得ました。 — 小泉純一郎、首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見[10]

「死亡」・「不明」の10人について、北朝鮮側がから再調査の約束を取り付けたが、拉致被害者家族会では「もうすでに北朝鮮は十分な資料を持っているはず」とし、今回の小泉総理の訪朝の成果を強く批判した[要出典]

核、ミサイル開発

[編集]
核およびミサイルにつきましては、私から、完全な核廃棄が不可欠であると、国際的検証がまた必要であるということを、金正日委員長に伝えました。金正日委員長も朝鮮半島の非核化が目標である、六者会合を活用して平和的解決に向けて努力をしたい、という表明がありました。また、ミサイルについても、発射実験のモラトリアム[注釈 7]の再確認をいたしました。
 今後、日朝平壌宣言を順守していく限り、日本は制裁措置の発動はしないということも、私から発言いたしました。 — 小泉純一郎、首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見[10]

日本は、結局、同年6月「北朝鮮経済制裁二法」である特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法外国為替及び外国貿易法改正を成立させた。

人道支援

[編集]
人道支援として、国際機関を通じて25万トンの食糧、そして1000万ドル相当の医療品の支援を日本から表明いたしました。 — 小泉純一郎、首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見[10]

その他

[編集]

第2回会談に関連し、小泉訪朝における空白の10分間事件とする、デマ事件が発生した。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 朝鮮総連日本共産党によって、同国は地上の楽園と喧伝された(該当項目を参照)。
  2. ^ 日本政府が日本人拉致被害の存在(疑い)を最初に認めたのは、1988年(昭和63年)3月26日のことだった(当該項目を参照)。
  3. ^ 1977年、北朝鮮の工作員たちに対し「マグジャビ」(手当たり次第)に外国人を誘拐するよう命じたのは金正日その人であった[6]
  4. ^ しかし、呉克烈は、特に何の処分も受けず、その後も作戦部長であり続けた[5]
  5. ^ 出典ママ
  6. ^ 夫のチャールズ・ジェンキンスは米陸軍からの脱走兵だったため、在日米軍キャンプ座間において降格・禁固30日・不名誉除隊の判決を受けた。その後、2008年(平成20年)7月に、日本の永住許可を受けた。
  7. ^ 一時停止のこと。

出典

[編集]
  1. ^ 第一五四回国会、決議第五号”. 衆議院 (2002年4月11日). 2023年2月28日閲覧。
  2. ^ 第一五四回国会、決議第三号”. 参議院 (2002年4月12日). 2023年2月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 小泉総理大臣 会見要旨(於:平壌)”. 日本国外務省 (2002年9月17日). 2023年2月28日閲覧。
  4. ^ 小泉総理の訪朝に関する金大中大統領への電話連絡”. 日本国外務省 (2002年9月18日). 2023年2月28日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 青山(2002)pp.318-322
  6. ^ 「ニューズウィーク日本版」2006年2月22日(通巻993号)pp.32-34
  7. ^ 青山(2002)p.279
  8. ^ a b c 西岡(2002)pp.105-108
  9. ^ a b 日朝国交正常化交渉第12回本会談(評価と概要)”. 日本国外務省 (2002年10月31日). 2023年2月28日閲覧。
  10. ^ a b c d e 首相官邸:日朝首脳会談後の記者会見(2004年11月19日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project (2002年5月22日). 2023年2月28日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 青山健煕『北朝鮮 悪魔の正体』光文社、2002年12月。ISBN 4-334-97375-2 
  • 西岡力『金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実』徳間書店、2002年10月。ISBN 4-7505-9703-1 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]