Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

松平康親 (福釜松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平康親
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄10年(1567年)[注釈 1]
死没 元和3年2月23日[1](1617年3月30日)
別名 三郎次郎[1]、右京亮[1]
戒名 良心[1]
墓所 愛知県安城市福釜町の松平墓地
官位 従五位下 筑後守[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康
氏族 福釜松平家
父母 父:松平親俊 母:奥平定延の娘[1]
兄弟 久恒康親[1]
石川春重の娘[1]
康盛、盛重、康勝、女子2名[1]
テンプレートを表示

松平 康親(まつだいら やすちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、江戸幕府旗本福釜松平家4代当主。

生涯

[編集]

天正9年(1581年)、父の親俊が死去した[1]。康親はまだ幼年であった(「いまだいとけなし」)[注釈 2]が、型通りの家督相続が認められ、徳川家康に仕えた[1]

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国した際に、下総国香取郡武蔵国多摩郡で若干の知行地を与えられた[1]。慶長元年(1596年)に大番頭となるが、のちに辞職[1]。慶長5年(1600年)の関ケ原の合戦後、福釜の旧領に帰らせた[1]

慶長10年(1605年)8月7日、従五位下に叙せられ筑後守に任じられるとともに、家康の偏諱を与えられて「康親」と称する[1][注釈 3]。この由緒から、子孫も諱に「康」の字を用いた[1]。この慶長10年より伏見城番を務めた[1]

両度の大坂の陣にも従軍した[1]元和3年(1617年)2月23日、福釜において死去、51歳[1]

『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[2]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 4]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[3][注釈 5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 没年と享年からの逆算[1]
  2. ^ 『寛政譜』の没年と享年からの逆算では15歳となる。
  3. ^ これ以前の諱について『寛政譜』に記載はない。
  4. ^ 『寛政譜』によれば康盛は江戸牛込の光照寺に葬られた[1]
  5. ^ 初代親盛から4代康親までの墓石は、明治時代に福釜村長の杉浦源右衛門によって建立されたという[3]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.20
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19
  3. ^ a b 安城歴史の散歩道 福釜松平と箕輪・高棚の社寺めぐり”. 安城市教育委員会. 2022年9月19日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 『寛政重修諸家譜』巻第四「松平 福釜」
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/20
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

外部リンク

[編集]