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森憲二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 森 憲二 
Kenji MORI
基本情報
名前 森 憲二
生年月日 (1946-01-02) 1946年1月2日(78歳)
身長 165 cm (5 ft 5 in)
体重 65 kg (143 lb)
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県岩沼市
経歴
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森 憲二(もり けんじ、1946年5月3日 - )は宮城県岩沼市出身[1]の元プロゴルファー

来歴

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名取高校中退[2]後は阿武隈ゴルフ場[3]を経て[1]川崎国際カントリークラブでドアボーイをしながら、1966年にプロ入りする[2]

1969年日本プロでは石井裕士杉原輝雄村上隆に次ぐと同時に陳健忠(中華民国の旗 中華民国)・日吉定雄鷹巣南雄内田袈裟彦鈴村久安田春雄を抑えての4位[4]1971年日本オープンでは2日目と最終日に69をマークし、村上と並ぶ5位タイ[5] [6]と健闘。

ホームコースの川崎国際CCで行われたロレックストーナメント→ロレックスクラシックでは、1971年には初日を前後半とも3バーディずつ、ボギーは前半1、後半2の計3アンダーの69で首位スタート[7]。最終日には10番でバーディを取った橘田規アーノルド・パーマーアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国)と並び、この二人の首位争いに、9番で1アンダーになって絡むなど試合を盛り上げたが、鷹巣・矢部昭今井昌雪・パーマーと共に優勝した橘田と1打差の2位タイ[8] [9] [10]に入った。

1972年には初日にホームコースの利を生かして5アンダー67をマークし、安田と共に首位タイ[11]でスタート。最終日もホームの有利さからイーブンパーの72でまとめて通算5アンダー139で、橘田を1打差に抑えて連覇を阻止し初優勝[12] [13] [14]、賞金200万円を獲得[2]

1973年には日本のプロ競技で初めて行われたチャリティートーナメント「ソニーチャリティークラシック」[15]に出場し、初日に8バーディ、64のコースレコードをマークして首位に立つが[16]、2日目には2オーバーで内田久寿雄杉本英世大場勲吉川一雄と並んでの7位タイに後退[17]

1975年静岡オープンではミヤ・アエビルマの旗 ビルマ)の2位[18]東北クラシックでは竹安孝博・吉川と並んでの5位タイ[19]に入る。

1975年の札幌とうきゅうオープンでは初日を石井・小林富士夫高橋信雄と並んでの2位タイ[20]でスタートし、2日目には出足の2番でボギーを叩きながら7、8、9番とうまい寄せとパットで連続バーディーを取る[21]。強風に悩まされながらも[21]堅実なプレー[22]で高橋と共に4バーディー、3ボギーの1アンダーにまとめ[21]、通算5アンダー[23]139で首位タイ[21]に立った。3日目には77[24]を叩いて9位タイ[25]に後退し、最終日も浮上ならず9位タイ[24]で終わった。

1975年の関東オープンでは初日から首位を走ったが、3日目の16番で崩れ、最終的には青木功・小林・杉本・新井規矩雄草柳良夫に次ぐと同時に謝敏男(中華民国)・陳健・草壁政治河野高明・安田を抑えての6位[26]であった。同年には日本シリーズ初出場も果たし、初日には4アンダー[27]69で村上に1打差付けて首位に立ち[28]、最終的には村上・島田幸作金井清一前田新作・謝敏・中村通・青木・山本善隆に次ぐと同時に杉原・宮本康弘と並んでの9位タイ[28]であった。

1976年ペプシウィルソントーナメントでは初日を小林・金井・山本・土山録志石井冨士夫ブライアン・ジョーンズオーストラリアの旗 オーストラリア)と並んでの5位タイ[29]でスタートし、2日目にはビル・ブラスク(アメリカ)と共に首位の宮本省三と1打差の2位タイに追い上げ[30]、豪雨による54ホール短縮競技の最終日[31]ベン・アルダフィリピンの旗 フィリピン)、土山と並んでの5位タイ[32]に入った。 

1977年には中日クラウンズで3日目に謝永郁(中華民国)と1打差の2位に着け、最終日にはグラハム・マーシュ(オーストラリア)、謝永・尾崎将司と共に通算2オーバーで横一線に並ぶ混戦模様の優勝争いを繰り広げて2位に入る[33]

1977年の長野県オープンでは初日に内田繁と共に3アンダー69で並んで首位に立つと[34]、最終日には通算3アンダー141で浅井教司・アルダ・土山・新井・菊地勝司榎本七郎を抑えて逃げ切り優勝し、賞金200万円を獲得[35]

