服部保正
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄8年(1565年) |
死没 | 元和2年11月20日(1616年12月28日) |
別名 | 保政、通丸、三十郎、中 |
戒名 | 正雲、正運 |
墓所 | 湖雲寺(東京都港区) |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 服部氏 |
父母 | 服部保次 |
兄弟 | 保正、保信 |
妻 | 川井重長の娘 |
子 | 保光、保俊、保久 |
服部 保正(はっとり やすまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。通称は服部中。服部中家の祖。徳川氏に仕えて伊賀者を預かった。
生涯
[編集]天正4年(1576年)初めて出仕して徳川家康の側衆となる。のち使番となり、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは家康の眼前で敵の首級を挙げる武功を立てた。父保次は天正15年(1587年)に死去し、家督を相続。関東移封後は下総国葛飾郡に500石を与えられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に属して上田合戦に従軍。慶長7年(1602年)上総国夷隅郡に1550石を与えられ、後に常陸笠間城将となる。
慶長13年(1608年)慶長宗論では、流罪となった日蓮宗僧を駿府町奉行まで送還している。また関東諸国の巡見を命じられ、慶長16年(1611年)北関東の諸国に賊徒が蜂起すると、久永重勝・細井勝久らとともにその対応を任せ、山林に分け入って数十人を討ち取るなどその掃討に貢献した。その後は上野新田の大光院建立の普請奉行を命じられたが、慶長19年(1614年)大坂の陣が起こると、普請を中断して大坂へと従軍した。慶長20年(1615年)大坂夏の陣にも従ったが、この時に長男の保光を天王寺口の戦いで失っている。翌元和2年(1616年)に没し、家督は次男の保俊が継いだ。
服部中家の屋敷は四谷仲町(現若葉一丁目)にあり、一帯は菩提寺の湖雲寺や配下の伊賀者の屋敷が立ち並んだ。この町名は保正ら代々の服部中にちなむ。