1977年の関東プロでは初日に33度の厳しい暑さでコンディションの維持に追われる中、68をマークし野口茂と並んでの4位タイ[36]でスタート。暑さに加えてピンの位置が難しくなった2日目には初日首位スタート[36]の竹安と5アンダーで並んでの3位タイ[37]、3日目には最終ホールでバーディーを取るなど8アンダーで首位タイの中嶋常幸・草壁に1打差迫る単独3位[38]となる。最終日は上位3人の争いから草壁が12番でダブルボギーを叩いて脱落し、勝負所の17番を前に13アンダーの森と2打差で追う中嶋の争いにしぼられる[39]。17番は打ちおろしでフェアウェイはS字型にカーブ、グリーンの手前にが待ち受けているロングホールであり、強引に攻めればイーグルも可能であったが、落としどころを間違うと、右側に沿って流れる小川に捕まってトリプルボギーさえ出てしまう[39]ホールであった。森は中嶋と共にフェアウェイのセンターをキープし、無理な勝負を避けて池の手前に落とす安全なコースを選択[39]。一方の中嶋は森を10mほどアウトドライブし、4番ウッドで2オンを狙う勝負に出たが、第2打は池は越えたものの、サブクリーンの手前でアプローチも8mほどショート[39]。ここで勝敗は九分通り決まり、ピン横2mに3オンした森がバーティーを決めて勝利を不動とし、通算13アンダー275で公式戦初優勝[39]を飾る。森は観客に帽子を投げ込んで大喜びした[40]ほか、試合後にはホールアウトした森を、安田・矢部・田中文雄川田時志春らプロ仲間が待ち受け、スコアカードを入念に調べた後にグリーン上で森を胴上げ[41]した[39]

1977年の日本国土計画サマーズでは上野忠美と並んでの4位タイ[42]に入り、同年の日本シリーズでは2日目に68をマークし、中嶋と並んでの10位タイ[43]に入った。

1979年の中日クラウンズではパットが好調で[44]、初日には激しいが降る悪コンディションの中、小さく起伏も激しく、ほぼ半分は盛り上がった砲台型のグリーンを「グリーン奥や両サイドにこぼすと大変なことになる」と読んで、グリーンの手前から丁寧に攻めた[45]。青木と共に度々フェアウェイを外しながらも、無理をせずセオリーを忠実に守る慎重なゴルフで3アンダー67の好スコアに結び付けて[45]首位タイとなったが、2日目は最大瞬間風速10mを記録する強風が吹き荒れたため距離感が掴めず、17、18番でグリーンオーバーを続けるなど、スコアを4つ落とし5位に順位を下げた[44]。最終日は首位と1打差でスタートしたが、3番で3mを外すと極度の緊張からか、7番まで5連続ボギーを叩いて転落し、鷹巣と並んで5位タイに終わった[44]

同年の第1回かながわオープン[46]では初日を首位に5打差の18位[47]でスタートし、最終日には途中まで首位を走っていたアマチュアの羽川豊が終盤崩れると、この日4アンダー68で回った森が逆転[47]。通算1アンダー143でプロ入り4勝目を挙げ、賞金200万円を獲得[47]

続く関東オープンでは新井・尾崎と並んでの2位タイ、日本国土計画サマーズでは最終日には吉川と共に追い上げて2位タイ[48]KBCオーガスタでは鈴木規夫・小林と並んでの4位タイ[49]に入った。

1980年阿蘇ナショナルパークオープンでは吉川・高橋純一・杉本・河野・横島由一と並んでの7位タイ[50]、連覇を狙った第2回かながわオープンで5位タイ[51]美津濃トーナメントでは鈴木・横島・内田・橘田光弘天野勝に次ぐと同時に松井功・金井・謝永・宮本と並んでの6位タイ[52]に入る。

1980年の日本国土計画サマーズでは初日はだけでなくにもコースが覆われてスタートが45分も遅れたが、ぬかるんだコースの9番ホールで抱腹絶倒の珍事を起こす[53]。森は船渡川育宏と同じ組で、第1打を左のラフに打ち込んだが、第2打をサンドウェッジで振り抜いた瞬間、ボールが消える[53]。森は「あれ?ボールはどこだ」と一瞬戸惑って「埋め込んじゃったのかな」と足元を見直したがどこにもなく、クラブフェースを見てみると、そこに団子状になり、ボールもそこにくっついていた[53]。判断に迷った森は、同伴競技者である金井の顔の前にそのクラブヘッドを突き出しながら「ねえ、金井さん、これどうしたらいいの?」と言うと、困った金井は「え?分かんないよ」といきなりその場から走って逃げだし、森はクラブを突き出しながら「そんなこと言わないで教えてよ」と追った[53]。前代未聞の鬼ごっこを見た周囲は、腹を抱えて笑うしかなかった[53]。森は結局元の場所に戻り、クラブを地面に置いてやっと取れたが、これでも1打の計算になり、このホールはダブルボギーの6と当時の記録に残された[53]

1981年の日本オープンでは2日目にグリーンを外しながらも寄せやすいところばかりで助けられ、連日パープレーの通算イーブンパーで首位に立つ[54]。3日目には69をマークして1アンダーで首位を守り、首位スタートで迎えた最終日は2番のトリプルボギーで一旦後退したが、その後3バーディーで盛り返し、12番でボギーとして通算イーブンパーになった[54]。13番以降3ホールを1パットパーで切り抜けるなど粘ってスコアを守り、18番もグリーンを外してアプローチで1mになる[54]。見守る羽川はプレーオフを覚悟していたが、18年目のベテラン森はプレッシャーに押しつぶされたのか、そのパーパットを外す[54]。新鋭の羽川と激しい競り合いを繰り広げた末、中嶋と並んでの2位タイ[55]に終わった。

1982年新潟県オープンでは山本・謝敏に次ぐと同時に鈴木・秋富由利夫牧野裕を抑えての3位に入り[56]、関東プロでは初日を69で謝敏・尾崎将・榎本・湯原信光長谷川勝治海老原清治・青木・杉本と並んでの6位タイ[57]でスタートし、2日目も続いて69で川波通幸中村俊明と並んでの5位タイ[58]、3日目も69で謝敏・安田と並んでの3位タイ[59]とし、最終日も69で青木基正から2打差の2位[60]に終わった。広島オープンでは初日を尾崎将・横島・小林・青木・鷹巣・栗原孝・秋富と並んでの9位タイ[61]でスタートし、3日目には謝敏・坂下定夫と並んでの5位タイ[62]に着け、最終日には川田・中村・石井秀夫海老原清治高井吉春と並んでの9位タイ[63]に入った。

1983年の中日クラウンズでは最終日の12番で首位スコット・シンプソン(アメリカ)に並ぶなど追い上げを見せたが、その後が続かず後退し、マーシュ・泉川ピートと並ぶ8位タイ[64]に終わった。

1983年の大京オープンでは3日目に山本・宮本と並んでの6位タイ[65]に着け、最終日には森本俊治と並んでの10位タイ[66]に入った。

1984年群馬オープンでは初日に岩下吉久に次ぐと同時に大町昭義・海老原を抑え、中村稔と並んでの2位タイでスタートし[67]、最終日には新井・大町・伊藤正己に次ぐと同時に泉川・川田・岩下・土山・中村と並んでの4位タイ[68]に入った。

1984年の大京オープンでは3日目に岩下・湯原・鈴村照男・鈴村・川上典一と並んでの4位タイ[69]に着け、最終日には草壁と並んでの5位タイ[70]に入った。  

1986年の東北クラシックでは宮本・高橋五月・前田と並んでの10位タイ[71]に入るが、宮本・高橋と共にレギュラーツアーでの最後の十傑入りとなる。

1988年テーラーメイド瀬戸内海オープンでは初日に7アンダー65のコースレコードで単独首位に立ち[72]、2日目には75とスコアを崩しながらも通算4アンダー140で単独首位を守ったが[73]、最終日にはウェイン・スミス(オーストラリア)の逆転を許すと同時に三上法夫に並ばれての2位タイ[74] [75]に終わる。

1992年の第一カップ[76]を最後にレギュラーツアーから引退。

主な優勝

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レギュラー

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  • 1972年 - ロレックスクラシック
  • 1977年 - 長野県オープン、関東プロ
  • 1979年 - かながわオープン

著書

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脚注

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  1. ^ a b 森憲二『100を切る森憲二のインドアゴルフ (SPORTS NOW)』高橋書店1989年3月1日ISBN 4471141910
  2. ^ a b c 朝日新聞縮刷版p398 昭和47年11月12日朝刊18面「森、マイホーム優勝 尾崎17位、パーマー19位 ロレックス・ゴルフ
  3. ^ 阿武隈ゴルフ場(閉鎖) |【楽天GORA】
  4. ^ 第37回日本プロゴルフ選手権(1969年)
  5. ^ 第36回日本オープンゴルフ選手権(1971年)
  6. ^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
  7. ^ 朝日新聞縮刷版p185 昭和46年11月6日朝刊21面「第1日、森が首位に ロレックス・クラシック
  8. ^ 朝日新聞縮刷版p218 昭和46年11月7日朝刊20面「橘田規が優勝 パーマー・森に1打差 ロレックスクラシック
  9. ^ “Arnold Palmer shares second in 4th Rolex Classic”. Palladium-Item. UPI (Richmond, Indiana): p. 24. (7 November 1971). https://www.newspapers.com/image/251881255/ 6 February 2021閲覧。 
  10. ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)
  11. ^ 朝日新聞縮刷版p363 昭和47年11月11日朝刊19面「尾崎どん底 パーマーも振わず ロレックス第1日
  12. ^ McCormack, Mark H. (1973). The World of Professional Golf 1973. Collins. pp. 536–537. ISBN 0002119463 
  13. ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年)
  14. ^ 第88回 川崎国際生田緑地ゴルフ場| ブログ|桜ゴルフの会員権相場情報
  15. ^ 2003選手紹介
  16. ^ 朝日新聞縮刷版p453 昭和48年7月13日朝刊19面「杉本・大場ホールインワン エアロ慈善ゴルフ」
  17. ^ 朝日新聞縮刷版p489 昭和48年7月14日朝刊19面「木本、レガスピが首位に エアロ慈善ゴルフ」
  18. ^ McCormack, Mark H. (1976). The World of Professional Golf 1976. Collins. pp. 171, 493–494. ISBN 000211996X 
  19. ^ 朝日新聞縮刷版p263 昭和50年6月9日朝刊19面「尾崎、待望の1勝 東北クラシック三連覇 青木の猛追退ける」
  20. ^ 朝日新聞縮刷版p392 昭和50年6月13日朝刊16面「陳健忠トップ 2位に石井、森ら4人 とうきゅうオープン・ゴルフ」
  21. ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p429 昭和50年6月14日朝刊17面「高橋と森が首位に並ぶ 陳健は6位に後退 とうきゅうオープン・ゴルフ」
  22. ^ 森憲二(川崎国際) 男子プロゴルファー “第3回札幌とうきゅうオープンゴルフ” 第2日
  23. ^ 1975年06月13日 首位に立った森憲二 札幌とうきゅうゴルフ
  24. ^ a b 朝日新聞縮刷版p486 昭和50年6月16日朝刊18面「最終パットで優勝決めた マーシュ競り勝つ 宮本・謝永の猛追かわす とうきゅうオープン・ゴルフ」
  25. ^ 朝日新聞縮刷版p459 昭和50年6月15日朝刊15面「村上が首位奪う 5打内にひしめく17人 とうきゅうオープン」
  26. ^ 【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】姉ケ崎カントリー倶楽部。「シャンメェ」の青木功が我慢のゴルフで大会2連覇。1975年関東オープン
  27. ^ 森憲二(川崎国際) 男子プロゴルファー “第12回ゴルフ日本シリーズ” 第1日
  28. ^ a b ゴルフ日本シリーズの歴史 第12回 - GOLF報知
  29. ^ 朝日新聞縮刷版p622 昭和51年5月21日朝刊16面「宮本省リード 尾崎ら二位三人 ペプシ・ゴルフ」
  30. ^ 朝日新聞縮刷版p695 昭和51年5月23日朝刊15面「宮本省首位守る ペプシ・ゴルフ」
  31. ^ 武藤一彦 (2021年9月28日). “ツアー最長プレーオフ 14ホールの死闘/残したいゴルフ記録”. ゴルフダイジェスト・オンライン. 2023年6月18日閲覧。
  32. ^ 朝日新聞縮刷版p723 昭和51年5月24日朝刊19面「死闘!プレーオフ14ホール トムソンが優勝 ペプシ・ゴルフ」
  33. ^ 宿願のタイトルを逆転で掴んだG・マーシュ
  34. ^ 朝日新聞縮刷版p227 昭和52年7月7日朝刊17面「森・内田がトップ 長野県オープン」
  35. ^ 朝日新聞縮刷版p262 昭和52年7月8日朝刊16面「森、逃げきり優勝 長野県オープンゴルフ」
  36. ^ a b 朝日新聞縮刷版p138 昭和52年8月5日朝刊16面「竹安9アンダー、首位 関東プロゴルフ」
  37. ^ 朝日新聞縮刷版p171 昭和52年8月6日朝刊15面「草壁・中島が並ぶ 関東プロゴルフ第二日」
  38. ^ 朝日新聞縮刷版p205 昭和52年8月7日朝刊19面「草壁・中島が激戦 森も8アンダーで迫る 関東プロゴルフ第三日」
  39. ^ a b c d e f 朝日新聞縮刷版p225 昭和52年8月8日朝刊7面「森13アンダー、逆転 関東プロゴルフ」
  40. ^ 森が公式戦初優勝 関東プロゴルフ最終日
  41. ^ 森憲二(川崎国際) 男子プロゴルファー “関東プロゴルフ選手権 最終日 優勝
  42. ^ 朝日新聞縮刷版p638 昭和52年8月22日朝刊18面「中島常が逆転勝ち 国土計画サマーズゴルフ」
  43. ^ ゴルフ日本シリーズの歴史 第14回 - GOLF報知
  44. ^ a b c 混戦を制し、青木史上初の2連覇達成
  45. ^ a b 朝日新聞縮刷版p989 昭和54年4月27日朝刊19面「青木・森が首位に 雨に負けず3アンダー クラウンズ・ゴルフ」
  46. ^ 歴史 | 横浜カントリークラブ
  47. ^ a b c 毎日新聞縮刷版p85 昭和54年5月3日朝刊15面「森が逆転優勝 アマ羽川二位 かながわオープン
  48. ^ 朝日新聞縮刷版p185 昭和54年8月6日夕刊7面「三上が初優勝 サマーズゴルフ」
  49. ^ 朝日新聞縮刷版p889 昭和54年8月27日朝刊19面「草壁、逆転で初優勝 強風ついて12アンダー KBCオーガスタ・ゴルフ 最終日」
  50. ^ 毎日新聞縮刷版p219 昭和55年4月7日朝刊17面
  51. ^ 朝日新聞縮刷版p228 昭和55年7月6日朝刊16面
  52. ^ 第10回 1980年(昭和55年)|ゴルフ|ミズノ公式オンライン
  53. ^ a b c d e f 9打差逆転!トラブル・珍事連発の末に前代未聞のフィナーレ 1980年日本国土計画サマーズ【名勝負ものがたり】
  54. ^ a b c d 第46回日本オープンゴルフ選手権(1981年)
  55. ^ JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
  56. ^ 朝日新聞縮刷版p445 昭和57年7月12日朝刊19面
  57. ^ 朝日新聞縮刷版p1126 昭和57年7月30日朝刊16面「川波が初日首位 2位に羽川ら 関東プロゴルフ」
  58. ^ 朝日新聞縮刷版p1168 昭和57年7月31日朝刊18面「謝、一気に首位へ 関東プロゴルフ」
  59. ^ 毎日新聞縮刷版p19 昭和57年8月1日朝刊19面「青木基首位奪う 新井に3打差 関東プロゴルフ第三日」
  60. ^ 毎日新聞縮刷版p33 昭和57年8月2日夕刊9面「"影武者"が表に出て来た 青木基がプロ初V 森に2打差 関東プロゴルフ最終日」
  61. ^ 朝日新聞縮刷版p935 昭和57年9月24日夕刊17面「草壁ら三人並ぶ 広島オープンゴルフ」
  62. ^ 朝日新聞縮刷版p998 昭和57年9月26日朝刊16面「羽川がトップ 広島オープン」
  63. ^ 朝日新聞縮刷版p1032 昭和57年9月27日朝刊18面「栗原が逆転優勝 羽川2位 広島オープンゴルフ」
  64. ^ 3人のプレーオフを制した小技の名手・陳志明
  65. ^ 朝日新聞縮刷版p404 昭和58年12月11日朝刊16面
  66. ^ 朝日新聞縮刷版p438 昭和61年12月12日朝刊18面
  67. ^ 朝日新聞縮刷版p306 昭和59年7月8日朝刊16面
  68. ^ 朝日新聞縮刷版p340 昭和59年7月9日朝刊18面
  69. ^ 朝日新聞縮刷版p343 昭和59年12月9日朝刊17面
  70. ^ 朝日新聞縮刷版p377 昭和59年12月10日朝刊19面
  71. ^ フルリーダーボード 東北クラシック 1986 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
  72. ^ 朝日新聞縮刷版p1131 昭和63年3月25日朝刊23面「ベテラン森初日首位に 瀬戸内海オープンゴルフ」
  73. ^ 朝日新聞縮刷版p1194 昭和63年3月26日朝刊24面「森トップ守る 瀬戸内海オープン」
  74. ^ 朝日新聞縮刷版p1285 昭和63年3月28日朝刊23面「スミス逆転優勝 瀬戸内海オープン」
  75. ^ McCormack, Mark H. (1989). World of Professional Golf 1989. Collins Willow. pp. 276, 501. ISBN 000218284X 
  76. ^ 森 憲二選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site

外部リンク

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